第一ヴァイオリン/フリーダ Ⅰ
「リーゼロッテ・ハルトマンってどんな子?」
唐突に訊かれて、隣に座っていた少女はくるりと目を動かしてみせた。
「有名人でしょうが。知らないの?」
「今年転入してきたことは知ってる。あんたと同じ教室だったよね?」
「そうよ。注目の成長株。競馬でいうなら一番人気のサラブレッド。今年のコンサートでの出番は一番最後」
「なんでオーケストラやってないの?」
「ソロに専念するからって免除されたんですって」
へえ、とフリーダは感心してみせた。オーケストラ練習の合間には、そこかしこから談笑や苦手箇所をさらう音がする。
「そういえば、おかしいわね。トリを飾るのはフリーダじゃなかったの?」
確かにそこの半音はいつもずれる、とオーボエに耳をすましていたフリーダは、隣の声に意識を戻した。コンサートマスターとして、後で注意をするべきかもしれない。
気付かれたか、との思いを押し隠して笑って見せた。
「そうね」
「なに、蹴落としたの?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。蹴落としてないわ。それに順序から言えば、あたしの方が前からいるんだから、蹴落とされる側なんじゃないの?」
「じゃあ蹴落とされたの? もったいぶってないで、早く言いなさいよ」
冗談にせよ大仰に眉を吊り上げた相手に、フリーダは肩をすくめた。
「デュエットすることになったのよ。二人で」
「本当!? なんか滅茶苦茶じゃない、それって」
フリーダは、まあねえ、と力無い相槌を打った。確かに前代未聞ではあるが、双方の教師が退かなければ、こういう事態もありえるのかと思う。
年末のコンサートは生徒のお披露目としての比重が大きいが、演奏者たちはもちろん、彼らを通じて教師の手腕までもが評価される。つまりこの時期は教師たちもが売り込みに奔走し、発表する生徒に期待と希望を担わせる。
話によれば、彼女は教師の秘蔵っ子であるらしかったし、自分もそうだ。双方の技量はともかく、知らない間に、教師同士の威信やら体面やら派閥やらまでが混ざった争いに巻き込まれてしまった気がする。
「だから曲も一からやり直すことになっちゃってさあ」
「そうなの? まあせいぜい頑張って。食われないようにね」
「なんか不穏なこと言わなかった?」
「いえいえ、心からの忠告ですとも」
少女は殊更にすました顔を作って、楽譜に手をのばした。
「あの子は、なんというか、存在感があるのよ。演奏してないときは、無口だし、いるのかいないのかわかんないくらい静かなんだけど」
ぱらぱらと次に演奏する予定の三楽章が開かれる。
「フリーダとは弾き方が違うわね。あんたも目立つけど、どっちかというと本人みたいににぎやかで派手だから。あっちは透明な音で……もっと真剣というか」
フリーダは不本意な所見に反論しようとした口をゆっくりと閉じた。
本人は意識もしていないのだろうが、少女の横顔はわずかに険しい。
席を外していた生徒達がそれぞれの場所に戻ってくる。休憩時間が終わったのだ。
フリーダも、それ以上は何も言わずに顎の下に楽器を挟んだ。
* * *
「今年のコンサートではドッペルコンチェルトを」
告げて教師は唇を噛んだ。
レッスン室のドアを開けた途端にその台詞を投げつけられたフリーダは、うまく受け取り損ねて気の抜けた返事をした。
「はあ」
「何よ、悔しくないの!?」
「いえ、いや、あの、唐突ですね」
フリーダが入学してからずっとレッスンを受けているこの教師は、いつもは大柄な身体にもかかわらず可愛げのある女性だ。ただ、感情表現が大げさなのが難点だと思う。
「そう、こんなに急に! しかも新参者に! 信じられない!!」
教室の中央を歩き回りつつオーバーヒートしていく教師の言葉からは、相変わらず状況説明というものが抜けている。彼女の肩越しに壁の時計をチェックすると、レッスンの時間はもう始まってしまっていた。そのまま視線を動かして窓の外を眺める。屋根から垂れ下がった氷柱から滴が一定のリズムで落ちていた。
それを数えるうちに、子供には聞かせられない語句まで混じり始めた罵倒は別のヴァイオリン教師に向けられていた。常に不機嫌な顔をしている物静かな彼と感情表現がおおっぴらで情熱的な彼女は、まったく似ていない者同士ながら、双方ともがこの学校の名物教師だ。彼らのどちらかに教わることを夢見て、遠方からわざわざやって来る生徒も多い。
しかし、両者とも名を知られているからこそ、お互いのことを常に競争相手として目しているようだった。少なくとも、フリーダの教師は相手のことをライバルどころか憎悪の対象として認識していて、彼の名前はいつも吐き捨てられるように発音された。
相手がストラディヴァリウスを持っているということも、闘争心をかきたてる一因だろう、とフリーダは推測していた。彼女の教師のヴァイオリンも、端麗な音を奏でる良い楽器ではあるが、ストラディヴァリウスはストラディヴァリウスである。山といったらエヴェレスト、というように、ヴァイオリンの代名詞的なものがある。
「あいつが、同じ曲をやらせてたって言うのよ! それで同じ曲を二回演奏させるのもどうかっていうし、どちらを最後にするかも決まらないし、そしたらデュエットは、って!」
自分が腹を立てていても、目の前で感情を先に爆発させている者がいると、言い出せなくなってしまうというのは本当だ。教師が、毛を逆立てた猫のようになりつつ、かろうじて行った説明をフリーダは冷めた気分で聞いた。
「唯一の救いは、あなたが第一ヴァイオリンだってことかしら。でもこの曲に関しては、そんなに差はないわよね。どう思う!?」
「……そうですね」
正直に返事をすると、教師は行ったり来たりするのをぴたりとやめた。目を閉じて、こめかみを揉む。
「フリーダ」
改まって呼ばれた名前に、不穏なものを感じて、フリーダは自分が打つ手を間違ったことを知った。もっと憤慨してみせるべきだったのだ。
「誰もがあなたのように幸運じゃないっていうのに、なんであなたはそんな宝の持ち腐れのような態度をとるの!?」
すみませんと、とりあえず頭を下げつつ、フリーダは不思議に思う。どうして教師はフリーダのことについて、まるで彼女自身のことのように感情を波立たせてくれるのだろう。その振幅の度数をくらべれば、それはフリーダよりも格段に強い。
「でも今回は負けるわけにはいかないんですからね、失敗なんて絶対だめよ!!」
言い募って、教師は早く楽器の支度をするように身振りで催促した。
「これから練習するわよ。昼休みも見てあげるから」
「あの」
「何よ文句あるの!?」
待ってください、とフリーダは手を挙げた。
「ドッペルコンチェルトってことはデュエットですよね? 相手は誰ですか?」
教師は一瞬奇妙な顔をして、当然の質問への答えを、なぜか少し言いよどんだ。
「リーゼロッテ・ハルトマンよ」