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第十話:『罷免と決別の瓜』

初夏の陽光は、 前夜の湿気を吸って白く濁っていた。


呉郡の公式官衙は、漆喰の壁も、敷き詰められた乾いた石畳も、すべてが容赦のない光に照らされ、影の濃淡だけが際立っている。


居並ぶ文官たちの視線は、一様に凍りついていた。


正面に立つ尚書僕射、薛綜の背筋は定規で引いたように微動だにしない。


その手元にある白木机(はくぼくき) の上には、数枚の木簡が端然と並べられていた。


「――境界未定地における、通行税の二重徴収。ならびに、沈氏残党との密約の廉」


薛綜の声音には、一切の高低がなかった。

感情という肉を削ぎ落とした、ただの記号のような声が、高く硬い天井に反響する。


「数理の偽りは、法度の調律を乱す。衛旌、お前がでっち上げた架空の帳簿は、江東の制度そのものを内側から腐食させる刃に他ならない。よって、官職を罷免。即日、呉郡からの追放に処す」


その宣告が下った瞬間、歩隲は一歩、前に踏み出していた。

衣服の擦れる音が、静まり返った官衙に異様に大きく響く。


「薛僕射。現場における物資調達の不確実性と、境界地の数理の混濁は、一概に悪意のみに帰せるものではございません。不調律の責は、その道程を共にした私にもあります。どうか、私にも連帯の罰を」


歩隲の声は理路整然としていたが、その拳は衣服の袖の中で固く握られていた。

かつて廬江の泥の中で、ただ正しく大地を測り合っていた友の才が、このような形で裁かれる不条理。

しかし、その弁護を阻んだのは、薛綜ではなく、隣に立つ衛旌自身であった。


「――歩隲殿。見苦しい釈明は、おやめなさい」


衛旌は歩隲を振り返りもせず、正面を見据えたまま言い放った。


その声音は冷淡そのものであった。


「これは私が独断で、己の算術の才を誇示せんがために行ったこと。お前のような愚直な男には、一片の関与もない。私の足を引っ張るような真似は、最後まで不快だ」


親友の弁護を、自ら冷酷に突き放す。

官衙の白き光の中で、衛旌の顔は一片の感情も読み取れぬ無機質な仮面のままであった。


◇


官衙の重い扉が閉まると、そこは西日が低く差し込む、乾いた石畳の回廊であった。


一歩、また一歩と、官衙を追われた衛旌が歩いていく。


その背中を追いかけ、歩隲は回廊の陰へと滑り込んだ。


二人きりになった瞬間、張り詰めていた空気が、熱を帯びた湿気へと変わる。


衛旌の足が止まった。その端正だった顔から、これまでの傲慢な仮面が、音を立てて剥がれ落ちていく。


これまで焦燥のあまり右のもみあげを血が滲むほど掻き毟り、常に朱に染まっていた彼の指先が、いまは不思議なほど静かに垂れ下がっていた。


「……すまなかったな、子山」

衛旌は自嘲混じりに微笑んだ。


その瞳には、官衙の無表情とは対極の、生々しい落胆と安堵が混ざり合っている。


「お前の言った通りだった。大地の数理は嘘をつかない。俺は、乾いた頭脳だけで世界を動かせると思い上がっていた。だが、本当は……お前のその、泥にまみれた遅い歩調こそが、最も合理的で、最も確かな『足跡』だったのだな」


衛旌は手を伸ばし、歩隲の泥に染まった手を強く握り締めた。


「俺はお前のその美しい衣服を、俺の汚れた足跡で汚したくない。お前はここに残り、一族と、練師を護ってやれ。お前なら、この冷徹な法度の世でも、泥を踏みしめて生きていける」


そう言い残すと、衛旌はもう一度だけ小さく笑い、己の私物をまとめるために、薄暗い官舎の奥へと去っていった。


◇


夜が更けると、よそ者の集まる薄暗い官舎には、初夏の重苦しい熱気が満ちていた。


最後の別れの宴。


淑玲は一切の恨み言を言わず、ただ静かに中庭へと向かった。


新緑の葉の陰、夜の湿気を吸ってようやく実った「初物の黄色い瓜」を収穫する。台所に差し込む月光の下、包丁が瓜をパキッと半分に叩き割る清涼な音が響いた。


盆に載せられた瓜を前に、歩隲と衛旌は向き合う。それは、かつて廬江の泥濘の庵で、明日をも知れぬ飢えをしのぐために分け合った、あの日の再現であった。


「相変わらず、無調法なもてなしだな」

衛旌はそう言いながら、瓜に豪快に齧りついた。


その瞬間、口いっぱいに圧倒的なみずみずしさが広がる。


そして同時に、喉を焼くような、哀しくもほろ苦い甘みが突き抜けた。


「……やはり、お前の育てる瓜は、泥臭くて、甘い」


衛旌の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。


それは官衙の制度に敗北した涙ではなく、かつて不条理な世界の中で、ただ二人で生きていた原点に立ち返った涙であった。


その顔には、子供のように屈託のない笑顔が浮かんでいる。


歩隲もまた、瓜を噛み締めながら涙を堪えた。口の中に広がる苦みは、二人の半生そのものであった。


かつて同じ泥の中にあった二つの足跡が、いま、決定的に異なる道へと分かれていく。歩隲は二重の笑みのなかに、その決別の痛みを深く沈め、喉へと飲み込んだ。


◇


翌朝、未明。


夜半に降った俄雨は上がり、呉郡の境界へと続く道は、不穏な朝霧に包まれていた。


衛旌は身一つで、官舎の勝手口に立っていた。


かつて彼は、泥に汚れることを嫌い、足跡の残らぬ乾いた回廊だけを跨いで歩こうとした男だった。


だが、いま、彼の目の前にあるのは、歩隲が昨日まで丹念に耕し続けた、黒々と湿った泥の地面であった。


衛旌は、ためらうことなく、その泥の上へ真っ直ぐに足を下ろした。


ぐにゃりと、湿った土が音を立てる。


泥の中に、衛旌の確かな、深い「足跡」が刻み込まれた。


「泥を避けて、足跡を残さぬ乾いた路を歩もうとしたが……最後に、お前と同じ泥の温かさを知ったよ」

衛旌は霧の向こうを見据え、満足そうに笑った。


そのまま東の彼方へと、足跡を泥に遺しながら、霧の中に消えていく。


歩隲は中庭の片隅、瓜の苗木に立てられた木の支柱に静かに触れた。


友の刻んだ足跡が、朝霧と葉から滴る水滴に融け、大地の泥へと還っていくのを、いつまでも視線で追い続けていた。


庵に戻った歩隲は、机の前に座り、感情を一切交えずに「日録」へ笔を走らせる。


『友去りて、土に一粒の種を遺す。泥を恐れず、私たちはまた、大地を耕し続ける。』


その傍らでは、十七歳の丁奉が、雀光の「鉄面」を愛おしそうに抱きしめていた。

彼は一言も発しない。ただ、手元にある二振りの短槍を静かに、しかし決定的な力強さで「連結式双頭槍」へと噛み合わせた。金属の鋭い嵌合音が、静かな室内に響き渡る。


それは、半身とも言える友を失った歩隲の前に、これからは自分が「不落の盾」として立ち続けるという、少年兵の無言の、そして最も固い誓いであった。

【尚書僕射(しょうしょぼくや)】

尚書僕射とは、古代中国の行政最高機関「尚書省」の次官です。長官である尚書令が欠員となることが多かったため、実質的な最高責任者(首相・宰相)として国政を統括しました。左右に分かれることが多く、左僕射が首席、右僕射が次席にあたります。日本の中務大輔や太政官の左大弁の唐名(中国風の別称)としても使われました。本作の背景である、朝廷の権力闘争や行政の仕組みを紐解く重要職の一つです。

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