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第一ヴァイオリン/フリーダ 後奏

 雲ひとつない空に、鳥は溶け込めないまま翼を広げて旋回した。青と白のコントラストは目が痛むほどだ。

「オーディションに受かったよ」

 フリーダは反らしていた首を戻し、墓石に向かって報告した。

「あんたがいなかったから楽だった」

 彼女の死の知らせを聞いたとき、まず驚愕した。それから、上級学校に進めることが確定した、といやに冷静な声が、脳の裏側から指摘した。

 あとで自己嫌悪におちいったが、それが事実だ。

「それでも、やっぱり残念だよ」

 偽善ではなく、それもまた真情だった。

 ひとつだけに感情を絞ることなどできない。心は多面体のようだった。フリーダだけでなく、人間というのは、すべからくそういうエゴの塊なのかもしれなかった。

「ねえ、なんで風邪なんかで死んじゃうかな」

 流行っていた感冒に喉をやられ、咳きこみつつ自室に引き取ったのが最後、翌朝には冷たくなっていたという。痰がからんで呼吸困難を引き起こしたのだろうと言われていた。

 しかし誰にも看取られず、ひっそりと息をひきとったのは、どこかしらリーゼロッテらしいように思える。

 あの、ヴァイオリンを演奏することが、人生の中で最優先だった少女にとって。

 死は彼女の予想だにしない早い時期に訪れたが、リーゼロッテはそれまでの人生を、そしてその目的を後悔しなかっただろう。そうであればいい。

 どこかはるかを目指して飛んでゆく鳥のように。

 羨ましかったのはそのひたむきさだ。


「レコードを聞いているようだった」

 コンサートの後で、父はそう言った。

 それが彼なりの精一杯の褒め言葉なのだと、フリーダは理解した。彼をはじめ、家族は、フリーダの将来への希望や不安、そして音楽への情熱を決して理解することなどないとも。

 それでも構わなかった。

 自分さえわかっていればいい。目指すものを、そしてその動機を。

 オーディションに備えて、学校と家との往復だけに世界を狭めていたフリーダは、リーゼロッテの葬儀の日も知らずに過ごした。教師にそれを告げられたのは、オーディションが終わってすぐのことだ。

 リーゼロッテのことを意識して、研鑽を積んでいるのを妨げたくはなかったのだ、と教師は大柄な身体を縮めて言った。重ねて、あのコンサートの際に二人を組ませたのは教師達の策略だったと、いまさら詫びを乞うような顔で暴露されても、フリーダはなんと返せばいいか分からなかった。自分のことをそこまで考えてくれることに感謝するべきだったのだろう。それでも陥れられたように感じて、フリーダは怒りを喉の奥に押しこめた。

 無言で立ち尽くすフリーダに、教師は目を伏せたまま、勿体なかったわね、と低い声で呟いた。

 そう、勿体なかった。

「あたしたちは、もっとよくなるはずだったのに」

 口にした言葉は恨み言のように響いた。墓石は黒く、沈黙を守っている。緑萌える春になっても、きっとここは静かだろう。

 空の青さに紛れもせずに飛ぶ鳥をかなしく感じるのは、人間のエゴだ。鳥はそんなことを考えたりはしない。そんなことに意味を求めるようなことはしない。

 生きていたら、と思うのもエゴだ。

 彼女はもういないのだから。

 リーゼロッテにあるはずだった未来の分まで自分が背負えるとは思わなかったし、引き受ける気もなかった。

 しかし、それでも、フリーダが彼女の名前を忘れ去る日がいつか来ても、リーゼロッテの音は響き続けるだろう。フリーダの中でいっそう美化されていくことだろう。自分だけが、死者の演奏を惜しみつつ生きていくのは不公平でしかない。

 この空の下に、彼女の音がもう存在しないということが、信じられなかった。もうあの光のような音を聞くことが出来ないというのは、世界の裏切りのようだった。

「……ねえ、ドッペルコンチェルトは気持ちよかった?」

 フリーダは答えの返ることのない質問をした。たとえ聞くことがかなわなくても、返事はわかっていたにもかかわらず。

 これから年をとるにつれて、もっと色々な演奏に出会い、さまざまな音を耳にするだろう。幾度となく挫折を繰り返すだろう。たとえそうであっても。それがわかっていても。

「あたしは弾ける」

 フリーダは死者にむかって宣言した。

 音が絡みついたときに感じるものは真実なのだから。

 重奏は競うためのものではなかった。重なり合った旋律は新たな世界を開いた。

 ヴァイオリンを弾くときに身体に響く、あの恍惚を。自分の生み出す音に呑まれ、音と一つの存在になるあの至福を。

 それを知ってしまえば、どうして逃げることができるだろう。

「あたしは弾くよ」

 フリーダは繰り返すと、彼女にその誓いが届いたことを確認するように、ブーツに包まれた右足の爪先で墓石の隅を軽く蹴りつけた。


 耳の底では、ドッペルコンチェルトがいまだ響き続けている。



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