死者の宮殿にて2
「名前を奪って対象の自我を曖昧にするというのは、少し古いやり方ではあるけれど使役に通じる術全般でポピュラーな手段の一つね。それが薬物によるものか何かしらの術理によるものかは、定かではないけれど。それが誰だか知らないけれど、もしそうだとしたらあなたよほど誰かさんに執心されているようね」
呆けたような様の男の手を引きながらヴィオレッタはそう言った。
「誰がそんなことを」
「さあ? そういうものもあると知ってはいるけれど、私は専門家ではないもの。誰かに何かされたんじゃないかという考えも現状ではちょっとした陰謀論みたいなものでしかないしね」
「目覚めてこちら、どんどん状況が悪化していくな」
あいもかわらず続く廊下をひたすらと進む、延々続く先に見、薄明かりの向こうにいつまでも居座る垂れ込めたような闇はこの先の道行きを暗示しているかのようだった。
重く溜め息をつく男にヴィオレッタは曖昧な表情を浮かべ、ローブのフードを改めてまた目深にかぶり直した。そしてそれまで前へ前へと道先を導くように引いていた男の腕を今度は逆に引き男の歩を止める。
いまだ思考に虚ろなところがすくっているのか男の顔には大分色が失せていたが、それでもゆるりと巡り向いた男の視線を確認するように間をとり、ヴィオレッタは男に向き直った。
「一つ朗報もあるわ」
「ここから少しでも状況が良くなるってんならぜひとも聞かせてもらいたいね」
「薬物の場合はその限りではないけれど、魔術的な手段で名前を奪われてそのままの状態で長くいるとだんだん自我が希薄になっていき最後には精神が壊れる」
「何かを考える頭がなければ人生幸せってか」
男の皮肉にヴィオレッタはフードの奥でふっと息をもらした。
「勿論違うわ。仮の名前を定めておけばそのあたりは回避できるということを私は知っている。ほら、有用な情報でしょう。これでさしあたって何も知らないまま人形になる心配はなくなったわ」
「偽名を名乗ればいいってことかい」
「端的には、そうね」
言われ、男は暫し考えるような仕種をしてから改めてヴィオレッタに顔を向けた。
「だったら、本当の名前が戻るまではダミーとでも呼んでくれ」
「即決ね。悪いことではないけれど、あなたもしかして偽名を名乗るのに慣れているの?」
「馬鹿いえ。そんな頻繁に名前が変わるような後ろ暗い生活はしてこなかったよ」
「そう。まあ、はやく自分の名前を取り戻せるように頑張りなさいな。仮の名前が定着すればそれはそれで面倒なことになるしね」
「おい、まだ悪くなるのか、これは」
「そちらはそれこそ数十年は先の話になるわ。さしあたりの障りはないから、この場で私に命名魔術の講義を請うような事はしないでね」
にべもなくそう結び、ヴィオレッタはまた廊下を歩き出した。その背中に追従しながらダミーはそれまで続いていた頭痛と思考にかかっていた妙なもやのようなものがすっと消えていくのを感じていた。
「効果覿面だな」
「深く感謝してくれていいわ」
ヴィオレッタのおどけたような物言いにも割に素直に笑うことができた。
「ああ、ありがとう。たすかった」
「馬鹿ね。助かった、なんて言葉はここを無事にでられてからよ」
その時は彼女のこんな言葉も軽く受け止めていたが、その本来の意味をダミーはごく近い内に実感することになる。
「無理無理無理無理、無理、無茶、無体」
ダミーの口から次々ともれる弱音にヴィオレッタは深い溜め息とともに肩を落とした。先のやりとりから暫し歩いた先、廊下のいったんの終端となる部屋の前に二人はいた。
開けた空間だった。端から見る分には二十メートル四方といったところか。調度品の類いはなく、その両端にある鉄扉とぼんやりとした照明だけがあるだけの殺風景な部屋だ。
それだけならば、ただ通り抜けるだけで済むような場所だったのだが、そこをうろついている存在がそれを阻んでいた。アンデットだ、それも手に手に剣だのナイフだの棍棒だのと武装した。
「他にルートはないのか」
「ここまで一本道だったでしょうに。ここの反対は更に下に続く道なのだから、文字通り墓穴よ。だからここが正規ルート、ここを抜けるかここで朽ちるかの二択よ」
「やるしかないってことか、クソ」
「幸い階級にも入らないような粗悪品のスケルトンばかりよ、下手に恐れて尻込みしなければ怪我をする心配もいらない。肩口から斬り潰すか、胴を薙ぐかしなさい、それで楽に倒せるはずよ。もう少しの勇気があれば武器腕を切り落とすのも有効ね。位置関係をしっかり把握して後ろをとられないように注意しなさい」
「堂にいったアドバイスありがとう。この言い方が適切かどうか知らんが随分手慣れてるな」
「そのあたりはもう少しお互いをよく知ってから気が向いたら話しててあげるわ。ほら、ちょうど良い位置で向こうを向いたわ。ちゃんと足を使って間合いをはかるのよ、いきなさい」
ヴィオレッタの言葉を背に受け、ダミーは部屋の中に駆け込んだ。そして間近で後背をさらす骨人間に躍りかかる。
上段から袈裟に振るわれた段平が骨人間の肩口を捉え、乾いた土くれが砕けるような音と共にその身を二つに斬り砕いた。同胞の砕け散る音に三々五々他のスケルトンが反応し武器を揺らす、が、その頃にはダミーが次の一体に接近しその胴体を上下泣き別れにしていた。
「あと四体よ」
「おおぉっ!」
ヴィオレッタの声に獣じみた声で応じながら、ダミーは先に斬り倒したスケルトンの腕から棍棒をもぎ取り、手近に立つもう一体に投げ放った。矢のように飛んだ棍棒がスケルトンの頭を土くれのように粉とし、頭を失った胴体は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「あと二体」
のろのろと寄ってきていた更に一体を袈裟懸けに斬り捨て、また走り出す。途上に立つ一体を走りがけに段平に斬り掛けに断ち、最後の一体もこれが最後と振り下ろされた上段唐竹によって地面に崩れた。
「……よし」
「驚いた。散々臆病風吹かせてた割にはあなた結構思い切りがいいのね」
「脆くて遅かったからな」
部屋の中に歩み入ってきたヴィオレッタに見せるようにスケルトンの残骸に足を乗せ踏み砕いてみせる。ダミーの言葉通り表面にカルシウムの粉の吹いたしゃれこうべはさくりと軽い音を発してつぶれた。
「ただ、それらが……いえ、今あえて言うことでもなかったわね。ごめんなさい、忘れて頂戴」
「死者の尊厳、てやつか。あー……たしかに今のはまずいことをしたな」
気まずそうに顔をしかめ、手を合わせる。ダミーのその仕種をヴィオレッタは不思議そうに眺めていた。
「それって、アンラク式の慰霊よね。あなたアンラク人なの?」
「……ああ、そうだよ」
「嘘ね」
ぴしりと、斬りつけるような声だった。
ダミーが顔をあげると、いつの間にか間近に立っていたヴィオレッタの紫紺の瞳が、じ、と見上げてきていた。
「……動揺したわね? あなたが何を思ってそんな下らない嘘を言ったのか知らないけれど、身分を偽るならもっと上手にやらないといらないトラブルを呼び込むわよ。いわんや、この世界での最低限の身分すら持たない異世界人のあなたなら、ね」
「カマをかけているつもりかい、生憎と無い袖は振れんぞ」
そう、肩をすくめてみせる、と。ヴィオレッタの瞳がきゅうと刃のように細まった。線の細い容貌と相俟って、そうしていると美少女といっていい整った容姿がとたん鋭さを帯びて獲物を狙う肉食獣のような迫力を発する。
「それも嘘ね。それも嘘よ。何を隠しているのかしら、何をそんなに恐れているのかしら、私はあなたを知らないけれど、何がこんな見るだに無力な小娘をあなたにとってそこまで恐るべきものに見せているのか、実に興味深いわね」
「その無力な娘の真偽を俺に確かめさせたいのか」
段平の刃先をヴィオレッタに突き付ける、錆の浮く刀身は贔屓目に見てもそれがなまくらに類するものであることを一目に知らせるものであっただろうが、それでも斬れば死ぬ人類にはそれなり以上の脅威であっただろう。
だのに、ヴィオレッタはそれを恐れる風もなくうっすらと笑んでみせた。
「何も知らないような風体で、たった数体の雑魚を恐れてみたり、かと思えばそれらをやけに手慣れて始末してみせたり、わざわざ助けた小娘に剣を突きつけてみたり、私にはあなたが分からないわ。ミステリアスな人ね、不思議な人ね、怪しい人だわ。根掘り葉掘に全て暴いてしまいたい気持ちはあるけれど、それをしようとすればきっとあなたは私を嫌いになってしまうのでしょうね」
矢継ぎ早にそこまでを語り、少女はくつくつと肩を揺らす。何か、とはダミーには知れなかったがその何かがおかしくてたまらないとでもいうように。かなり、不気味だった。
「……私、あなたの事、好きよ?」
「奇遇だな、俺も見目が良くて性格が良くて、ついでに下手に人の詮索をしない思いやりのある娘が好きなんだ」
ダミーの言い回しに、ついにというべきなのかヴィオレッタは腹を抱えてけたけたと笑いはじめた。
「なるほど、なるほど、だったら私達は相思相愛というわけね」
「ついでに料理が上手くて、大口あけての大笑いなんてしないおしとやかさもあれば完璧」
「ふふ、後者については今後の課題ね。前者についてはここを抜けたら披露してあげるわ」
「それは楽しみだ」
段平を下ろし、ダミーも苦笑いに近い笑みを浮かべた。ひとしきり、ヴィオレッタの笑みがおさまると、彼女は急に真面目くさった表情でダミーを見た。
「大好きなあなたのために純粋な好意で忠告させてもらうけれど、今後人に接触することがあるならカバーストーリーをしっかり練っておかなければ厄介な事になるわよ。敵対者の密偵、ドッペル、堕天星、素性不明の怪しい人間に重ねられる危険な正体に関しては今この世界では事欠かないわ」
「今後の課題としておこう」
「ふふ、長くなったわね。そろそろいきましょう」
にこりと、邪気のない顔で笑ってダミーから身を離し、少女は鉄扉の方に歩いていった。
少女の手がかかり、鉄扉がずるずると開いていく。そして、唐突にそのままぱたりと閉じた。
「どうした。また何かいたのか」
扉の前で物言わず固まったローブの背中に近づく。その距離が近くなると、ヴィオレッタが肩を震わせ何かをぶつぶつと呟いているのが聞こえてきた。
「……アホが、馬鹿が、クソが、ちくしょうが、なんだってのよクソが、クソが、クソが……」
呪詛のように呟かれる罵詈雑言に、ダミーは未だよく分からないところのほうが多いこの少女のまた新しい一面を垣間見たような気がした。心の底から全く嬉しくなかったが。
とりあえずと、ダミーはヴィオレッタの脇から鉄扉に手をかけ少し開いてみた。恐らくそのむこうにヴィオレッタをこんな状態にした原因がいるのだろう。
開いた隙間からその向こうがわを覗いてみる。そして、ダミーはそのまま静かに閉じるとヴィオレッタの肩を励ますようにぽんと叩き、そしてそのとなりにしゃがみこみ頭を抱えた。
「……アホが、馬鹿が、クソが、ちくしょうが、なんだってんだクソが、クソが、クソが……」
二人の呪詛じみた呟きはそれから随分長いこと続いていた。