第二ヴァイオリン/リーゼロッテ Ⅰ
「フリーダ・シェリングのことは知っているかな」
名前だけは、と弓の毛をゆるめながらリーゼロッテは答えた。
「いまオーケストラのコンサートマスターをやっている子だ。君は会ったことはないのかな」
「私はオーケストラの授業は免除されましたから」
「そうだったね」
レッスン後に教師がこんな風に引き止めることはめずらしい。弦を柔らかな布で拭きながら、リーゼロッテは彼の次の言葉を待った。そして耳を疑った。
「今度のコンサートは、彼女と一緒にドッペルコンチェルトを」
機械的に弦の上を滑った布は、金切り声のような摩擦音を鼓膜に刺した。
まだ片付けていなかった楽譜に、リーゼロッテは薄い水色の目を向ける。瞬きして、タイトルを繰り返し視線でなぞった。
ピアノ伴奏もない、一人で弾くための曲だ。ここ半年間、これだけを練習してきたのは、年末のコンサートでこれを演奏するためだったはずだ。
ことさらゆっくりと楽器ケースの蓋を閉めた後、やっと唇は言葉を思い出した。
「……私は今回、ソロを受け持たせていただけると思っていたのですが」
「状況が変わったんだ」
こっちもあっちも顔を立たせなくてはいけないからね。
教師は悪気のない様子で告げた。つまりは教師達の間で何かがあって、皺寄せが彼女のところにきたということだ。
リーゼロッテは、自分は何のためにヴァイオリンを弾いているのか、と思うことがある。
こんな大人の都合に振り回され、醜い感情を引きずり出されるためではないはずだ。
ではどうしてか、というと彼女には答えられない。
おぼえている限り、弾くことは呼吸をするように自然だった。いや、そこまで楽なものではない。
時折、水の中で呼吸をしようとしているようなものではないかと思う。それほど苦しい。
そういうときはなにも考えないまま、ひたすら弾いた。
疑いを持たなくなるまで、執拗に。
「前にやったろう、両方のパートとも。あれなら何回か合わせただけで出来る。あの子はうまいから」
「そうですか」
落ち着いた声で返してから、リーゼロッテは不安になった。普通に聞こえただろうか。あまりに平坦すぎなかっただろうか。怒りや悲しみが透けてみえるほどに。
「じゃあ明日の午後四時に第五レッスン室で」
教師は顔を上げずに言うと、何かを書き付ける作業を続けた。リハーサルの予定も事前に決められていたのだ。
傷ついた。彼に自分を傷つけることが可能だとは思っていなかったから、不意討ちは余計に痛かった。
リーゼロッテがこの学校に転入したのは、半分以上がこの教師のレッスンを受けるためだ。
オーディションはこの教室で、一対一で行われた。夏の初めのことだ。ドアを開けると、うだるような空気の中に禿頭の小男が無愛想な顔で座っていた。優秀な教師としての評判から受けていた印象との落差に驚いたのは、後で思い返してからのことだ。そのときは無我夢中だった。
オーディションを形通り終わらせてから、彼は「じゃあ来週からおいで」と一言だけ口にした。汗だくになったリーゼロッテが呆気にとられたまま彼の顔を見つめると、再度同じことを平坦な口調で繰り返した。
そうしてリーゼロッテは彼の生徒になった。
しかし、これまでこの教師に褒められたことはない。
それを不満に感じたことはあっても、表したことはなかったはずだ。努力が足りないのだと、求めているものが違うのだと、生徒を簡単に褒めるひとではないと、さまざまな答えを想定した。だいいち、自分も彼に教えを乞うことができて光栄だとは口にしたことがない。贔屓とまではいかなくても、そんな言葉などなくても認めてもらえているはずだと信じ込もうとしてきた。
それでも、もしかしたら、そんな浅ましい思考も行動も、すべて読まれていたのかもしれない。
フリーダ・シェリング。
あの問いも、質問というよりは確認だったのだろう。
ああそうだ、とリーゼロッテが退室する直前に教師は付け加えた。
「君には第二ヴァイオリンをやってもらう」
ドアを叩きつけないよう、ことさら丁寧に、そっと閉めた。
* * *
嘘はついていないが、真実からはほど遠い。
彼女について知っているのは、確かに名前だけだ。
それから、たぶん一度だけ、演奏を聴いたことがある。
自習室の閉まった扉の向こう、漏れてきた音に吐きそうになった。
あれは、まるで。
もし音楽が一輪の花だとするならば、彼女の演奏は、それが、花というものが、性器であるという本来の目的を嫌が応にも目の前に突きつけるような。
それでいて甘い毒を耳から注ぎ込まれるような、そんな。
曲は彷徨う民の旋律を借りて、作曲家が人妻への想いのたけを綴ったものだ。寂しげな、独特のメロディが、許されぬ恋をうたう。言葉も交わせぬまま、相手の姿だけを目で追い、愛を乞いねがう。
すすり泣くように流れていた音色は十六分音符の連続で指がもつれて止まり、そこでリーゼロッテは意識しないまま止めていた呼吸を再開した。細く息を吸い込む。鷲掴みにされた胃が、ゆっくりと元の状態にもどった。
ロマンティックな曲にはいいかもしれないが、あまり一般的なクラシック向けの音ではないと分析して、それからやっとリーゼロッテには嘔吐感の正体がわかった。
これは、嫉妬だ。
自習室の使用者リストを照会してからというもの、彼女の名前はずっと影のようにつきまとっている。
ふりかえれば必ずそこにあるもののように。