↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/29

第十八話:『老巨頭の算盤が弾く、五年の軌跡』

建安十五年、初夏。


交州の密林を濡らす重苦しい雨季の合間に、奇跡のような晴れ間がのぞいていた。


士燮の邸宅の奥深くにある静室には、中央から取り寄せた一両金に値する貴重な香木がくべられ、白煙が静かに立ち上っている。


七十三歳となった老雄・士燮は、使い古された木製の算盤を膝の上に置き、細い指先でパチリ、と乾いた音を立てた。


「五年、か」


六年前、建安九年に中央から送り込まれてきた若き都督・歩隲。


当時の士燮は、彼を「名門の皮を被った、孫権の若き猟犬」に過ぎぬと侮っていた。


四十年間、この交州の泥と数理(算盤)を支配してきた自負がそうさせたのだ。


だが、あの男――歩隲は違った。


歩隲は中央の生ぬるい政争の衣を脱ぎ捨て、自ら交州の赤い粘土を掴んで大地を測り、現地民とともに泥をすすって治水を完成させた。


「泥を吸い上げる天秤」


士燮は歩隲をそう評する。


中央の薛綜へ送る「朝貢」の報告書には、完璧な美辞麗句と虚飾を並べ立て、孫権の目を晦ませながら、その裏では交州の土着民の信頼を勝ち取り、底知れぬ巨万の富(南海貿易と美田)へと変えていく。


士燮の目の前で涼しい顔をして「二枚舌」を使い分ける三十一歳の若者を、老巨頭は心からの敬意と、背筋に走るわずかな戦慄を以て祝福していた。


パチリ、と算盤の玉がまた一つ動く。


その歩隲の影には、沈黙する不落の守護神がいた。


二十四歳となった丁奉である。


十九歳の初陣で、極限の縄標から刺客を討ったあの少年は、この五年で恐るべき武の極致へと至っていた。


左肩に「雀光の鉄面」を抱き、一言も発さず、完璧な重心の移動だけで密林のいかなる奇襲も完封する。


「あの小僧の足元には、交州の底なしの泥濘すら、ただの頑強な石畳に変える『見えない天秤』が仕込まれているようだ」


言葉を捨て、実務の極致を体現する彼の佇まいこそ、交州の反抗的な土着勢力を最も震え上がらせ、都督府の不可侵を証明する「無言の正義」であった。


そして、士燮の荒んだ心を最も和ませたのは、都督府の片隅に咲く「瓜の花」だった。


歩隲の妻、淑玲である。


廬江の泥濘から携えてきた瓜を毎年実らせ、夫の泥塗れの実務衣に新緑の双葉と極彩色の花を縫い合わせる糟糠の妻。


狂気に満ちた中央政治の泥沼から歩隲を引き戻し、彼を「ただの瓜売りの男(初心)」に留めている最強の防壁(錨)が彼女のからっとした明るさであると、老雄は見抜いていた。


「天秤」と「算盤」が手を結んだこの五年で、交州には圧倒的な富と、三万の精強な私兵(山越・土着民混成)が蓄積された。


士燮は木製算盤をチャキチャキと激しく弾き鳴らす。


もはや孫権とて、前例を盾にこの巨大化した交州自治区を無視することはできない。

だが――。


現実主義者の若き主君、孫権がそれだけで満足するはずがなかった。


「……動いたか」

士燮の耳に、密偵がもたらした不穏な報せが届く。


大軍を動かせば荊州の劉備や魏に隙を晒す。


だからこそ、孫権は「一振りの鋭利な毒刃」を交州の境界へと放った。


長江の水流の数理を支配する荒ぶる王、甘寧(興覇)。


彼は軍を率いる将としてではなく、孫権の特命を帯びた裏の「特派員(査察官)」として、単身この地の状況を見定めに境界の密林へと潜り込んできたのだ。


数値も、形式も、歩隲の二枚舌すら通用しない、生々しい暴力の体現者。


甘寧の「野生の勘」というもう一つの天秤が、この交州の泥を、富を、そして歩隲たちの首元を測ろうとしている。


「天秤と算盤が固めたこの泥を、長江の狂犬の暴虐なる水流が押し流すか。それとも……」


カチャリ、と乾いた音を立てて、士燮は算盤の動きを止めた。


窓の外では、冷たい雨が交州の密林を再び濡らし始めている。


士燮は、自分の寿命がそう長くはないことを悟りつつ、かつて自分がこの地を開拓した頃の「若き日の泥の記憶」を思い返す。


自分の歩んだ軌跡が、歩隲たちの姿と美しく重なり合う。


「見物だな、歩子山(歩隲)。お前の天秤が、あの猛獣をも量りきれるかどうか」


老雄は木製算盤をそっと撫で、交州の未来を「泥に咲く合理の種」に託す覚悟を静かに完了させると、不敵な笑みを浮かべて白煙の向こうへ目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。