死者の宮殿にて1
あなや、かなし。ゆけどきえぬ面影よ。
その名残いかにせんと。
どこか深いところに沈んでいたものが浮き上がるようにうつろな意識がふわりと明らかになる。酷い頭痛と倦怠感が肉の身を苛んでいた。冷えきり、感覚の鈍い右手でこめかみのあたりを揉みほぐしながら身を起こす。身を起こしてから、それまで自分が固く冷たい地面の上に寝ていた事を自覚する。
「どこだ、ここ」
眼窩の奥で暗い光が明滅しているようだった。気分は最悪だったがそれをおして周囲を見回す。
そこは粗い石材で組まれた石室のような空間だった。広さとしては五メートル四方といったところだろうか、調度品の類は無く目に見える要素を言葉にすれば、石壁、格子のはまった小窓、見るに頑丈そうな鉄扉の3つで足りてしまう。
「……牢獄、か?」
何気なく口にした印象ではあったが、どうもこれがしっくりくる。なるほど自分は閉じ込められているのか、と。
ついで湧く疑問は、やはり何故自分がこのような場所にいるか、だった。
思考を巡らせてはみるが確とした答えは浮かんでこない。
では、覚えている内で一番新しい記憶は何だろうか。この答えはぼんやりとだがすぐに浮かんだ。
そう、たしか、車を運転していたのだった。出先からの帰路の最中だった筈だ。家に帰りついた記憶はないから、その道中で何かあったのだろう。
「何かって、なんだよ」
自問するが、その答えはさっぱりと見当がつかない。
酷く凝り固まった体の調子を少しずつ確かめるように立ち上がる。倦怠感はあったがどこそこが動かないというわけではなさそうだった。
歩を進めた先はいかにも頑丈そうな鉄扉の前。手をかけ押し、そして引き、それがびくともしない事を理解すると我知らず溜め息がもれた。
「まあ、当然だわな」
閉じ込められている、という認識が間違いでないことが明らかになる。小窓のほうには手をつけない、位置がかなり高いのだ。三メートル強、手をつけないというよりは文字通り手が届かないのだ。目のあらい石壁をよじ登るという考えも浮かんだが、実際に壁に触れてみてやめた。目に見えて朽ちた感のする石壁の凹凸は手に触れた端からぼろぼろと剥がれ、とてもではないが体重をまかせることはできそうになかった。
「手詰まりか? いや」
ぺたぺたと、もといぼろぼろと四方の壁に触れていると、一ヵ所感触の違うところがあった。ちょうど鉄扉と石壁の境になっている部分だ。材質の違いか、それとも可動部に触れていたせいか、壁の劣化が激しくなっているようだった。
少し強めに蹴りつけると土くれが砕けるような感触とともに穴があく。相当脆くなっていたようだ。
「石が土くれになる、というと、かなり古い施設なのか……?」
考察もそこそこに、同じ事を幾度か繰り返すと扉と壁との間にそれなりの隙間ができる。残念ながら身を通す程の大きさにはならなかったが腕の一本くらいならそこそこ自由に通せそうだった。
隙間に顔を寄せ外をうかがってみる。対面には、おそらくこの部屋と同じつくりになっていると思われる鉄扉と、薄暗い照明に照らされた通路のような空間が見えた。首を少し無理矢理に巡らせ鉄扉を観察し、そのおおよその全形を確認すると思わず声がもれた。
この牢獄の閂はかなり簡素な構造をしているように見受けられた。具体的には鉄扉の鉤に鉄棒を通してつっかえにしているだけのものだった。
これなら、隙間から手を掛ければ閂を開けられるのではないだろうか。さっそく隙間に手を差し入れ鉄扉の閂を探る、と、予想以上に軽い感触で鉄棒が手に掛かり、落ちた。
つっかえの落ちた鉄扉がずるずると音を立て開く。
冷たく乾燥した空気が頬を撫でた。石壁の隙間から覗いた時につけた大方の予想に違わぬ廊下とそこに列なる鉄扉の列がそこにあった。
「どこだ、ここ」
ほんの少し前にも聞いたような言葉が口をついてでた。見れば闇の向こうにまで長く長く続くのがみてとれる廊下に、途方にくれるような気分が湧く。
その時だった。かりかりと、何か硬質なものを引っ掻くような音が耳に届く。
音源に視線を向ければ先程まで閉じ込められていた部屋とちょうど対面にある部屋の鉄扉からその音はしているようだった。
「他にも閉じ込められている人間がいるのか……?」
耳を澄ませば引っ掻くような音に加え低く唸るような声も鉄扉の向こうでする。
ふらりと、それこそ反射的に鉄扉の閂に手を掛けようとしていた動きを寸前で止める。嫌な予感がしたからだ。何か根拠がある考えではなかったが、この扉を開けるとろくでもない事が起きそうな気がした。
では、どうするのだ、と。心の内で自問する。もしかしたらここに閉じ込められているかもしれない誰かを嫌な予感の一因で見捨てるのかと。ろくに現状の把握も出来ていないのに、そうして後どうするつもりなのだと。
そうして自問を重ねる内、自分がその鉄扉の向こうにいるものを恐ろしい化け物か何かと勝手に決めつけていたことに気付く。我ながら馬鹿らしい考えだと苦笑がもれた。
「誰かいるのか?」
そう声をかけてみる、言葉として返事はなかったが引っ掻くような音は叩くような音に変わり呻き声も少し大きくなった。言葉に反応したのだ。
「今閂を外す」
未だうるさいくらいに警戒をうながす嫌な予感を払拭するように、努めて明るい声を出し閂に手をかける。鉄棒はやはり見た目よりはるかに軽い感触で外れた。
蹴破るような勢いで鉄扉が開く。その勢いと、いよいよ無視のできない程膨れ上がった嫌な予感に我知らず足がさがっていた。そして、恐らくそれが結果的に身を助けた。
開いた扉から人影が倒れ込むように飛び出してくる。直前に身を引いていたためその人影はこちらに触れることなくにそのまま地面に倒れこんだ。
はじめに感じたのは腐臭だった。ついで人体にしてはあまりに赤茶けた肌の色が目についた。そして、倒れる寸前に見えたそれの面相が遅れて頭のなかで想起される。骸骨じみて骨格の剥き出した顔、眼球の収まっているはずの両の眼窩は片方が空洞でもう片方からは辛うじて繋がっているといった風情で視神経の糸に繋がれた球体が垂れていた。どう考えても生きた人間の面貌ではなかった。
地面でもがくように動いていたそれの首が上がり、ちょうど向こうから見上げるような形で見えたその顔面が想起したものと全く同じものであることを確認した瞬間、気づけば走り出していた。
「なんだあれなんだあれなんだあれ」
熱に浮かされたようにそれだけを繰り返していた。訳がわからなかった、意味がわからなかった。奇しくも嫌な予感が的中していたわけだがそれを気にする余裕もなかった。
どこかも分からない廊下を脇目もふらず逃げていた。どれだけそうしているだろう、廊下の終点は見えない。
ペースもリズムもない混乱の熱任せの疾走に早々と息が上がっていた。まともな思考すらままならない混乱の極致の内ふと前方に人影が浮かぶ。並び列なる鉄扉の一つの前に立つその人影の横顔は、僅かな希望を裏切りしゃれこうべ、死者のそれだった。そうと認識した瞬間、何故か、どういうことなのか自分でも分からないのだが、訳の分からないことを叫びながら足を速めていた。いささか緩慢な所作で骸骨がこちらに首を巡らせた瞬間、踏み足高らかに体が宙を舞っていた。蹴り足揃えた両足が骸骨の横面に深々と突き刺さる。我ながらに見事な、ドロップキックの動作だった。
骨むきだしの見た目相応の軽さで骸骨が横っ飛びに飛んでいく。
二メートルかそこら、短い空中遊泳を終えた骸骨は地面に落下すると驚く程あっさりと砕け散った。
それと同時に無理な体勢で空中に踊り出したこちらも予想外に軽く脆かった骸骨の体で反動をとることもできずに無様に地面に背中から落下し、悶えた。
二分か三分か、強烈な痛みが引き動けるようになるまで、暫く時間がかかった。細く長い気息を吐き出しながら身を起こすと、地面に散らばった骸骨に視線を向ける。幸いというべきか先の一撃は真実致命傷になっていたようで、再び起き上がってくる様子はなかった。
ふと、無造作に散らばった残骸のなかに剣呑な光を見つける。鉄の棒、いや、あれは剣だろうか。鍔の無い両刃の西洋剣が無造作に地面に転がっていた。あの骸骨の持ち物だろうか。だとしたら先程の自分はかなり危ない橋を渡っていたというわけか。その凶悪な刃が我が身に突き立つ様を想像し小さく身震いする。あれらと正面をきって戦うにしても、逃げるにしても、無手で挑むのは危険か。
拾い上げた段平は見た目にこそ所々に錆が浮いていたが、手にかかるずしりとした重みには鉄器の頑健さが感じられるようで頼もしかった。
具合をたしかめるために少し振るってみる。袈裟、逆袈裟、胴切り、唐竹。剣道で扱う竹刀木刀とは重量は当然としてそのバランスも全く違う。だが、振るって叩きつけるだけならなんとかこなせそうだった。
あがっていた呼吸を整えるために長い気息を吐き出す、段平を手に歩きだそうとしたところでふと足が止まる。何か、声が聞こえたのだ。その声は警戒心丸出しの色で、誰かいるの、と言った。声はちょうど今立っている脇にある鉄扉からするようだった。
どうするべきか、などと迷うような思考が浮かんだのは我ながら驚きだった。つい先程それでしくじったばかりだというのに。
だが、今回の声の主は言葉を話した。先の動く死体とは違うのではないだろうか。
「いるといえばいるが、あんたは扉が開いた瞬間に俺に襲いかかってくるような手合いじゃないよな」
「そんなつもりはないから、あとはあなたがアンデットと生きた人間の区別がつかないなんて手合いじゃないことを祈るばかりね」
声としては、若い女のものか。多少の逡巡はあったが結局閂に手をかけそれを外していた。こちらにきてはじめてまともに話が通じそうな相手だったからだ。
「閂は外したぞ」
「ありがとう、助かったわ」
鉄扉が開き、中から出てきたのは砂色のローブ、というのだろうか、ともかく大きな布を頭から顔も見えないくらいに目深に被った人物だった。
動く死体程ではないが、まごうことなき不審人物だ。
しくじっただろうかと、はやくも後悔をしはじめていると、その人物はこちらに向き直りローブの内から白くほっそりとした右手を差し出してきた。
「その手は?」
「感謝の印に握手でもと思ったんだけど、握手は嫌い?」
「強いて好きでも嫌いでもないな」
握ったその手は見た目に違わず華奢で、この表現が正確なのか全身ローブのナリからどうにも判断はできなかったが、少女じみた柔らかさだった。
「目が覚めたらこんなとこに放り込まれてたんだが、あんたはここがどんなとこなのかわかるか?」
「それはお気の毒ね、ほんとうにお気の毒。ここは死者の宮殿、百年以上も昔のトチ狂ったネクロマンサーが自らの眷属を増やすために造り出した死者の工房よ」
全身ローブのするすると語る言葉は所々に現実離れした単語を含む突飛きわまりないものであった、が、さもそれが真実であるという色のありありとにじむそれを別段の抵抗もなくそうなのかと納得をしている自分がいた。突然牢獄に放り込まれた事といい、動く死体といい、どうも現実離れした事態が連続すると思えばなんのこともない、どうもここはこれまであった常識とは少し違った理のはたらく場所であるらしい。
「冷静ね、それとも事の深刻さがわかってないのかしら」
「正直悪い夢でも見ている気分だよ」
「なんなら頬でも張りましょうか、まどろんでいる時間はないわよ。悪夢にとり殺されたくなければ、ここを抜け出す以外ないのだから」
そう結ぶと、全身ローブはこちらの腕をぽんと叩いてから薄暗い廊下を歩き始めた。ついてこいということだろう、体格的に頭一つと少し小柄な感のするローブの背中を追う。
「出口がわかるのか」
「直接のルートを知っているわけではないわね。ただここのおおまかな構造は把握しているから、要所を上手く掴めれば地上に出られるはずよ」
「頼もしいな」
「私もあなたの手にさがってるものを頼らせてもらうつもりだから、おあいこね」
段平を示して言う全身ローブの言葉に、思わず苦笑をもらす。過分な期待に、なんと返すべきか言葉を探すが適当なものが浮かんでこない。
「そんな顔をしなくていいわよ。今のここをうろついてるアンデットなんて斬って殴れば簡単に術式がほころんで動けなくなるような、自然発生のウォーカーにすら劣る粗悪品ばかり。剣士としての技量すらいらない、あれらと対峙するのに必要なものは死体に鞭打つ無神経さと自分を殺そうとする者と対面する勇気だけよ」
「優しい言葉に涙がでてくるね」
「そこまで知ってるならお前が剣を振れー、なんて類いの言葉が出てこなかったことは評価してあげるわ。出会ったばかりのあなたの事情を私は勿論知らないけれど、迷えば死ぬわよ、私も、あなたも」
いつの間にかするりと距離を詰めてきていた全身ローブの白い手がこちらの右手に触れていた。
「……そういえぱ、まだお互いの名前も知らなかったわね。私はヴィオレッタ、あなたは?」
間近で見上げるような体勢で目深のローブに角度がついてその内がちらりと見えた。睡蓮の花弁のような淡い色合いの髪に縁取られた小造りな少女の顔だった。不可思議な光の宿った紫紺色の瞳が、じっとこちらを見上げている。しかし、その時少女の不思議な容貌より別の事がこちらの思考を占めていた。思い出せなかったのだ、自分の名前が。
「俺は、誰だ……?」
少女の顔に痛ましげな色が浮かぶのをぼんやりと眺めながら、ただ、愕然とした。