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第二ヴァイオリン/リーゼロッテ Ⅱ

 指定された時間より少し前に向かったレッスン室は無人だった。

 ラジエーターの上で凍えた手を温めてから、リーゼロッテは楽器の準備をする。

 ドッペルコンチェルトは名前の通り二人の演奏者のための、つまりは二重奏の協奏曲だ。

 違う楽器がデュエットをする場合もあるが、この指定された曲では演奏者は二人ともヴァイオリンを弾く。本来ならばオーケストラ伴奏が付くが、今回は学内コンサートということもあり、そんな大げさなことはしない。

 楽譜を広げて、自分のパートを確認した。

 どちらのパートも以前に習ったことはある。その際に、当時の教師と合わせた事があったかもしれなかったが、思い出せなかった。

 リーゼロッテは重奏が嫌いだ。

 実はピアノ伴奏に合わせるのも、好きではない。

 相手のタイミングや呼吸を窺うのはわずらわしい。合わせるのも、合わせられるのも、まるで侵食されているようだとしか感じられない。一人で、すべてが自由に弾くことができる無伴奏が好きだった。

 しかし、これは難曲というわけではない。とりあえず演奏を始めると、頭よりも指がおぼえていた。

 どちらかといえばシンプルな旋律で、確かにこれなら数回の練習で合わせられるようになるに違いなかった。それでも最初に習ったときには苦戦したのだろう。楽譜のいたるところに赤鉛筆での注意書きがある。

 やわらかな影が記憶の紗幕から甘やかに囁いた。

(あなたが上手に弾けるようになったら)

 リーゼロッテは息を詰めた。

 ばかばかしい。

 注意力が散漫になっている。常には心の片隅にもとどめていないことを思い出す。

 これもフリーダとの練習をひかえ、気が立っているからだろうか、とリーゼロッテは楽器を下ろして、窓の側に立った。

 冷たいガラスに額を寄せる。下の道では、大小さまざまの楽器ケースを抱えた生徒たちが、雪が除けられた細い隙間を注意深く歩いていた。

 相手のことで知っていることといえば、名前と一度の演奏だけだ。それなのに敵愾心ばかりが募っている。

 しかし、怖れながらも惹きつけられずにはいられないのだ。

 誘惑のようなあの音に。

 首をゆるく振ると、リーゼロッテは元の位置に戻って最初から曲をやり直した。

 今度は、ドアノブの回る音がするまで、集中力は途切れなかった。


 * * *


 ドアの向こうの姿を目にするまで、存在を意識しすぎるほどしていても、実際はこれがフリーダとの初めての対面だということは、リーゼロッテの頭から抜け落ちていた。

 赤毛はオレンジがかっているほうが見事だといわれるが、フリーダの髪はその意味では素晴らしかった。真新しい銅線のような色の、豊かな巻き毛が高く結い上げられている。あふれた幾房かが、身体の線を浮き上がらせる濃緑のベルベットのシャツにこぼれていた。

 ほとんどの赤毛の持ち主の例に違わずに、皮膚の色は薄く、白というよりは下の血管を透かして健康的なピンク色だ。鼻の周りを重点的に、そばかすが幾つもぽつぽつと散っていた。

 彼女に自分の姿はどう見えているのだろうと、リーゼロッテは反射的に考えた。

 茶褐色のまっすぐの髪は、飾り気がなく肩下で切り揃えられている。血色の悪い肌は白いというよりは蒼ざめているようだ。目は薄い水色。痩せぎすの身体はサイズの合っていない焦茶色のセーターに包まれている。

 おかしいくらい、まったく似ていない。

 フリーダが、これまでに自分の存在を知っていたかさえもわからなかった。


「あたしはフリーダ。フリーダ・シェリング」

 楽器ケースを左手に持ちかえて、彼女は空いた手を差し出した。  

「リーゼロッテ・ハルトマン」

 握手するとフリーダの手は関節一つぶん大きかった。握力も強い。手をさっさと離したリーゼロッテをフリーダは興味深げに見た。

「リーゼ? それともロッテと呼んだほうがいい?」

「略さないでいいわ。そのままで」

「じゃあリーゼロッテ。よろしく」

 今回はおたがいに災難だったね、と軽い口調でしゃべりながら、フリーダも楽器の準備を始めた。リーゼロッテは、空いた椅子に座ると、そうね、と言葉少なに相槌をうった。人との距離感をつかむことは苦手だった。相手に複雑な感情を抱いていれば、なおさらのことだ。

「あんたの先生って、名前なんだっけ、あの禿げてる人だよね? ストラディヴァリウス持ってるって、ほんと?」

 返事を待たずに彼女は続けた。

「一回弾かせてくれるんだったら、寝たって構わないけど、あたしは」

 それくらいで弾かせてくれるとは思わない、と正直に答えるべきかとリーゼロッテは考えた。

 ストラディヴァリウスは名器中の名器だ。

 ヴァイオリンはそれぞれ音が違う。音質には、使われる木の材質はもとより、製作者の腕が大いに影響する。そんな中で、イタリア、クレモナの製作者アントニオ・ストラディヴァリによって作られた楽器、ストラディヴァリウスはヴァイオリンを弾く者にとっては垂涎の的だ。

 弾かない者でもコレクションに加えたいという人間は大勢いるだろう。ひとつひとつ手作りされるヴァイオリン自体が安価なものではない。また楽器が本質を発揮するのはほぼ百年後、木が乾燥してからだという。つまりは上質の楽器の多くが使用されている状態で、骨董品としての価値もあるのだ。

 十七世紀から十八世紀の間に製作されたストラディヴァリウスは現存している数も少ない。そのほとんどは国家に所有されていて、才能を認められたヴァイオリニストに貸与される。

 それがどうして彼女の教師の元にあるのか、リーゼロッテは知らない。

 ただ彼がそれを扱う様子に、彼に子供があったとしても、それを子供よりも大切にするのではないかと考えたことはある。彼がそれを演奏するとき、恋人たちの間に流れる雰囲気よりも親密なものを感じたこともある。

 自分も弾かせてもらったことはないが、相当の覚悟が必要だとは思う。一晩共にするくらいでは安すぎるだろう。

 言い出したフリーダも別に答えを求めていたわけではないようで、そのまま楽器を顎の下に挟んだ。

「Aくれる?」

 基準となる開放弦のAの音をリーゼロッテが弾くと、フリーダはさっさと調弦を終わらせた。ヴァイオリンを構えたまま他の話題に移る。

「とにかく今度のコンサート、うちの先生が変な対抗心持っちゃって、最後のソロをあたしにしようって頑張っちゃってね、で、ほらあのコンサートってお披露目みたいなとこあるじゃない。だからあんたの先生も負けてなくって。知ってた?」

「いいえ、知らなかったわ」

「そうなの? おまけにあたしたちコンサート用に同じ曲を練習してたもんだから、もう収まりがつかなくなって、で、結局二人で出来るドッペルコンチェルトになったってことみたいだけど」

 よりにもよって同じ曲だったのか。眩暈がするような気がして、リーゼロッテは目を閉じた。怒りを感じたためでもあったし、呆れたからでもあった。そして認めたくはなかったが、ほんの少しだけ安堵が混じっていた。

「じゃあやろうか」

 瞼を押し上げると、フリーダが唇を曲げるようにして笑っていた。鳶色の目だけがぎらぎらとして、飢えを満たす直前の肉食獣というのは、こんな顔をしているのではないだろうかとリーゼロッテは感じた。

「デュエットはひさしぶりだから、楽しみなんだ。気持ちいいよね」

 重奏は嫌いだと教えるのも癪な気がして、リーゼロッテは無言のまま息を吸い込むと弾き始めた。

 最初のフレーズは第二ヴァイオリンだけだ。音階のように几帳面なメロディは低音から始まる。それから第一ヴァイオリンが、主題を一段高い位置で繰り返しながら飛びこんで、二重の旋律がはしりだす。



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