第十六話:『算盤と天秤、無私の二重帳簿』
建安十三年(西暦二〇八年)、冬。
江東中央の薛綜より、氷の如き木簡が都督府へ届けられた。
『交州の全戸籍を厳格に把握し、江東と同等の重税を課せ。さらに過剰なる強制徴兵を執行せよ』という、冷徹な同化搾取指令である。
これをそのまま実行すれば、開拓が始まったばかりの交州は焦土と化して大反乱を招く。
しかし拒絶すれば、歩隲は「謀反の兆し」として中央から弾劾され、一族もろとも死罪を免れない。
南海の交易港を一望する、士燮の豪奢にして質素な密室。
二十九歳となった歩隲の前に、七十一歳の士燮が座していた。
老巨頭は使い古された木製算盤をチャキチャキと激しく弾き、乾いた音を室内に響かせながら、鋭い視線を歩隲にぶつけた。
「若き都督よ。これ以上の重税は交州を滅ぼす。だが、お前が税を誤魔化し、富を隠せば、それは国家反逆の横領だ。お前は隠した富で、主君を裏切り、この最果ての王にでもなるつもりか?」
歩隲の顔から穏やかな笑みが消えた。
代わりに、一片の私欲もない凛とした静寂がその瞳に宿る。
彼は士燮の言葉を受け止め、静かに答えた。
「私は富を、私の一族の贅沢のために隠すのではありません。ましてや、主君を裏切るためでもない」
歩隲の声には、揺るぎない無私の条理が脈打っていた。
「中央の定石通りに納税すれば、この地の民は飢え、開拓は死ぬ。そしてその富は、秣陵でふんぞり返る顧や陸といった門閥たちの肥えた腹に入り、我が歩一族をさらに排斥する資金に変えられるだけだ。私は、この大地の民を生かす。そして――門閥たちが上前を撥ねる構造を完全に迂回し、いつかこの蓄えた富と兵を、すべてそのまま主君の足元へ、国家の骨肉として無私に差し出す。そのためなら、私は喜んで中央から『横領犯』という泥をかぶりましょう」
士燮は算盤を弾く手をぴたりと止めた。
己を空っぽにして民と国を量る、その凄烈な「無私の合理」に、四十年の統治を誇る老雄の魂が激しく震えた。
「己を空っぽにして天秤に賭けるか。これほど美しい二重帳簿は、わしの生涯で初めて見たわ」
◇
中央の監査役である薛綜たちを沈黙させるため、二人の怪物は完璧な搦め手を構築した。
第一の防壁は『表の満額納税』である。
歩隲が二年前に開拓した合理的な水路農法が実を結び、交州の生産力は劇的に向上していた。
中央のルールが要求する「百」の税を、薛綜が惚れ惚れするほど美しく整えられた「白き帳簿」で遅滞なく完納した。
さらに、中央の官僚たちの目を曇らせるため、南国特産のまばゆい真珠や高価な香木を、上乗せの進物として派手に添えて送った。
公的な落ち度が皆無であるため、薛綜はそれ以上追及する武器を持てなかった。
第二の防壁は『瘴気と危難の防壁』による情報操作である。
現地へさらなる監査役を送ろうとする門閥に対し、「交州の奥地は、一歩踏み入れば死に至る瘴気地獄。
これ以上の増税や監査は数万の異民族による大反乱を招き、現在の納税すら完全に失われる」という緊迫した虚偽の報告を送り続けた。
秣陵の名門たちは、自らの自衛本能から現地への足を踏み外すことを恐れ、自ら耳目を塞いだ。
第三の調整は『主君・孫権の調停』である。
孫権は朝廷の裏で「では、誰があの瘴気地獄へ代わりに行くのだ?」と門閥たちを怒鳴りつけ、彼らを沈黙させた。
その上で「お前たちが納得するよう、然るべき者を現地へ遣わそう」と仕向けた。主君の掌の上で、彼らはただ従うほかなく、最果ての地へ次なる者を送り込むための一石が静かに投じられた。
◇
しかし、大義の裏には常に個人の痛みが伴う。
深夜、都督府の私室に届いた秣陵の厳畯からの書状には、「歩練師様が、門閥から『前例がない』と激しい孤立無援のいじめに遭っておられる」という暗憺たる事実が記されていた。
それを見た歩隲は、怒りと焦燥のあまり指先を微かに震わせた。
その震える手を、淑玲の温かい掌がそっと包み込んだ。
彼女は辺境の過酷さに微塵も負けない明るい笑みを浮かべ、夫の実務衣の綻びにそっと針を通した。
かつて廬江の地で縫い付けた、小さく素朴な「瓜の種」の刺繍。
その上に、淑玲は夫の焦りを宥めるように、そして交州での力強い開拓の成功を証明するように、南方の極彩色の大輪の花を、優しく一針ずつ重ねて縫い上げていった。針仕事の規則正しい音が、歩隲の心を静かに調律していく。
戸外の月明かりの下、夜を徹した私兵たちとの過酷な調練を終え、戻ったばかりの丁奉がいた。
彼の肉体にはまだ調練の熱が猛々と残っている。丁奉は昼の作業で赤泥を被った「雀光の鉄面」を傍らに置き、右手に「連結式双頭槍」を握り直すと、無言で深夜の演武を始めた。
鋭く突き出される槍の風切り音が、静まり返った都督府の闇を裂く。
足元の泥を力強く踏みしめ、一寸のブレもなく繰り出される型の中に、彼は調練の余韻と、己の重心の揺らぎなさを何度も確かめ、刻み込んでいた。
最果ての濃厚な赤土の底で、江東の門閥に対する一族の逆襲をかけた、無私にして強大な「合理の牙」が、誰の目にも触れぬよう深く隠されながら、着実に、そして巨大に育ち始めていた。




