第六話:『よそ者の洗礼』
建安九年(西暦二〇四年)、春。
江東の地を濡らす雨は、どこまでも冷たかった。揚州呉郡の端に位置する、木造の下級官吏用官舎。
その薄暗い屋根を叩く雨音は、徐州から命からがら逃れてきた歩隲と衛旌の耳に、歓迎せぬよそ者への囁きのように冷酷に響いていた。
念願の仕官を果たしたとはいえ、二人に与えられた部屋は、湿気と埃の匂いが立ち込める長屋の一室に過ぎない。江東の伝統ある豪族、世に言う門閥の名門たちは、彼らを「流れてきた物乞いの名門」と呼び、鼻で笑った。
公の場での彼らの視線は凍りついており、歩隲たちを完全に孤立させていた。何より、二人に下された最初の職務は、誰もが嫌悪する「郊外の荒地の検分と、詰まった水路の泥さらい」という、名士の誇りを根底からへし折る泥まみれのドブ板実務であった。
官舎の重い木扉が閉まった瞬間、それまで押し殺されていた空気が一変する。
「──あいつらは家柄ばかりで、中身は空っぽの癖に!」
衛旌は、泥に汚れた革靴を忌々しげに見つめながら、履物を床に放り出した。その端正な顔は、瞬く間に憤怒、屈辱、そして道化めいた諦念へと百面相のように激しく移り変わる。
「おい、子山。俺たちは瓜を売って糊口をしのぎながら、夜を徹して学問を修めてきたはずだ。それがどうだ、この仕打ちは。あの傲慢な江東の宿老ども、実務など何も分かっていない。何とかしてあの現場仕事をサボり、要領よく中央の有力者に気に入られる道程はないものか。裏の経路さえ見つかれば、こんな泥にまみれる必要などないのだ」
爪を噛み、部屋の中を落ち着きなく歩き回る友の姿を、歩隲はただ静かに見つめていた。
その唇の端が、穏やかに持ち上がる。それは友の焦燥を包み込む優しさであると同時に、自身の内なる覚悟を秘めた、二重の笑みであった。
歩隲は何も言わず、傍らに置かれていた古びた鍬を引き寄せた。濡らした砥石をあてがい、規則正しい音を響かせながら、刃の錆を削り落とし始める。
「子旗。土は、人を裏切らないよ」
その一言は、激昂する衛旌の言葉にかき消されそうなほど静かだったが、歩隲の瞳には、冷たい雨をも撥ね退けるような、奇妙に澄んだ光が宿っていた。
◇
呉の仮都に建つ、総櫟造りの厳かな執務室。
そこには、他者を油断なく値踏みする肉食獣の気配が満ちていた。江東の若き支配者、孫権仲謀。二十二歳の彼は、机に肘をつき、碧く澄んだ双眸で、拝謁する二人の新参者を冷徹に射抜いていた。
「郊外に、水害の絶えない未開地がある」
孫権の声音は、重く、低く、一切の感情を排していた。それは部下を育てるための温情ではなく、化けの皮を剥ぐための過酷な査定であった。
「十日。十日のうちに、その地をどう開墾し、いかにして治水を行うか、実態を報告せよ。以上だ」
言い捨てられた冷徹な声音が、総櫟造りの広い室内をいっそう冷え冷えと凍りつかせる。 孫権の顔には一切の笑みがなく、ただ獲物を測る冷酷な意思だけがある。
対する歩隲もまた、表情のすべてを鉄の仮面の如く封印していた。一本の竹のように真っ直ぐに伸びた背筋の張り、それだけが彼の意思を示している。
衛旌もまた、額に微かな汗を浮かべながら、必死に拝礼の姿勢を崩さずにいた。
官舎の回廊に戻るや否や、衛旌は周囲の目を盗んで歩隲の袖を引いた。
「おい、正気か子山。あんな過酷な場所にまともに行ってみろ、この寒さだ、体が持たん。治水など、過去の役所の帳簿を調べれば数字はいくらでも出てくる。それをもっともらしく書き写し、見栄えの良い綺麗事と前例を並べた報告書をでっち上げれば、主君も喜ぶに決まっている。要領よくやるのが出世の鉄則だ」
歩隲は歩調を止め、友の血走った目を見つめ返した。その顔には、先ほどまでの鉄の無表情はなく、深い哀しみが混ざった真摯な表情が戻っていた。
「現場の土を踏まずして、真に機能する治水はできぬ。それは我が現場合理主義に悖る。数理とは、大地の声を写すものでなければならない。私は、現地へ行く」
「……頑固者が。お前はいつもそうだ!」
衛旌は、裏切られたかのように顔を歪め、声を荒らげた。
「泥をすすって喜ぶ奴があるか。俺はお前と一緒にのし上がりたいだけなのに、なぜそれが分からん……!」
親友の胸中に渦巻く焦りをぶつけるように激しく袂を翻し、衛旌は部屋を飛び出していった。かつて等しく瓜を分け合った二人の歩調が、この瞬間、決定的に分かたれた。
◇
郊外の未開墾地には、寒風が吹きすさんでいた。
歩隲は、十七歳の若き武者・丁奉を伴い、冷たい春の泥水に腰まで浸かっていた。
足元は見えず、一歩間違えれば底なしのぬかるみに引きずり込まれる。
だが、歩隲の重心は絶対にブレなかった。彼は一本の竹竿を泥に突き刺し、水深と土壌の起伏を、凍える手で一本ずつ木簡に書き留めていく。
「子山どの、無理をなさるな」
かつて同じ屋根の下で暮らした頃の親しみを、短い呼び名に微かに滲ませ、丁奉が泥まみれになりながらも鋭い眼光で周囲を警戒していた。
一切の無駄を削ぎ落としたその一挙手一投足には、かつての母から教わった泥臭くも精緻な型が、確かに息づいていた。 彼は十七歳という若さでありながら、護衛の傍ら、歩隲の邪魔になる水門の木屑や重い泥を、驚異的な膂力で黙々とさらっていった。
その夜、官舎の薄暗い部屋で、歩隲は泥を落としたばかりの足を小さな火鉢で温めていた。
そして、昼の開墾で刃がこぼれた鍬を火に翳し、静かに鉄の具合を確かめる。爆ぜる炭火の温もりと、赤く染まる刃を見つめること──それだけが、冷遇と重労働で凍てついた彼の心を静める、静思の時間であった。
同じ頃、呉のきらびやかで乾いた宮廷回廊。
衛旌は、泥の汚れを忌避して官舎に籠もり、蓄えた知識を総動員して見栄えの良い書類を仕上げていた。
そして夕刻、華麗な文官衣に身を包み、中央の名士たちが集まる酒宴の回廊へ、人脈を作るべく忍び込んだ。
「いや、皆様、此度の治水に関しては、我が胸中に秘策がありまして──」
得意の口八丁で、宿老たちの輪に取り入ろうとする衛旌。
しかし、着飾った江東のエリートたちは、彼の言葉を遮り、冷ややかな視線を送るだけだった。
「……サボり魔の、卑しいよそ者が」
背後から聞こえた若き名士の陰口に、衛旌の顔が凍りつく。彼の不遜な笑顔は、内側から湧き上がる焦りと屈辱によって、微かに、しかし決定的に強張っていった。
◇
十日後、期限の日。拝殿の空気は、これまで以上に重苦しかった。
衛旌が進み出て、美しく織られた絹布で装丁された報告書を捧げた。
そこには、過去の治水例から引用された美辞麗句と、机の上で計算された完璧で見栄えの良い数字が並んでいた。
続いて、歩隲が進み出た。
彼が提出したのは、角が擦り切れ、微かに乾いた大地の匂いが残る、泥炭で汚れた木簡の束であった。
しかしそこには、現場の正確な水深、土壌の粘度、現地の農民たちの生の声、そして必要な鍬の数に至るまで、克明な「数理」が刻まれていた。
孫権は無言のまま、二つの報告書を見比べた。
張り詰めた沈黙のなか、孫権の碧の双眸が、まずは衛旌を射抜く。
「──これには、他人の足跡しか書かれておらぬ。言葉の虚飾だ」
孫権の低い声が拝殿に響き渡った瞬間、衛旌の肩がびくりと跳ねた。孫権は衛旌の絹布を机に放り出し、次に歩隲の擦り切れた木簡を手にとって、その指先で泥の跡をなぞった。
「そなたの書には、大地の湿り気がある。農民の息遣いがある。この計画、直ちに実行せよ。歩隲、そなたにこの地の治水と開墾の全権を与える」
「御意」
歩隲は佇まいを一切崩さず、静かに頭を垂れた。
その隣で、衛旌は畳の上に両手をついたまま、微かに震えていた。巨大な官僚組織の壁のなかで、二人の評価の明暗が、残酷なまでに決定づけられた瞬間であった。
その夜の官舎。
部屋には、重苦しい沈黙だけが満ちていた。
圧倒的な評価の差を突きつけられ、二人は一言も交わさない。
寝所の片隅では、妻の淑玲が、無心に針を動かしていた。
彼女は泥に汚れた歩隲の麻衣を丁寧に洗い、その破れ目に、静かに、優しく、瓜の刺繍を縫い進めている。その一針一針が、傷ついた家庭の調和を守る錨となっていた。
庭先では、丁奉が月光の下、昼の開墾で泥を被った「雀光の鉄面」を、布で厳かに磨き上げていた。
十七歳の横顔に鈍く光る鉄の面が、己の武の軸を再確認するかのように怪しくきらめく。
歩隲は机に向かい、淡々と「日録」を書き連ねていた。
今日の孫権の冷徹な眼光、そして隣で崩れ落ちそうになっていた衛旌の、あの焦燥に満ちた表情。
それらをすべて数理の如く客観的に文字へ落とし込むことで、彼は一日の心の負荷をすべて排し、感情を削ぎ落としていく。
部屋の逆側の隅では、衛旌が布団にくるまり、ふて寝をしていた。
手には、冷えた瓜がある。彼は不貞腐れたようにその瓜を乱暴に齧り、血走った目で天井を睨みつけていた。
(このまま終わってたまるか。泥をすする役なぞ、俺の性に合わん。独自の機策で、どうにか一発逆転を……)
その百面相には、かつての快活さは消え、日常との調和が完全に崩壊していく予兆の影が、濃く、暗く、這い寄っていた。
二人がかつて徐州の市場で、飢えをしのぎながら分け合ったあの「瓜の甘み」は、いまや呉の冷たい春の闇のなかで、どこまでもほろ苦いものに変質し始めていた。




