行方知れず 青木華絵 背中見せて少し笑う
ミニコミ『bnkr』に掲載した最初期の原稿。2007年ごろの作品です。
われわれの徳行は、往々にして偽装した不徳にすぎない。 ラ・ロシュフコー
■1
天樹司郎は走っていた。
時計を見る。午前7時56分。学校の始業は8時。家からずっと全力疾走している。走る。走る。口にはご丁寧にバターを塗ったパンまでくわえて。あとこの直線をまっすぐ100メートル走れば学校だ。なんとか、間に合いそうだ。
ドンッ
鈍い音。天樹司郎は派手に地面に倒れた。
周りを見回してみると傍らには少女が倒れている。
制服をみると、どうやらうちの学校の生徒のようだ。
「大丈夫ですか?」
天城司郎が手を差し出す。彼女の手が触れる。彼女の体を抱き起こす。
「あ…ありがとうございます」
「スイマセン、急いでいたので」
「私も…あ、ごめんなさい!急がないと」
彼女は足早に走り去っていく。天樹司郎も全速力でかけ始めた。
■intro
15分後、ぼくは「彼女」と再開を果たす事になる。黒板には「浅田玲奈」と書いてある。漢字の近くには「あさだ・れな」と読み仮名まで振ってくれている。黒板の前に立つ彼女は、はっきりした目鼻立ちに少しだけ明るい髪の色。どこかの女性ミュージシャンがそのまま高校生になったかのような美人だ。
「浅田さんは左から2番目の列の後ろから3番目に座って」
一瞬、彼女と、目が合った気がした。休み時間になる、彼女から話しかけられる。
「あの、さっきはごめんなさい。怪我はありませんでしたか?」
「いや…こっちこそごめんなさい、遅刻しそうだったので全然気が付いてなかった。」
「…こちらこそ…」
変な間。
「とにかく、全然気にしないで」
ぼくがそう言うと、彼女はほっとしたような表情をうかべて、席に戻る。女子とまともに会話したのは何年ぶりだろうか。しかし、浮かれてばかりもいられない。なぜなら、浅田玲奈との出会いは、ぼくに命を賭けたゲームの始まりを告げるものだったから。
■Apocalypse Please-1
「はい、みんなちゅうもーく。これから、この国のーたいせつなー『童貞』ということにーついてー学んでーいきまーす。」テレビドラマから抜け出てきたかのような長髪の暑苦しい教師が教壇に立っている。西東京第三高校三年A組、道徳の授業。黒板には汚い字で「童貞」と書いてある。
極東の全体主義国家、ナカツクニ(この国の本当の名前はアシハラナカツクニという名前なのだが、長すぎて誰も使わない)にはある法律がある。
①ナカツクニ国民には童貞を成人までに喪失する義務がある
②ナカツクニ国民は自由恋愛によってのみ童貞を喪失する事ができる
この「童貞法」はこの国の国民であればだれだって知っている。
この国の子供たちは中学に入ると、皆、親元から離れて、中学から大学までを学園都市で過ごす。ここ、西東京市もそういった学園都市の一つだ。こうした暮らしの大きな目的の一つが「童貞法」を守らせるための国民の選別と管理だ。ここでの暮らしは、全て政府によって管理されている。そこでは「正しい人間」になるためにみなが「人間力」を身につけさせられる。だが、童貞・処女のまま高校3年になった人間にはある日突然、ゲームが始まる。それは「プログラム」と呼ばれ、この国の人間たちには公然の秘密となっている。
■Apocalypse Please-2
7:00 僕は朝目覚めると、携帯に一件のメールが入っていた。
宛先はない。ただ、件名には「プログラム」と書かれている。僕にも来るべき時がやってきた。メールの本文には
「2009年6月15日 7:56 西東京市南原7-1-1 西東京第三高校前の曲がり角を、トーストを咥えながら全速力で走る。」
とあった。僕はいつもよりずっと時間をかけ、里親が用意した食事を食べる。今日の朝食には木綿どうふとワカメのみそ汁(白ダシ)だ。ご飯は名賀谷園のお茶漬けのもと(梅)で掻きこむ。そして準備したパンを口にくわえ、全速力で走り始めた。
「プログラム」とは、不定期に送られてくる「ぼく」の行動予定だ。これらの行動予定は、ナカツクニのメインサーバーから送られてくる。そして、それはいつ、どこで送られるかわからない。ぼくたちは中学に入学すると同時に携帯電話を渡される。正確にいうと、これは通話機能付き携帯端末だ。この携帯電話はナカツクニにおけるGPS兼身分証明書兼電子マネーだ。そして、携帯電話の使用履歴は全てナカツクニのメインコンピューターに送られる。この国の人間の行動は全てメインサーバー=ナカツクニに筒抜けだ。だから、プログラムに逆らう事は絶対にできない。
■Apocalypse Please-3
年に何回か、「退廃思想者」が学校のイントラネット内に掲載される事がある。彼らは、与えられた期限内に童貞喪失できなかったり、「プログラム」に反旗を翻した人間だ。そうした「退廃思想者」はこの国の公民権を奪われる。つまり、童貞である、ただそれだけであらゆる保護の範囲外になるし、まともな仕事にもつけない。つまり、「退廃思想者」は殺されたって文句は言えないのだ。噂ではそうした「退廃思想者」の多くは関門海峡を越えた「大中華」でスラムを作って生活しているらしい。
■Apocalypse Please-4
学校のクラスは社会の縮図だ。自然とその中ではある種のピラミッド体系が出来上がる。そのプラミッドはインドのカースト制度のようなものだ。学校、という不合理な組織が存在する理由、それはぼくたちにこのピラミッド体系と自らの位置を知らしめ、各々、それにふさわしい姿に調教することにある。
剛田大毅はこのピラミッドの頂点に位置する一人だ。サッカー部の主将を務め、いつも何人かの取り巻きとともにクラス内で傍若無人に振る舞っている。
「おい、宮田、焼きそばパン買ってこいよ」
剛田にパシリに使われているのは宮田惇。勉強も運動もさえない男で、男子はおろか、女子にさえバカにされているが、彼の存在意義は剛田の舎弟であるということだけだ。剛田に寄り添い、宮下を笑っているのは内藤みか。ファッション雑誌の読者モデルをやっているという彼女はその発育の良さと相まってクラスの男子からの人気も高い。
パシリは教室を出ようとする。廊下では他の男子生徒にぶつかる。
「ってーな、山辺のくせによ」
と言って宮下に軽く小突かれたのは山辺太。今のところ、このクラスの中で最も地位が低い人間だ。勉強はそこそこできるが、彼は運動がまるでできない。それよりも致命的なのは彼のキャラだ。天然ボケで何を考えているのかわからない彼に「動きがキモい」という評判がつくには時間はかからなかった。そして、そんな彼に用意されているのは「イジられキャラ」という地位のみであった。
一方、このクラスの頂点にはもう一人別の人間がいる。それが橘日出男だ。彼の手口は巧妙だ。彼は剛田のように傍若無人には振る舞わない。変わって、彼は自分の取り巻き達を使って空気を操作する。彼はけして表に出ることなく、クラスを支配する。単純な剛田のような人間はそれには気がつかない。だが、剛田ですら彼には積極的にかかわる事はない。
ぼくがそんな所で生きていくには人との交流を断ち、「空気」として振る舞う他ない。
■2
天樹司郎にとって昨日は自分自身の死のカウントダウンが始まった日だ。高校卒業までに童貞喪失できなければ彼は「退廃思想者」である。そうなったら、この国で生きていく事はできない。もちろん、周りの人間に「自分が童貞だ」とバレてしまう事もあってはならない。童貞だという事がばれてしまったら最後、天樹司郎はクラスのカースト制の中で最下層に位置する事になるだろう。だが、天樹司郎を恐怖させたのは、自分の周りにもいつの間にかいなくなった人間に心当たりがある、と言う事だ。そうやってどこかへ行ってしまった人たちは決まってサエない、人とのコミュニケーションが苦手なタイプの人だった。何より恐ろしいのが、彼らが消えてしまっても、数日後には忘れ去られてしまっている事だ。誰にとっても「他人」とはその程度の存在であること。そして、自分自身も恐らく忘れられてしまうであろうこと。その当たり前な事実に天樹司郎は恐怖した。
■love less-1
「2009年6月17日 7:45 西東京市南原7-1-1 西東京第三高校駐輪場で左から4番目に自転車を置く」
これが今日の「プログラム」。だが、ぼくは今日「プログラム」がなんであるか、その本当の所を知ることになる。
7:45。ぼくは学校の駐輪場にいた。
駐輪場の左から4番目にいたのは浅田玲奈。
「あ…」
「あ…昨日はごめんなさい。」
もうそのネタはいいだろう。昨日謝ったよ。
「浅田さんってみない顔だと思ったら転校生なんだね」
「え、えぇ。ちょっと前の学校で色々あって」
…完全に間違えた。
この国で「転校生」はとても珍しい。全員が親元から離れて暮らしているから「親の都合」なんて事があり得ないからだ。それでも転校してくる人はほとんどの場合の何かリセットしたい事があって転校してくる。ぼくは他者とのコミュニケーションの経験のなさを痛感した。
「ごめん、そういうつもりで聞いたわけじゃなかった」
「別に、気にしないで。あ、急がないといけないからまた、教室で」
■love less-2
「2009年6月17日 17:00 西東京市南原7-1-1 西東京第三高校学校第二校舎空から降ってくるものを受け止める」
この「プログラム」は一体なんだろうか、そう思いながら指定された時間に第二校舎を歩いている。人影はすでにまばらだ。と、屋上に人影が見えた。まさか、と思いながら落下予想地点に駆け出す。
鈍い音がする。かなり不格好ではあるがなんとか降ってきた女子を受け止める事ができた。
「童貞は空から女の子が降ってくると思ってる」
世の中の人間力に溢れた人たちはそう言うが、まさか本当に空から女子が降ってくるとは。
「大丈夫?」
「どうして、死なせてくれなかったの!」
そりゃ、プログラムのせいだよ、とは言えない。
「死ぬなんて…やめろよ!何も死ななくたっていいだろ。」
生き残った安心感か、絶望か。感極まって泣き出す彼女。分厚い眼鏡をかけている。仕方なく、ぼくは保健室に名も知らない彼女を連れて行った。
■love less-3
「2009年6月17日 19:00 西東京市南原7-1-1 西東京第三高校学校正門に行く」
まだ1時間以上時間がある。この「空気」が何をしてればいいって言うんだろうか。ぼくはベタな展開に疲れ果てていた。誰もいない教室、誰もいない屋上。仕方がなく、屋上でi-Podを聴く。ディスプレイには「SOON」と曲名が表示される。フィードバックギターに身を委ねる。歌詞は何を言っているかよくわからない。ただ、ギターのノイズだけが。ノイズだけが。
18:55。6月とはいえ、学校は薄暗く、人影はまばらだ。
自転車を引きながら正門へ。薄暗くて最初わからなかったが分厚い眼鏡と無造作な長い髪。見覚えある顔。
無言。
ナカツクニのメインコンピューター様もイカしたことをやってくれる。何か気の利いた事を言わないといけないのだろう。
「さっきは…どうも」
無言。
俺は、アホか。
「あの…ありがとう。保健の先生に上手くごまかしてくれてたみたいで」
「いや、あんな…あんな馬鹿な事はもうやめなよ」
無言。僕はi-Podの「play」ボタンを押す。
ただ、ギターのノイズだけが。
■3
天樹司郎は、なぜ自分が童貞なのか、という根源的な問いを発していた。
■Blue Monday
なぜ僕は童貞なのか、こんなことは考えたこともなかった。ルックスが悪いからだろうか、このメガネが悪いのだろうか、性格が暗いからだろうか、人とまともに会話ができないからだろうか。考えられる事はいくつかある。だけど、そのどれもが正解なようでもあり、不正解なようでもある。
■3→4
天樹司郎の問いはおおむね正しい。だが、より根源的な答えは、彼には「他にやることが山ほどある」からだ。そして、世界にそんな事を考えている人間は自分一人だと考えている事。孤独であるかのように装う事。それが童貞を童貞たらしめていた。
■Sub-Culture-1
「2009年6月24日 19:00 新星堂三鷹店でCocco『ブーゲンビリア』を買う」
ほとんど拷問みたいなメインコンピューター様からの指示。
近くのテーブルでは、オタク軍団がワイワイ騒いでいる。こいつらの気持ち悪さは全く持って度し難い。クラス内のヒエラルキーの最下層にいながら、その事にすら気がついていない。教室の中でライトノベルを堂々と読むんじゃない、なんなんだその表紙は。せめて表紙ぐらいはつけろよ。そのくせ、こいつらはライトノベル風情で感動したり、泣いたりするのだという。ほとんど脳みそが腐っているのではないだろうか。
「…天樹君?」
「え?」
「さっきから何を読んでるの?へー『アラビアの夜の種族』って難しそうなの読んでるね」
「あ…あぁ、まぁ」
曖昧な返事を返す。話しかけてきたのはオタク軍団のリーダー、永作圭之だ。適当に会話を流す。ぼくはこの男の事が嫌いだ。なぜなら、永作はぼくの事を仲間だと思っているから。
「ぼくも小説とか好きだからさ、今度一度紹介してよ」
「あぁ…考えとくよ」
お前が好きなのは、小説じゃなくてライトノベルだろう。
■Sub-Culture-2
新星堂三鷹店に向かう。新星堂三鷹店はこのあたりではまだまともな品揃えのCDショップだ。ぼくたちの街よりは少し離れているおかげで、あまり学校の人間がいないのもいい。自転車を漕ぐ。夕方の風が心地よい。あと少しするとこの風も生ぬるくなってしまうのだろう。三鷹へ向かう途中、山辺太を見かける。彼はぼくを見つけて異様に怯えた目をする。ぼくは何をしたのだろうか。結局、一言も会話を交わすことなくすれ違う。
■Sub-Culture-3
自転車を40分ぐらい漕いで、ぼくは新星堂三鷹店にたどり着く。ぼくは「エレクトロニカ」の棚に向い、前から欲しかったCDを物色する。19:00。「J-POP」の棚に向かい、指定されたCDを取る。
吐き気がする。頭痛がする。浅田玲奈がいる。
「!」
「どうも」
軽く挨拶する。
「天樹君はこんなところで何してるの?」
「たまにCDを買いに来るんだ。浅田さんこそどうしてこんなところに?」
「今日は早めに部活が終わったからちょっと寄ってみたの。」
「部活、って文芸部だったよね。永作とかと同じ。」
「そう、でもアニメの話とかよくわからなくて。」
思わず苦笑する。ぼくらは会計をすまして店を出る。
「浅田さんは小説とか好きなんだ?」
「そう。できれば私もそういう風になれたらいいなって」
「そういう風」って一体どういう風なんだろう。
「へー。じゃあ部活でも小説書いてるんだ」
「恥ずかしいから、誰にも見せられないけど」
そう言う彼女の横顔を見ると、なぜか上手くしゃべれなくなる。
彼女がなぜCoccoの棚にいたのかは考えないようにした。
■5
休日。天樹司郎は立川まで遠出する。その手にはインターネットのサイトからプリントアウトしたファッションブランドと思しき名前が大量に書いてあった。立川に着くなり、彼は緊張した面持ちで美容院に入る。
■DO YOU SEE WHAT I SEE?-1
「2009年6月29日 17:35 西東京市南原7-1-1 西東京第三高校図書館のA-1の棚にある岩名美文庫『トリストラム・シャンディ1巻』を取る。」
しかし、図書館というのは傑作だ。本を取りかけて、誰かと会うなんて、あまりにもベタ過ぎではないだろうか。メインコンピューターよ、もう少し考えろ、と言いたくもなる。図書館には誰がいるといるのだろう。浅田玲奈なのだろうか、それとも別の誰かなんだろうか。浅田玲奈だったらいいな、という言葉を飲み込む。今のぼくは「空気」として休み時間中一人で文庫本を読んでいる。「空気」の人間にとって文庫本は気心の知れた仲間のようなものだ。これさえ読んでいれば、ぼくは誰からも相手にされず過ごしていける。剛田達の「おい、あいつ調子乗ってないか」という声も聞こえない。だけど、妄想は果てしない。浅田玲奈と図書館で出会うという事は『ユリシーズ』や『失われた時を求めて』を読んでいるのだろうか、音楽は何を聴いているのだろう、私服は何を着ているんだろう、食べ物は何が好きなんだろう、どんなデートをすればいいんだろう。
■DO YOU SEE WHAT I SEE?-2
17:30。西東京第三高校図書館。
扉を開ける。
図書館を見渡すと、中には数人の生徒がいる。図書館の中はそれなりに混み合っていて、みな、思い思いに本を読んでいる。浅田玲奈を探す。浅田玲奈を探す。浅田玲奈を「ライトノベル」の棚で見つける。楽しそうに笑っている。動く気配はない。なぜだ。誰と話している。彼女の視線の先には永作がいた。殺意を覚える。17:34。
A-1の棚に向かう。ここは文庫本のコーナーそこを訪れる高校生はまばらだ。
17:35分、覚悟を決めて「トリストラム・シャンディ」1巻を取ろうとする。取ろうとした手が触れたのは、ぼくも知っている人間だった。
―青木華絵。
ぼくが自分の田舎、岐阜県大垣市にいたころからの幼馴染だ。彼女はぼくと違い、快活でクラスの中心的な存在だった。同じ小学校から同じ西東京市の中学校に進学したので覚えている。こっちに来てからはほとんど話す事はなかった。
「もしかして…青木…さん?」
「天樹君こそ、私の事覚えていたの?」
どこかで聞き覚えがある声。だが、それを思い出す事はできない。
「まぁ…ところで、青木さんは『トリストラム・シャンディ』なんて読むんだ。」
「私の好きな外国の映画監督がこれの映画を撮ったんだって。日本では公開されなかったんだけど、ネットで調べたら原作があるって聞いて。」
笑いだしそうになるのを我慢する。
「それなら…先に貸してあげるよ。」
「ありがとう。それじゃ、また。」
背を向けて出口に向かおうとする青木華絵。
「あ…青木さん、マイケル・ウィンターボトムだったら、『24アワー・パーティ・ピープル』の原作本があるから、それも読んでみて」
青木華絵は小さく頷いて、足早に外に出ていった。まさか同じ理由であの本を読む人間がいるなんて。だけどまだぼくは図書館から出られそうにない。
■1セット買うよ、その英会話の教材
18:30。文芸部の部室の前を通り過ぎる。浅田玲奈がいる。その隣にいるのは、永作とは別の人間。彼は誰なんだろう。つい1時間ほど前には永作とあんなに楽しそうに話していたのに。そこにいる彼女は同じぐらい楽しそうだ。
■0→6
「童貞法」がなかった頃のこの国。
国民たちはみな、無気力で、ニートで、童貞だった。
「人間力」のない彼らは他国からも舐められ続けていた。その結果として先の大戦が起こる。ナカツクニは真っ先に攻められる。以前「九州」と呼ばれていた地域は敵性国家「大中華」に占領される。
政治家達はこの国の国民たちがほっておくといつまでも人間としての成長を一切しないのだという事にようやく気がつく。だから、この国民たちに「人間力」をつけさせるためにこの法律は作られた。結果として、憂鬱な音楽しか聴かない英国や、アニメやマンガの影響を野放しにして国民の全員が肥満児のコスプレイヤーになった米帝をも凌駕しうる国力をナカツクニはつけた。ナカツクニは半鎖国状態にも関わらず科学技術は世界トップレベルを維持している。憎き敵性国家である「大中華」や、ネットワークゲームなんていう退廃遊戯をやっているくせに何かというとナカツクニにいちゃもんをつけてくる隣国と今ならいつでもたたきつぶせるはずだ。「希望は戦争」、この国の人々はみなそう考えている。
■Bizarre Love Triangle
「2009年7月4日 16:15 西東京市つきみ台2-3-5 つきみ台公園のブランコを10分間漕ぐ」
休日のぼくは一歩たりとも出るのが億劫なのだが、仕方がない。公園に向かう。山辺太に出会う。無言。
ブランコを漕ぐ。携帯を見る。16:25。
青木華絵がやってきた。
「こないだはありがとう。本譲ってくれて。」
「一度読んだ本だからさ。」
「今日はこんなところで何してるの?」
プログラム様のお導きで姫をお待ち申しておりました、とは言えない。
「なんとなく、ふらふらしてたら、さ。」
「ふーん。」
無言。だが、不思議とその無言さが心地よい。不意に彼女が沈黙を破る。
「天樹君はさ、何で、他の人との壁を作るの?」
「いや、壁、作ってる?」
「作ってる。」
こいつにぼくの何がわかるって言うんだ。
「そんなことないよ、ぼくだって皆と仲良くしたいよ」
「ほら、そういうの。」
「…」
「でも、そういう気持ち、わからなくはないわ。」
そういって青木華絵は立ちあがる。
■7
天樹司郎の所属は帰宅部。部活動の途中。傍らには浅田玲奈。
他愛のない話をした。部活の事、学校の事、小説の事。
浅田玲奈の家の前。浅田玲奈は天樹司郎ともっと話していたそうな仕草をする。
これはプログラムのおかげなのだろうか、それとも?
■8
天樹司郎の所属は帰宅部。部活動の途中。傍らには青木華絵。
青木華絵とは大抵の場合無言だ。たまにどちらともなく一言二言話す。だけど、それが全く苦痛ではない。天樹司郎は青木華絵を以前よりずっと可愛いと感じていた。
これはプログラムのおかげなのだろうか、それとも?
■幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする-1
月曜日の学校。昼休み中をひとしきり図書館で過ごし、戻ってくると(これはぼくにとってはかなり高級な休み時間の使い方だ)他のクラスの宮下、とかいう男がうちのクラスに殴りこみをかけてきていた。相手はうちの永作なんだそうだ。殴りこみ自体は未遂に終わった。近くにいた剛田達が彼を強引に止めて事なきを得たのだ。
ケンカの理由は知らない。宮下は文芸部の部長なのだという。永作は副部長。二人は同人誌の方向性の違いを巡って対立したとも、女子部員を巡って対立したとも言われているが、真相はよくわからない。浅田玲奈がなぜかすがる様な視線をぼくに向けてきた。ぼくはその視線には気がつかないふりをした。
■幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする-2
学校から帰ってくると、家の前には、山辺太がいた。
「天樹君、ちょっといいかな?」
山辺の家の中。
彼が家の中のボタンを押すと、携帯が圏外になる。
「30分以外に復旧すれば異常にはならないはずだ」
「山辺、一体、これはどういう?」
「天樹君、これは君にも関係のある話だよ」
「?」
「プログラム。」
「君もやっているんだろ?ここ最近の君の行動を見ていればすぐにわかるよ。」
「…」
「なぁ、この下らないゲームをぶち壊さないか?」
「それは…お前」
「覚悟はできてる。だが、俺はどちらにせよ退廃思想者になってしまうんだ」
「そりゃあ、最初は努力したさ、だけど、女にモテるなんて無理なんだよ、俺のスペックじゃ。人生なんてのは単なるゲームでしかない、だけど、俺にとっては難易度が高すぎるんだ」
「だけど…だからといって。」
「君だって薄々気が付いているはずだ。いつ童貞を捨てたか、とか人間力だとか、そんな事は俺達には何ももたらしてはくれないって事に。だったら俺を認めてくれない社会を変えるしかないだろう。」
言いたい事はわかる。だけど。
何故かぼくは山辺の事を心底気持ち悪いと思っていた。いや、正直に言おう。ぼくはイラついていた。何に対してだって?それは、山辺がぼくを同類として扱っている事!
「山辺、ごめん、ちょっとそういうのは無理だ。」
「今日の事は誰にも言わないからさ。」
■1995年から自力を信じてます、その指令を無視しろ-1
しばらく、プログラムもない平和な時期が続いた。その間、ぼくはいつものようにクラスの中で空気と化していた。誰からも話しかけられない。そして、誰にも話しかけない。
「…君?天樹君!」
静寂を破って、クラスの地味め女子、長田悠子が話しかけてくる。背が低くとりたてて特徴のない眼鏡女子だが、噂では彼女は池袋で怪しい同人誌を買いこんでるのをクラスメイトに目撃されているらしい。
「そこに、別のクラスの女の子がいるんだけど、天樹君に用があるんだって」
指された場所を見ると、その先には青木華絵がいた。無言で青木から手紙を渡される。
「7/17 18:30 田無駅前噴水」
と几帳面な字で書かれていた。
学校から戻り、ひとしきり服を着替える。家にある服を適当に見繕う。自転車で駅前に向かう。I-podを聞きながら。ディスプレイに表示されるのは「裸足の季節」。ぼくのお気に入りの曲。駅前のマクドナルドで本を読みながら時間を潰す。ここなら、噴水が目の前だから彼女がいつ来てもすぐにわかる。
本に没頭していると、いつの間にか青木華絵は噴水の前に現れる。学校の制服姿だ。ショートカットにオーディオテクニカのヘッドホン。僕は席を立つ。
■1995年から自力を信じてます、その指令を無視しろ-2
駅近くの、さびれた喫茶店に連れてこられたぼくは、店の一番はじの席に座る。
彼女はノートとペンを取り出して几帳面な字を書きはじめた。
『ここは大丈夫よ、この席は街のどの監視カメラからも死角なの』
『わかった。でも、何でそんな事を?』
ぼくは同じくノートに書く。彼女はぼくの問いかけを無視してそのまま手を動かし続ける。
「久しぶりね。さっそくだけど。
『プログラム。やってるでしょ?』
一瞬、心臓が止まりそうになる。
『なんでそんな事言うんだい?』
『私にだけはそれがどういうことかわかる。わかるでしょ、この意味。』
『プログラムの指示を受けた』
『ご名答』
『この会話は携帯に録音されるとまずいの』
『それはわかる。だけど、ぼくを呼び出して、どうするつもり?』
『簡単な話。このゲーム、クリアしない?』
『どういうこと?』
『これから二人でホテルに行く。それで終わりのはずよ。』
『それって違反なんじゃ?』
『だから。大体、童貞法ってなに?別に初体験がどうだろうと、人なんて大して変わらないんじゃない?』
『それはそうだけど』
『私、ずっと考えていたの。だけど、考えれば考えるほどそうするのが一番だと思った。』
「青木さんは」
「華絵でいいわよ」
華絵はノートを指さす。
『ぼくなんかでいいのかい?』
『さあ?』
『さあって。』
『私があなたの事を好きかどうかなんて、どっちでもよくない?初体験できない人間が、どうなるか知ってるでしょ?私はああはなりたくない、わかるわよね?』
『ああ』
『だったら』
『あと少しだけ時間をくれない?』
『わかったわ。強制はしない。』
それだけ書きあげると青木華絵は背を向けて外に出る。
「お代は、お願いね」
■9
天樹司郎と青木華絵はうらびれたラブホテルの中にいた。いよいよ初体験、そんな感慨はお互い全くなかった。ただ淡々と与えられた課題をこなしている。
青木華絵の裸。天城司郎の裸。天城司郎はずれた眼鏡をかけ直す。
■Can't Go Back
外に出る。世界は何も変わっていない。
「これで、二人ともプログラムからは解放されたはずよ」
「ああ」
「意外ね。もっと何かコメントがあるのかと思った」
「想像したよりもずっと大したことなかったよ。だけど、まぁこんなものなのかもしれないな。」
「ずいぶん偉そうね。でも、まぁ、こんなものよ」
「じゃあ、また」
「ちょっと待って。」というセリフをぼくはすんでのところで呑みこむ。
青木華絵が去っていく。一度だけ、彼女は振り向いて、少し笑った。
次の日、「青木華絵」は西東京第三高校から消えていた。
■もっと愛されたいなら、きっとあなたは変わる
「2009年6月17日 12:35 西東京市南原7-1-1 西東京第三高校3-C扉前で男子生徒とぶつかる」
私にもついにプログラムがやってきた。同じクラスの宮下君ぶつかる瞬間、私を見る彼の眼は汚物を見るようなものでしかなかった。予想はしていた。私はずっといじめられ続けたクラスの最低辺の人間なのだから。大して差のない境遇にいる彼が相手だと知って、もしかしたら大丈夫かもしれない、と期待していた。だけど、甘かった。
その時、私は死のうと思った。
でも、死ねなかった。
幼馴染に助けられたのだ。
たぶん、私はもう死ぬ事はできないのだろう。その時、私はほっとしてしまったのだから。
帰る時、彼と偶然出会った。不自然なほどの偶然。それで確信した。
まず私は、髪を切り、眼鏡をコンタクトにすることから始めた。全てはそこからだ。
■outro
季節は巡る。
ぼくは何とか高校を無事卒業することができた。浅田玲奈とは相変わらずつかず離れずの関係が続いている。彼女は自分を巡って他人が争う事で自分の存在価値を発見するタイプの人間なんだろう。だから彼女は唯一自分の思い通りにならなかったぼくに興味がある、ということなんだろう。高校のクラスメイトの消息はたまに浅田玲奈から聞くだけだが、クラスの人間も相変わらずらしい。ただ、後日「純潔保護同盟」がテロを計画し、当局の捜査の手が入ったとニュースが流れた。その直後、山辺は「退廃思想者」として当局に連行されていったそうだ。
大学に入ってぼくが唯一変わったことと言えば、DJの真似ごとを始めた事だ。きっかけは一枚のCDだった。世界が滅んでも、このメロディは残る。そう断言できた。ぼくの世界が変わった瞬間があるとしたら、初体験ではなく、あの曲を聞いた時だ。世界が変わった以上、それに従うしかない。何か表現したいものがぼくにあるとして、今のぼくにはレコードを完璧な選曲で繋げることその手段がない、ただそれだけだ。
だけど、ぼくはたまに青木華絵の事を思い出す。
行方不明の青木華絵を。
そして背中を見せて少し笑う彼女の顔を。