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第一ヴァイオリン/フリーダ Ⅱ

 石造りの廊下に足音を響かせて、フリーダはリハーサルに急いだ。旧い建物はスチームで暖められていても、白く曇ったガラス窓の下や壁の裂け目からつめたい隙間風がたえまなく吹き込んでいる。

 どこかからか幼い声がキャロルを練習しているのが聞こえてきて、彼女の張りつめた気持ちはわずかにゆるんだ。

 だがそれも、第五レッスン室の前にたどりつくまでだった。

 音が、した。

 後になって思えば、それはこれから弾く予定となっていたドッペルコンチェルトの片方のパートだったのだが、そのときのフリーダには、旋律も、曲も、関係なかった。

 耳から、感覚が、いや存在のすべてが、それに引き寄せられる。否応なく追っていく。

 眩しく、挑むように、鮮烈に、切り裂くように、ただそこにあるものを。

 フリーダはなすすべもなく立ち尽くした。雪の降りしきる中に、たたずむようだった。 

 コートの袖についた繊細な結晶は、目を近付けないとしかとは見えない。それでいて、少しでも息が掛かれば、すぐに溶けてしまう。

 だから、呼吸をひそめて、じっと見つめたように。

 光を聞いた。


 * * *


 ドアを開けたとき、自分がそれまでどんな相手を想定していたのかフリーダにはわからなくなった。

 相手が自分と同じくらいの年だということは知っていた。名前から、女だということも前提条件として付け加えられていた。しかし、あの音はそれまでのすべての想像をゼロにしてしまうほどの力があった。

 少なくとも、いま静かな顔でこちらを見つめている、この少女を予想してはいなかった。

 手足は細く、それがいましがたの演奏を生み出したとは、相手がヴァイオリンを構えていても信じられないくらいだった。肌の色は血管が透けて見えるほど白い。顔の造作も華奢で、そのなかで薄青い目だけが、じっとこちらを窺っている。

 野生動物のように苛烈なそれを見たとき、フリーダは納得した。

 あの音を出したのは、確かに自分の前に立つこの少女だ。動物といっても、群れる習性をもつものではなく、その身一つで目的を果たす生きものだ。

 そしてヴァイオリンを弾くことこそが、彼女にとって何よりも優先されることなのだ。ほかには興味を持たないし、持てないのだろう。

 自分もヴァイオリンのことさえなければ、彼女の視界に一生入らなかっただろう。

 人の出入りが多い家に生まれ育ったせいか、フリーダは初対面で相手の性質を把握することには自信がある。

 フリーダは笑った。

 笑顔というのは、自分に敵意が無いということを見せる手段だ。

「あたしはフリーダ。フリーダ・シェリング」

 それは争いに負けた獣の、媚びるような、へつらうような表情によく似ていると思いながら、フリーダはリーゼロッテの冷たい手を握った。


 リハーサルの支度をしながら軽口をたたくと、リーゼロッテはじっとどう反応しようか考えているようだった。人付き合いが不得手なこともあるだろうが、まず自分のようなタイプが苦手なのだろうと推測して、フリーダは内心で苦笑した。愛称で呼ぶことも拒否されてしまうとなれば、取りつく島もない。

 ストラディヴァリウスの話をした際には、呆れられたような気配までした。

 しかし冗談めいて言ってはいても、実際にありえないことだと分かっていても、フリーダの言葉に嘘はない。

 セックスは数回したことがある。

 付き合っていた相手も自分も将来を真剣に考えていたわけではなく、ただ情況に流されてのことだった。

 はじめは勝手はわからないし、痛みはいたるところに走るし散々だったが、慣れていくうちに、身体は快楽のかけらというべきようなものを、ほんのすこし拾い上げたような気がする。

 それでも、あんなことでストラディヴァリウスが弾けるのなら、一回とは言わず何回でも惜しくはない。デュエットすることに比べれば、密度の薄い快感だった。

 フリーダは重奏が好きだ。

 音を重ね合わせ、競いあうことが。

 リーゼロッテはどうなのか、フリーダにはわからなかった。ソロに専念しているということは、小規模のアンサンブルにも参加していないだろうし、オーケストラをやっていないことはもう知っている。

 自分たちがデュエットをすることになった経過を説明すると、リーゼロッテは状況を詳しくは理解していなかったらしく、目をわずかに揺らがせた。

 同じ曲をやらなくてすんでよかった、と思ったのはフリーダも同じだ。それでもドッペルコンチェルトならばいいのかとなると自信が持てなかった。

 相手は自分を意識している。向けられる感情は敵愾心と、それからすこしばかりの怖れと羨望だ。リーゼロッテは非常にわかりやすい少女だった。

 そして、フリーダからは同じ感情のベクトルが逆方向に出ている。

 まだリーゼロッテは気付いていないようだが、それを相手に悟られるわけにはいかなかった。退くわけにはいかなかったし、精神面で優位に立ちたかったせいもある。これでも自分には第一ヴァイオリンのパートが与えられている。それがリーゼロッテよりもすぐれていると認められた証拠だと信じたかった。

 さきほどの衝撃が薄れるにしたがって、相手がどんな演奏をするのか興味も出てきていた。

「じゃあやろうか」

 今度は威嚇と自分自身を励ます意をこめて、フリーダは笑った。リーゼロッテが無言のままヴァイオリンを構える。

 最初のフレーズは第二ヴァイオリンだけだ。音階のように几帳面なメロディは低音から始まる。それから第一ヴァイオリンが、主題を一段高い位置で繰り返しながら飛びこんで、二重の旋律がはしりだす。



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