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第八話:『二つの足跡』

初夏の陽光は、つい数日前までの長雨を嘘のように吸い上げ、呉郡の治水官衙の白壁を容赦なく照りつけていた。


打ち水が施された石畳からは、むっとするような熱気が立ち上っている。


官衙の広間。


そこは、声を出すことさえ躊躇われるほどの静寂に支配されていた。


居並ぶ実務方の文官たちの視線は、上座ではなく、一人の若者が広げた巨大な木簡の図面に注がれている。


歩隲、二十五歳。


その衣服の裾は、長雨の爪痕が残る水害地を幾度も歩き回ったため、洗っても落ちぬ泥の薄茶色に染まっていた。しかし、その佇まいは大樹のように微動だにしない。


「――以上が、今回の長雨によって浮き彫りとなった、太湖周辺の微細な起伏の数理でございます」

歩隲の声は低く、平易だった。


声高に論じるのではない。ただ、自らの足で測り直した大地の現実を、淡々と並べていく。


「机上の古図面(みとりず)では、この一帯は一律の平地とされております。なれど実際には、歩測にして三拾歩ごとに、僅か二寸の傾斜が東へ向かって落ちている。此度の氾濫は、その二寸の『水の理』を無視し、直線の堤を築こうとしたが故の必然にございます。故に、追加すべき計画は、直線の補強にあらず。大地の起伏に従い、僅かに弧を描く排水路の開鑿(かいさく)――これ以外に、次の大雨を凌ぐ術はございませぬ」


歩隲が「矩(かねのて)」と「標桿(ひょうかん)」を使い、泥にまみれて弾き出した詳細な数値。

それは、言葉の美しさで飾られたいかなる大言壮語よりも重く、冷徹な説得力を持っていた。


尚書僕射たる薛綜は、上座からその図面をじっと見つめていた。その切れ長の目に、かすかな知の揺らぎが走る。


周囲の文官たちが、異論を挟む余地すらない「疑いようのない合理」の前に、無言で背筋を正し、深く頭を垂れた。


その光景を、眩しすぎる陽光が遮る回廊の陰から、盗み見ている男がいた。


衛旌であった。


(……一糸乱れぬ、純白の制度。薛綜のあの満足げな眼差しは何だ。孫権様が無言で頷かれたのは、どういう意味だ)


衛旌の喉が、極度の乾燥を訴えて小さく鳴った。


彼の右手は、無意識のうちに右の耳際へと伸びていた。

整えられているはずのもみあげの毛先を、人差し指にきつく巻きつけ、執拗に引っ張る。


(歩隲……お前はいつの間に、そこまでの泥をその身に溜め込んでいた。孫権様から、俺の美麗な報告書を『実体のない他人の足跡』と切り捨てられながら、あいつの泥の手仕事には薛綜さえもあれほど深く首(こうべ)を垂れるのか)


視線の交錯はない。孫権も、薛綜も、そして今や堂々たる実務官僚の風格を帯びつつある歩隲さえも、回廊の陰に佇む衛旌の存在に気づきもしない。


取り返しのつかない「実績の差」が、目の前で巨大な溝となって開いていく。


衛旌の顔面は、初夏の暑さのなかで、凍りついたように白く強張っていた。


官衙からの帰り道、裏路地の薄暗がりに一歩足を踏み入れた瞬間、衛旌の仮面が割れた。


彼の表情は、激しい焦燥、圧し潰されそうな悔しさ、そしてそれらを覆い隠そうとする不敵な傲慢さへと、百面相のように目まぐるしく移り変わる。


もみあげを弄る指先は、今や皮膚を血が滲むほどに強く引っ掻いていた。


「他人の足跡だと……? 俺の才知をそこまで侮るか。完璧な規則、完璧な制度、反吐が出る。どれほど美しく整えられた盤上であろうとも、人間が作ったものだ。必ず裏の抜け道、しわ寄せの行く隙間があるはずだ。泥をすするしか能のない歩隲にできて、この俺にできぬはずがない。臨機応変の機策を以て、主君も、薛綜も、まとめて鼻を明かしてやる」


彼の歪んだ笑みが、暗い路地裏の壁に不気味な影を落としていた。


◇


その夜、二人が身を寄せる官舎の薄暗い一室は、じっとりとした熱気に満ちていた。


机の上に置かれた行灯の頼りない光のなか、衛旌は狂ったように木簡を並べ替え、何かを書き殴っていた。


「子山、これを見ろ! 早くこれを見るんだ!」


部屋に戻ってきた歩隲の袖を、衛旌が激しい力で掴み寄せる。その目は異様な興奮で充血していた。


差し出された木簡には、国家の物流と、江東の有力豪族である「沈氏」との間で交わされる、米穀の運搬経路が複雑に巡らされていた。


「見ろ、ここだ。丹楊と呉郡の境界、山越の勢力圏と隣接するこの未開地だ。国境未定地からの物資調達にかかる通行税、その帳簿上の処理が二重に重複している。これは薛綜の完璧な制度が産んだ、最大の『しわ寄せ』、盲点だ。ここを突いて架空の交易利益をでっち上げ、沈氏の残党に話を持ち込めば……俺たちの出世の道程は一発で跳躍できる! 泥まみれで何年も治水などする補職など、今すぐ放り出せるんだ!」


歩隲は、衛旌の差し出した木簡を静かに見つめた。


数秒と経たぬうちに、歩隲の目はその「奇策」の裏に隠された、底知れぬ深淵を看破した。


「……子旗。これは合理ではない」

歩隲の声は、夜の静寂よりも静かだった。


「言葉の虚飾と前例の不備を突き、存在せぬ利益を豪族と分け合う行為。それは国家を内側から腐らせるシロアリの所業だ。沈氏は未だ孫家に服従しきっておらぬ在地豪族。彼らとこのような闇の帳簿で私通すれば、一歩間違えれば国家反逆の罪に問われる。子旗、君自身に致命的な危難を招く。踏みとどまるんだ」


「綺麗事を言うな!」

衛旌は叫んだ。


激昂した彼は、右手の手のひらで、もみあげをぐっと後ろへ激しく撫で付けた。

額から流れる冷や汗を誤魔化すように、その顔に不敵な笑みを張り付ける。


「お前はいいよな、昼間の官衙で持て囃されて! 泥をすすっていれば主君に気に入られるんだから、そりゃあ余裕もあろうさ! だが俺は違う! 俺はお前と、二人で一緒に這い上がりたかっただけだ……!」

衛旌の言葉が、自嘲の混じった怒りへと変わる。


彼は机の上に置かれていた、昼間に買った瓜を乱暴につかみ取り、大きな音を立てて齧りついた。

甘いはずの瓜の汁が、生温かく彼の顎を伝って滴り落ちる。

その不快感を拭おうともせず、衛旌は不貞腐れたように歩隲に背を向け、布団へと潜り込んだ。


「……もう、お前の背中は追わん」

暗がりのなか、背を向けた衛旌の左手は、すでにぐしゃぐしゃに乱れた自らのもみあげの毛束を、狂おしいほど強く握りしめていた。


歩隲は何も言わず、ただ友の暗い背中を、悲痛な眼差しで見つめるしかなかった。


◇


夜が更けるにつれ、風は冷たさを帯びていく。


乱世の混沌、そして決別への予感という巨大な雑音を消し去るかのように、人々はそれぞれの場所で、無心に自らを調律していた。


官舎の片隅にある、陽の当たらぬ小さな中庭。


歩隲は一人、黙々と鋤(すき)を動かし、土を耕していた。爪の間に冷たい泥が食い込む。


彼は廬江から携えてきた、かつて二人で育てた「瓜の種」からようやく発芽した、か細い苗木を見つめていた。その苗が折れぬよう、そっと木の支柱を立てる。


泥に触れ、土の匂いを嗅ぐ。


その手の確かな感触だけが、崩れゆく友への苦悩で乱れかけた歩隲の心を、静かに平らへと戻していく。


同じ官舎の部屋の片隅。


蝋燭の温かい光の下で、淑玲は無心に針を動かしていた。


パチ、と蝋燭が小さく爆ぜる。絹糸が生地を通り抜ける「絹擦れの微かな音」だけが、静かな部屋に響いていた。彼女が繕っているのは、歩隲が昼間着ていた、泥の染みついた実務衣の綻びだった。


その綻びの上に、新緑の糸で、瑞々しい瓜の紋様を一針一針、優しく縫い進めていく。


外で神経をすり減らし、友との亀裂に胸を痛める夫の弱音を、彼女は決して否定しない。


ただ寄り添い、「子山さん、私たちはまた、あの泥の瓜を植えればいいのです」と微笑む。彼女の存在こそが、歩隲を冷徹な官僚から、「ただの瓜売りの男」へと戻す、唯一の安息所であった。


庭先、冷たい月光を浴びる犬走りの上。


十七歳の丁奉は、自らの武器である連結式の二振りの短槍をバラバラに分解し、床に並べていた。


彼は目をつむっている。視覚を遮断し、指先の触覚だけで、柄に巻かれた紐の位置を調整していく。


左右の手でそれぞれを握り、あるいは一本に連結させた時、一分の狂いもなく「完璧な重心の理」が肉体に宿るよう、無心で鉄を調律する。


金属同士が噛み合う「カチリ」という硬質な音が、冴え渡る月夜に響いた。


ところ変わり、華麗なる薛綜の邸宅。


贅を尽くした書斎で、薛綜は独り、詰碁の盤面に向き合っていた。


冷たく乾いた音を立てて、瑪瑙(めのう)の黒石を打つ。完璧な定石、完璧な盤面。しかし、次の石を握った彼の指先が、かすかに躊躇う。


脳裏をよぎるのは、昼間、歩隲が突きつけてきた「大地の泥の数理」だった。


己の愛する純白の制度を揺るがす、現場という名の泥臭い雑音。薛綜は静かに目を閉じ、自らの知性を調律し直すように、深く息を吐いた。


そして、官舎の布団のなか。


衛旌だけは、調律の術を持たなかった。


生温かい瓜の汁の残滓が喉を不快に焼き、天井を睨みつける彼の指先は、自らの皮膚を引きちぎらんばかりに、もみあげの生え際を激しく掻き毟っていた。


髪は乱れ、彼の中にあった均衡は、完全に崩壊していた。


◇


草木も眠る丑三つ時。


官舎の寝所に、歩隲の規則正しい、しかしどこか重い寝息だけが響いている。


衛旌は、音もなく布団から這い上がった。


その手には、昼間書き上げた、あの「前例の不備を突く機策」が記された邪悪な裏帳簿の木簡が握られている。


一歩、また一歩。


歩隲を起こさぬよう、慎重に足を運ぶ。


勝手口の板戸を、音を立てずに静かに開けた。


外は、冷たい月光がすべてを白く染める世界だった。


ふと足元を見ると、歩隲が夜通し中庭を耕していたために、勝手口の地面には水分を含んだ、黒々と湿った泥が広がっている。


一歩踏み出せば、そこに確かな「足跡」が刻まれるはずの泥。


衛旌は、その泥を一瞬見つめ――そして、それを忌々しげに避けるように、大きく足を跨がせた。


泥に足跡を残すことを拒み、彼は乾いた、不毛な石畳の回廊へと、音もなく着地する。


「……泥をすする日々は、もうお終いだ」

暗闇のなか、衛旌の顔が歪んだ。


焦燥も、悔しさも、すべてを自己欺瞞の燃料へと変えた彼の百面相は、今や恐ろしいほどに歪んだ「確信の笑み」へと固定されている。


「お前はそこで、一生泥をこねていろ、歩隲。俺の頭脳が、この乱世の制度をひっくり返して見せる」

衛旌は翻り、沈氏の残党が待つ闇の深淵へと歩みを進めた。


彼の踏みしめる石畳には、何一つ足跡は残らない。


暗闇に消えていくその見えない足跡は、歩隲の遺した泥の足跡とは決して交わることのない、破滅の奈落へと真っ直ぐに続いていた。

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