第二ヴァイオリン/リーゼロッテ Ⅳ
コンサートまで、あと一週間もない。
窓から見上げた空からは、軽い雪片が風に翻弄されながら次々と零れ落ちてきていた。大気も充分に冷えていたから、今日は積もるかもしれない。授業が終わったのだろう、後ろのドアから生徒が流れ出てくる。早足になったリーゼロッテは、突然背後から胴に腕を回されて、ぐっとこもった声を漏らした。思わず竦んだ身体に、軽く重しがかけられる。
「あたしあたし、フリーダ」
やわらかい右腕も伸びてきて、リーゼロッテを引き寄せた。あはははは、と笑い声が肩のあたりからする。顔は見えない。
「あー嫌われたもんね。あたしは結構あんたのこと気に入ってるんだけどな」
勝手に抱きついておいて嫌われたもなんだもないでしょう非常識な、と反論したいのに口が動かなかった。まだ緊張がうまく解けない。
花のような香水の匂いや、豊満な身体。喉を鳴らすような声。そんなものは苦手だった。
母を思い出すからだ。
リーゼロッテの母だけではない。女というのは何かひとつと引き換えに、それまでの優先順位を綺麗さっぱり投げ捨ててしまうことが出来る。
自分もそうなってしまうのが怖い。
ヴァイオリンを捨てた自分など想像できない。それは、もはや自分ではない。
「どうしたの?」
「なんでもないわ」
不審に思ったのか、顔を覗きこんだフリーダに平静を装って応える。ふーん、と完全には納得していない声を出しつつ、彼女は用件を切り出した。
「今日三時以降は空いてる?」
「……四時からなら」
「じゃあ待ってる。この前と同じ第五レッスン室で」
なれなれしく肩を一つ叩くと、あたたかな体重は離れていった。
リーゼロッテは振り向かずに次の教室に向かいながら、去り際に残された一言を反芻する。
にげるな、とその前の会話からは想像もできないほど真剣な声が。
……逃げるものか、とリーゼロッテは両手を握り拳のかたちにする。
自分の優先順位はまだ変わってはいないのだから。
* * *
約束の時間に指定された部屋に来ると、フリーダは薄闇の中で自分のパートをさらっていた。
日没が日増しに早くなっているから、最近は暗くなるのも一瞬だ。照明をつけながらレッスン室に入ると、フリーダがまぶしいのかぱちぱちと瞬きする。その様子には頓着せずにリーゼロッテは前回から注目していたことを、不意に口にした。
「いい楽器ね」
催促されたととったのか、黙って手渡された楽器を断る理由もなく、リーゼロッテはじっくりとそれを鑑賞した。自分が常に弾いているものより、ほんの少しだけ重い気がする。
内側のラベルにはイタリアの都市名と、百年以上前の年号。製作者のサインは悪筆なのか書式のせいか、読みとることができなかった。
表面はところどころ色褪せて、縁のあたりに黒ずんだ傷が消えない跡をいくつも残している。年を経たニスが弾く光は鈍い。それでも美しいヴァイオリンだ。
「弾いてみても?」
聞くとフリーダは頷いた。
構えると、リーゼロッテの楽器より、やはり少々大きかった。左手の指の位置を慎重に合わせてから、そっと弓を弦に当てる。
音が軽やかにはじけた。
フリーダの演奏を聴いて思っていたが、やはり自分のものより華やかな響きがする。
こんな変形しただけの木の箱から、どうしてあんな音が出るのだろう。
溜息のような、嬌声のような、悲鳴のような、歓声のような。
そうリーゼロッテは思うことがある。
思うだけで、答えを求めていない疑問だ。
リーゼロッテにはそんな疑問がたくさんある。
ヴァイオリンの形状は、女の身体に似ていると言われる。
ではもし自分がヴァイオリンだったら、きっと、飾り気のない、真面目な、冬の朝の大気のようにぴんと張りつめた音がするだろう、とリーゼロッテは想像している。
そしてフリーダであれば、このヴァイオリンのような音を奏でるだろう。
周囲の空気を小刻みに振動させるそれは、笑い声のような、花火のような、シャンパンの泡のような、軽快でいて豊潤な音だ。
「E線がちょっと高いわ」
言いながらフリーダに楽器を返すと、きょとんとした顔で見返された。
「何、あんた絶対音感持ってるの?」
「ええ」
「あれって便利じゃない? あたしは持ってないんだけど、訓練次第で身につくってほんと?」
「さあ」
「小さい頃からなんでしょ? どんな練習してたの?」
「特別なことをしたおぼえはないわ。……昔は母に習っていたから」
視線を合わせないようにして自分の楽器を取り出しながら、記憶の片隅から引きずり出された約束を繰り返す。
(あなたが上手に弾けるようになったら、いつか一緒に演奏しましょう)
そう言った母とのデュエットは結局実現することはなかった。母がリーゼロッテを置いて去ったからだ。夫や娘だけでなく、一番大切にしていた楽器までも置き去りにして。
後に残されたヴァイオリンは、自分が弾いても、あのように甘くやわらかい蟲惑的な音を響かせるのだろうか。
リーゼロッテは試せずにいる。
重奏が苦手なのも、自分が無意識に避けていたからではないか、と思いついてからずっと腹を立てている。本当は相手に合わせることが単に嫌いなのかもしれない。それでも自分がそれを苦手としている、という事実に怒りがあった。
「もうこのあとはドレスリハーサルしか合わせる機会がないでしょうから、今日はお互い納得いくまでやりましょう」
決意の表明のような言葉に、フリーダは目を瞠ってから、にやりと音がしそうな笑顔になった。リーゼロッテは逆に睨みつけるような顔で、楽器を構えた。