第一ヴァイオリン/フリーダ Ⅵ
照明を落とされた舞台裏の中でも、一際暗い一角を見つけてフリーダは床に座り込んだ。皮膚の下で、さまざまな感情が荒れ狂っている。
きっかけは、今朝の父親との会話だ。朝食の席でコンサートの予定を説明するフリーダに、彼は問いかけた。
「おまえは、ヴァイオリニストになるのか」
「……わからないわ」
それが、これ以上なく正直な答えだったことを、父親は気付かずに手にした新聞に意識を戻した。
「まあ、まだ遅くない」
フリーダは笑顔を貼りつけたまま紅茶を飲み干した。
遅くない、とはどういう意味だ。父親の言葉にぐらついたことに、フリーダはさらに動揺した。
期待されぬ身の辛さはフリーダの兄弟には我侭としか聞こえないだろう。自分が彼らの窮屈さを理解することがないように。
『あたしはヴァイオリンをするわ』
あの時、もしも一言でも反対されたとしたら、フリーダはこの道に進まなかった。
ヴァイオリンを選んだのは、浅はかな自己顕示欲だと。ただ自分を見せつけ、認めてもらいたかっただけなのだと。
こんな形で暴かれるとは思わなかった。
ああもうだめだ。もう取り繕えない。
ヴァイオリニストになるかどうか自分にも分からないままなのは、決意することから逃げ続けているからだ。
いつも何もかもが足りない。覚悟が、情熱が、実力が。足りないことばかりだ。その自覚ばかりがある。
叫びだしたくなった。演奏を終えた生徒へ、客席から盛大に拍手が送られているのが聞こえる。
急に肩に触れられて、フリーダは小さく震えた。リーゼロッテが、心配そうに見下ろしている。
「……手がふるえて」
証明するように手を差し出しながら、自分の情けなさに涙が出そうになる。リーゼロッテは何も言わずにフリーダの手と顔を交互に見ていたが、納得したように頷いた。
おもむろに繋がれた手のあまりの冷たさに、フリーダは一瞬葛藤を忘れた。
「大丈夫」
リーゼロッテはそう言って、フリーダに向かって笑ってみせた。意図するところもなく、ただひたすらにフリーダのことを思いやっての笑顔だ。フリーダは何と言えばいいかわからなかったが、とりあえず手を逆向きにしてリーゼロッテと手のひらを合わせると、指を絡めるように手を組みあわせた。
「あんた手がつめたいね」
「……緊張してるから」
正直な答えが返ってくる。そういえば、彼女にはいつも偽りがなかった。
「大丈夫」
フリーダは手を繋いだまま立ち上がった。リーゼロッテを引っぱりあげるような格好になる。舞台から差し込む光が、彼女の髪に暖かそうな光輪を付け加えていた。
大丈夫よ、と繰り返すと、同じ言葉がもう一回告げられる。瞬間強く握られてから、彼女の手は離れていった。
リーゼロッテの手が暖かくなるにつれて、波立つ自分の感情までも吸い取られていくようだった。代わりにデュエットしたときの感覚が、かすかにだが戻ってきていた。
フリーダは顔を上げると、舞台に進み出た。
* * *
そして、すべてが満たされた。