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第一ヴァイオリン/フリーダ Ⅲ

 リーゼロッテが第一ヴァイオリンのパートを弾いていることに気付いて、演奏を止めたのはほとんど同時だった。

「……もっとよく聴いて。あんたは確かに上手いけど、余裕がない。あたしたちはそれを見せちゃいけないんだから」

 彼女に重奏の経験は少ない、と導き出してフリーダは指摘した。

 デュエットはひとりだけのものではない。ファーストとセカンドが応答を繰り返して曲を織り上げる。リーゼロッテはフリーダに合わせようとはしなかった。それだけではなく、それは、人に聞かせるためというよりは、自分自身のための演奏だ。

 人間には二種類いる。答えを求める人間と、答えなどなくても生きていける者と。リーゼロッテは後者に属しているのだろう。

 リーゼロッテはうなだれてはいたが、悔しげに口を開いた。自分の非を認めようとしたのかもしれない。

「それともあんた」

 彼女の言葉を聞く前に、フリーダは舌を凶器に変えた。

「もしかしてファーストが弾きたかったの?」

「いいえ」

 低いつぶやきは、早く返されすぎた。そんなにすぐに反応すれば、本当だと認めていることに他ならない。

「ならいいんだけど。交換する? って言ってあげたいところだけど、あたしもせっかくの第一ヴァイオリンを譲りたくないし」

「結構よ、そんなこと。……うぬぼれるのも大概にしたら? どちらがファーストかなんて、聞いただけではわからない曲だわ」

「でもあたしたちはそれを知ってる人達の前で弾くんだよ」

 傷口に塩を塗りこむように紡いだ言葉には本音と牽制を半々に混ぜた。首筋の毛が逆立つほどの緊張感が、青ざめて沈黙するリーゼロッテと自分の間にみなぎる。追いつめながら、自分の中に嗜虐的な喜びがあったのを、フリーダは見ないようにした。

「ごめんなさい、今日はもう、失礼するわ。あなたと練習できる気がしない」

 楽器を荒々しく片付けるリーゼロッテに、そうだろうな、と思う。緊張感が途切れると、うすら寒い気分が心に忍び込んできていた。自分が失敗したあげくにこんなことを言われたとしたら、フリーダは相手を殺したいと思うだろう。

 ドアを叩きつけながらも、リハーサルをキャンセルすることについて一言詫びるのが、リーゼロッテなりの矜持なのだ、と理解しつつ、フリーダは黙って彼女が去っていく足音を聞いた。それから自己嫌悪に沈んだ。


 * * *


 誰もがあなたのように幸運なわけじゃない。

 ひとりになった部屋で、先ほど言われた台詞を反芻する。

 人より恵まれていることは知っている。ヴァイオリンを続けていくには費用がかかる。名の知れた教師は、それだけの謝礼をレッスンに請求するし、楽器自体も高価だ。

 フリーダは裕福な家に生まれた。

 父は医者で、兄も弟も彼の跡継ぎとなるべく期待されている。フリーダは女だから医者にはするつもりがないのだろう。両親の期待からはいつも自由だった。

 学校の普通科目の勉強は得意だったし嫌いでもなかった。成績はいつも上位に位置していた。特に数学が好きだった。いつでも綺麗に、たったひとつの答えが得られるもの。

「あたしは、ヴァイオリンをするわ」 

 けれど、フリーダはそう宣言した。進路決定をひかえた冬の夕食での席でのことだ。兄弟はざわめいて、父は料理から目を上げると、そうか、とだけ言った。母は、その父の反応を見てから安心して微笑んだ。

 うぬぼれだけではなく、フリーダにはヴァイオリンの才能もある。

 これまで教師に目をかけられ、学校でコンサートマスターを任されてきたのは、そういうことだ。それでも、このごろ吐き気がするほど渦巻く疑問に呑み込まれそうになる。

 自分はどこまで上を目指したいのだろうか。自分にはそこを目指せるのだろうか。それより、自分はこの道に進んだことを後悔してはいないか。間違った選択をしただろうか。

 心は答えを求めて、ふとした瞬間にぐらぐらと揺れ動く。

 リーゼロッテがリハーサルを切り上げてくれて助かった。自分も練習にはならなかっただろう。

 デュエットで合わせることは慣れだ。練習次第で出来るようになる。それなのに、それがさも重大な失敗のように言い立てたのは、劣等感の裏返しだということが、フリーダにはわかっている。

 傍から見れば傍若無人としか形容できない性格をしているようにとられているだろうが、自分は誰よりも小心者だという自覚がフリーダにはある。そして卑怯だ。他人の目をいつも気にしているために、余計に自信があるふりをしてみせた。

 どんなに才能に恵まれていても、上には上が存在するのだ。ソリストとオーケストラで弾く者の差。同じオーケストラの中でも座る位置によってつく差。年齢や経験だけでは量れない何か。練習だけでは埋められない何か。

 隣の友人の無意識の僻み。

 自分はそれを見ないふりをした。

 フリーダ自身がそれに囚われる日が来ることも知っていた。

 こんなに早く訪れるとは思わなかっただけで。


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