第二ヴァイオリン/リーゼロッテ 後奏
鳥がまた鳴いた。トリルの間隔は更に短く、どこか必死な印象を受ける。誰かを呼んでいるのかもしれない。
「あなたのお葬式には来なかったわ」
オーディションがあったから。リーゼロッテは言いながら、墓石をまた撫でた。石は白く、しかしそれは辺りの雪とはまた違う白さだ。冷たさの質も違うのだろう。
それどころかフリーダの死の知らせを聞いたときに、彼女の楽器はどうなるのかと一番に思った自分に悲しむ権利さえあるのかと思う。
本当に悲しいのだろうか。
ライバルが一人減ったというのは、紛うことなき事実だ。オーディションの結果、リーゼロッテは奨学生として来春から上級に進むことになった。
「……あなたが第一ヴァイオリンで、間違っていなかった」
そこまで技量に差があったわけではない。しかしリーゼロッテは敗北を受け入れた。それでも勝ち逃げを認めるわけにはいかなかった。
結果的には死んでしまった時点で彼女の負けだ。これからがあるリーゼロッテと違い、フリーダの未来はもう存在しない。
「悪いけど、あなたらしいわ」
パーティの後、酔っぱらって運転したあげくに事故死だなんて。
想像していた未来は、そこですっぱりと途切れている。
これから、相手の名前が会話に出るたびに耳をそばだてたり、オーディションやコンクールで相手の結果を聞いて唇を噛んだり、そんな風に、お互いがずっと相手の動向を気にしていくのだろうと。
それなのに。
なんて、不確かなものなのだろう。
オーディションの結果を報告しても、顔色ひとつ動かさなかった禿頭の小男を思い出す。
リーゼロッテが彼に褒められたのは、あのコンサートの後の、よくやった、という一言だけだ。しかし実際オーディションでは、コンサートほど緊張せずに、そしてそこまでの達成感もない演奏をしたので、妥当な評価なのだろう。
あのデュエットは実は彼が仕組んだことなのではないかと思いつつ、これまで訊いたことはなかった。フリーダが死んだ今、一生尋ねることはないだろう。
最初に聴いた曲をもう一度弾いてほしかった。
愛を乞われた女はどうしただろうか。ろくに言葉を交わしたこともない男からの想いを。髪を、瞳を、指を、身体のパーツを一方的に褒め称える、そんな麗しい旋律に隠された欲望に。
彼女は振り向いただろうか。
フリーダの演奏ならばもしかしたら、と考えて、リーゼロッテは少し笑った。
欲望を剥き出しにしても、なお美しかった音を。
今となっては、吐き気をもよおすものではなく、うしなわれたものに想いを馳せ、なつかしく、いとおしく、笑えたようだった。
あぶなげなく、軽々と、高い音を押さえていたフリーダの指を思い出す。
それから、すっかりかじかんでしまった左手を持ち上げて眺めた。
二人で重奏をしたときの、これ以上ない昂揚感と、そして一体感をまだおぼえている。
この指はまだ動くのだろうか。
動かせるだろうか。
冷え切った指を胸の上で組み合わせて、棺に横たわるのは、フリーダか、リーゼロッテか。その身を腐らせてゆくのは。
もう、ヴァイオリンを弾けないのは。
どちらが自分で、どちらが相手だっただろうか。
「私は弾ける」
奇妙な感覚を振りはらうように手を握り締めて、リーゼロッテは自分でも驚くほどつよく言った。
ヴァイオリンの手ほどきをしていた母がいなくなっても、リーゼロッテは弾くことをやめなかった。やめることなど考えもつかなかったのだ。
呼吸を考えてするものではないように。
溺れつつ喘ぐことに理由はない。
たとえそれで、さらに水を呑むことになったとしても、人は酸素を求めるのだ。
リーゼロッテにとってヴァイオリンを弾くというのはそういうことだ。
それなくしては、生きていけないのだ。
求めなくとも、自然と与えられたそれが答えだった。
「私は弾くわ」
自分に、そして彼女に誓うようにリーゼロッテはもう一度繰り返した。
耳の底では、ドッペルコンチェルトがいまだ響きつづけている。