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第十三話:『老巨頭の算盤、歩隲の天秤』

建安九年(西暦二〇四年)、冬。


中原の冬とは異なり、南海の地に雪が舞うことはない。


代わりに、不気味に湿った冷たい北風が連日吹き抜け、ねっとりとした赤い粘土質の土壌が冷雨を吸い上げて、じっとりとした泥濘を広げていた。


都督府の仮宿舎。


その夜、不穏な雨音だけが響く部屋で、十八歳の丁奉は静かに武具の手入れを行っていた。明日執り行われる、交州の老巨頭・士燮(ししょう)との最初の謁見を控え、若き護衛の指先には心地よい緊張が宿っている。


彼はこれまで、実戦の予感に備えて懐に大切に抱え、人目を忍ぶように隠し持っていた高順の形見「雀光の鉄面」を取り出した。


そして、自らの身体を守る実戦防具として、左肩の肩当てへ頑強に改造し、装着を終えたばかりであった。


かつて陷陣営を率いた不落の象徴として、母・曹性から譲り受けたこの仮面を、自らの心臓に近い左肩にその面を戴く。

さらに、母の血筋である「曹性(技術の軸)」から叩き込まれた体術の主軸、すなわち槍を押し出す左肩の稼働を強化する。

それらは、過酷な現場で生き抜くための極めて合理的な機能美であった。


右手に「連結式双頭槍」を構え、左肩の鉄面(鬼の顔)が敵を威圧する。

丁奉の攻防一体の戦闘における全容(現場合理主義の結晶)が、この南海の夜に完成を見た。


◇


翌日、都督府の公式広場は、耳を聾(ろう)するほどの熱気に包まれていた。


両者の間には、一切の私情を排した鉄の沈黙が流れていた。


交州を四十年にわたり実質的に支配してきた絶対的な知恵者、白髪白髯の士燮が、ついにその姿を現した。


広場に溢れるのは、何百人もの異民族が打ち鳴らす楽隊の轟音、中原から取り寄せた豪奢な車騎の軋み、そして大気に満ちる高価な香木の香り。


さらに、真珠や象牙、見たこともない極彩色の南国の珍宝が、まばゆい朝貢の品として並べ立てられる。重厚な官服が擦れる音が、張り詰めた調停の場に響き渡っていた。


都督府の若い文官たちは、その圧倒的な「権威の虚飾(名門の形式)」に呑まれ、呼吸を忘れて立ち尽くす。


しかし、二十五歳の交州都督・歩隲は佇まいを一切崩さず、その老いた怪物をただ静かに見つめ返していた。


歩隲は、士燮がこれほど華美な儀礼と朝貢を執拗に繰り返す本質を見抜いていた。


中央に対して「私は忠実な家臣である」という「言葉の虚飾」を完璧に演じる。


それによって中央からの不必要な軍事介入と苛烈な搾取を未然にいなし、交州の豊かな多民族自治区(現場の生存)を守り抜く。


眼前を歩む老巨頭は、薛綜が突きつけてきた同化政策を「二枚舌」でいなそうとする、自分自身の「二枚舌の先達」に他ならなかった。


◇


拝謁の儀が終わり、都督府の奥深き密室へ場が移ると、空気は一変した。


重苦しい静寂が、一瞬にして人間味のある熱気へと変わる。


二人きりとなった静寂の中で、士燮は重苦しい華美な外套を乱暴に脱ぎ捨てた。


現れたのは、動きやすい現地の素朴な衣服に包まれた老躯。


その顔には、先ほどまでの飾り物のような厳格さはなく、老獪でありながら極めて知的な現場合理主義者の笑みが浮かんでいた。


「若き都督、なかなかに美しい言葉の盾をまとうな」


士燮は、歩隲が中央の薛綜に対して送った、完璧な形式美で飾られた報告書(二重帳簿)をすでに見透かしていた。その上で、歩隲の巧妙な立ち回りを不敵に賞賛する。


士燮が懐から取り出したのは、中原の貴族が好む瑪瑙でも鉄でもない、何十年も使い古されて角が丸くなった「素朴な木製の算盤」であった。


「私は四十年間、この算盤で中央への進物と、現地民の生存の配分を弾いてきた」


そう語る士燮の視線の機微を、歩隲は正面から受け止める。


交州の過酷な現実に根ざした独自の調停を進める歩隲の「天秤の論理」と、老巨頭の「算盤の論理」が、密室の暗がりに突き合わせられた。


互いが抱く現場合理主義が、深く共鳴していくのを二人は肌で感じていた。


士燮は若き都督の実力を完全に認め、その口元に二重の笑みを深く刻む。


「表向きは、中央の目を欺くために、都督と地元勢力の激しい対立を演じ続けよう。だが裏では、この豊かな多民族自治区の富と民の生存を共に守り抜く」


言葉にせぬまま、二人の知恵者は「交州共謀の密約」を、その熱い視線だけで確かに交わし合った。


◇


深夜、それぞれの庵、宮中、そして士燮の自邸へと、最果ての闇が広がっていく。


不条理な巨大国家の狭間で、土地の調和を守ろうとする者たちが、自らの身体を通じて「無心」の盾を作る、美しい精神の対称描写がそこにあった。


歩隲は、都督府の裏庭で【土いじり】に没頭していた。


熱帯の粘り気のある赤い粘土に、冬の冷たい落ち葉を混ぜ合わせる。それは次の春、新たな苗木に施すための肥沃な泥炭を耕す、静かな調律の作業であった。


その傍らで、妻の淑玲は【針仕事】を進めていた。


どれほど辺境の地が過酷であっても、からっとした健康的な明るさを失わない彼女の手元で、夫の実務衣の綻びが塞がれていく。

そこには、新緑の瓜の花と、交州の極彩色の大輪が美しく寄り添う刺繍が、鮮やかに縫い込まれていた。それは夫の魂が冷酷な官僚へと変質するのを防ぐ、確かな錨であった。


護衛の丁奉は、自らの庵で【肉体の鍛錬】に耽っていた。

左肩に固く結びつけた「雀光の鉄面」の重みをあえて負荷とし、一分のブレもないよう体幹を締め直す。

静かに重心を移動させながら、双頭槍を突き出す左肩の稼働と正中線の軸を確かめる呼吸の音が、闇に響いた。


そして、自邸に戻った士燮は、【香木を燻らせる静思】の中にいた。


古い香木を静かに炭火にくべ、立ち上る煙を眺めながら、中原の退屈な書物をそっと閉じる。

四十年の星霜を共にしてきた木製算盤の、滑らかな木肌を愛おしそうに撫でるその指先は、交州の次なる安寧を静かに見つめていた。

【士燮(ししょう)】

後漢末から三国時代にかけ、遠方の交州(現在のベトナム北部周辺)を長年治めた群雄です。中原が激しい戦乱に明け暮れる中、卓越した外交手腕で独自の平和と繁栄を維持し、多くの避難民や文化人を受け入れました。学問を奨励して地域の発展に貢献した功績から、ベトナムでは今も「士王」として称えられています。中央の権力争いとは一線を画した、知る人ぞ知る名治世者です。

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