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第一ヴァイオリン/フリーダ Ⅳ

 コンサートまで、あと一週間もない。

 暖房の効いた教室から出て、廊下の空気の冷たさに一瞬身をすくめたフリーダは、先にリーゼロッテが歩いているのを見かけた。どこかへ向かう途中なのだろう、早足で歩く彼女に背後から腕をのばす。身体を引き寄せると、リーゼロッテは硬直した。

「あー嫌われたもんね。あたしは結構あんたのこと気に入ってるんだけどな」

 冗談めかして言いながら、当然だと思う。あれほど自分を貶めた相手を好きになれ、というのは到底無理な話だ。けれど、フリーダはリーゼロッテ自身のことは嫌いではない。ヴァイオリンに打ち込む姿勢も、演奏も。嫌いなのは、それに刺激される自分の劣等感だ。

 彼女とドッペルコンチェルトを弾きたいと思う。やりとげることができたなら、自分が第一ヴァイオリンに見合えるだけの才能があると信じられる気がする。

 それにこの間のリハーサルで、ほんの短い間だけ共に演奏したときに、これまでの重奏とはなにか違うものをフリーダは感じた。思い返すたびに、その感覚は強まっている。

 恐ろしいが、近寄りたい。

 リーゼロッテが小さく身じろぎしたので、フリーダは顔を覗きこんだ。

「どうしたの?」

「なんでもないわ」

 言っていることとは裏腹の顔をしていたが、フリーダは深入りはしなかった。自分に許されることではない。そのまま話題を変えた。

「今日三時以降は空いてる?」

「……四時からなら」

「じゃあ待ってる。この前と同じ第五レッスン室で」

 近寄りたいが、恐ろしい。

 逃げるな、と付け加えたのには、自戒の意もあったことに、リーゼロッテは気付いただろうか。


 * * *


 決めた時間より少し前に向かったレッスン室は無人だった。フリーダはもう何回練習したかわからない曲をさらう。

 デュエットすることは好きだといえ、シンプルかつ謹厳なこの曲自体はあまり好みではなかった。

 弾くならば、華やかで技巧を凝らしたものがフリーダは好きだ。どこを強調すれば観客に受けるかがすぐ分かる。難曲と呼ばれるものも好きだ。乗り越えなければいけない挑戦が目の前に提示されるのはいい。

 それは結局、他人に見せびらかして良い評価をもらいたいだけで、自分が弾きたいからという理由ではないのではないか、とフリーダは瞼を固く瞑った。

 また抑えていた不安が頭をもたげる。

 ぱちり、と照明が点けられる音に驚いて目を開ける。考えをさまよわせながらも演奏しているうちに、曲は後半に入っていて、窓の外は暮れなずんでいた。

「いい楽器ね」

 音もなく入ってきたリーゼロッテは、ケースを下ろしながら唐突に言った。

 フリーダは口をつぐんだまま彼女に楽器を差し出した。了承を求めてから、リーゼロッテは本来コンサートで弾くはずだった曲を弾きはじめる。

 音が、次々と閃いて高く遠くに飛んでゆく。

 自分が演奏しているときも、このヴァイオリンはこんな音を響かせるのだろうか、とフリーダは嫉妬を交えて感嘆した。

 演奏者にとってヴァイオリンは音を出すための器というだけではない。自分の声よりも近しく重要な響きを持つものだ。フリーダも楽器を購入する際、いくつヴァイオリン工房を見て回ったかおぼえていない。試した楽器の数はその倍以上になる。

 最後に出会ったヴァイオリンは、古ぼけた姿に似合わぬ華やかな音をしていた。どれだけ弾いても飽きることがなかった。恋に落ちたと言っても過言ではない。

 それをフリーダが手に入れられたのは、やはり父親の収入が潤沢だからだ。普通の家庭では、そんな金額を費やすことはできない。

 フリーダの楽器を検分する者は、大概が値段について質問した。答えると、驚きをありありと顔に出す。彼らに悪気はないのだろう。けれど、それはフリーダには弾劾のようにしか思えなかった。のうのうと甘やかされていることについて。自分が人よりも恵まれていることについて。

 リーゼロッテから楽器を受け取りながら、フリーダは来るべき質問に備えた。そして愕然とした。訊かれたら、リーゼロッテのことを嫌ってしまうのではないか、ということにではなく、嫌いたくない、と思っていることに。

「E線がちょっと高いわ」

 フリーダのそんな葛藤も知らずに、リーゼロッテはそれだけしか言わなかったので、フリーダは意表をつかれた。慌てて、リーゼロッテの持つ絶対音感のことに話を逸らす。彼女は必要最低限ではあったが、無視することなく受け答えをした。そんなことでも嬉しくなる。

 どうやら自分は自分が思っている以上に、彼女のことを気に入っているらしい。

「もうこのあとはドレスリハーサルしか合わせる機会がないでしょうから、今日はお互い納得いくまでやりましょう」

 リーゼロッテの険しい顔での決意表明に、フリーダは笑った。笑顔には色々な意味がある。彼女に純粋な意味での笑みを向けたのは、それが初めてだった。



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