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お気に入りの短編

白いヘザーをあなたに ~恋人に捨てられた私には、幼なじみが待っていてくれた

作者: りすこ
掲載日:2026/07/02

 新聞で、恋人だと思っていたマイルズが結婚すると知った。


『社交界の結婚』と見出しがおどる小さな記事に、マイルズのことが書かれていた。彼は化粧品メーカーの令嬢と結婚式を挙げて、海外へハネムーンに行くらしい。私ではない可愛らしい女性と彼が、微笑み合っているモノクロ写真も載っていた。


 私、ベロニカ、24歳は、信じられない気持ちで記事を見ていた。


「まさか」と思わずつぶやいたし「でたらめよね?」と記事そのものを疑った。


 だけど、マイルズからの連絡が途絶えてから、もう3ヶ月は経っている。

 お互いの仕事が忙しければ、それぐらい会えない時もあったから、私は気にも留めなかった。


 私は今の今まで、マイルズとの関係が壊れていたのを知らなかったのだ。




 私は友人のソフィアと一緒に、ロンドンでタイピスト事務所を開いていた。いわゆる職業婦人だ。


 顔はどちらかといえば地味で、腰まである髪は、お団子頭にしてボンネットで包んでいる。

 着ているものも、グレーのワンピースが多く、霧深いロンドンに溶け込んでしまい、目立つ外見ではなかった。


 そんな私だが、同じタイピストのマイルズ、30歳と出会って日々がとても充実していた。


 私は彼のタイピストの腕前を尊敬していたし、男女の仲にもなっていた。

 はじめてキスしてから抱き合うまで、そう時間はかからなかった。


 一緒にワインを飲みながら「タイピストの早打ち大会で優勝してロンドンで一番のタイピスト事務所を作るぞっ」なんて夢を語り合ったし、仕事でミスをしたときは互いの肌でなぐさめ合ったりもした。


 3年だ。

 そんな関係を3年、続けていた。


 何も聞かされず、一方的におしまいにされるような関係ではなかった。


 やっぱりどうしても信じられず、私は彼のアパートに行った。でもそこには、知らない人が住んでいて、私は愕然とした。引っ越したことさえ、教えてもらえなかった。


 何を食べても味がしなくて、一生の仕事だと思ったタイピストも、ちっとも手に付かない。

 彼がひょっこり現れるんじゃないかって、淡い期待を抱いて、無言になったドアを見ていた。


 ある日、カレンダーに目をやると、来月は私の誕生日だった。

 カレンダーの数字に意識が吸い込まれ、去年の記憶がよみがえる。


 この部屋で、彼とささやかなお祝いをした。

 小さなテーブルに並んだケーキに料理、笑う彼の顔。

 それらの思い出が色をなくし、粉々に散っていく。

 切なさばかりが胸にこみ上げ、同じテーブルが別物に見えた。


「そう……私たち、終わったのね」


 彼の中で恋の賞味期限は、とっくに切れていたのだろう。

 私の想いは、食べ残されたまま捨てられたのだ。




 私はソフィアに何度も頭を下げて、タイピスト事務所を辞めることにした。

 これ以上、彼との思い出があるロンドンにいたら、私という輪郭がなくなっていきそうだった。

 どこでもいいから、どこか遠くへ行きたかった。


「ごめんなさい、ソフィア。本当に、ごめんなさい。私、もう無理なの……」


 ソフィアは気持ちを汲んでくれて、何もかも中途半端にほうり出す私を許してくれた。


「分かった。もう分かったから。しばらくゆっくりしなさい。でも、やけを起こしちゃダメよ」


 ソフィアはとても誠実に、目を赤くしながら言ってくれた。


「恋に破れたぐらいで、人生をおしまいにしちゃダメ。いいわね? 落ち着いたら、連絡をちょうだい」


 私はまた頭を下げて「ありがとう」と小さく言い、鞄ひとつを手にして駅へ向かった。

 駅に着くと、多くの人が切符売り場に並んでいた。


 どこへ行けばいいのだろう……。


 ぼんやりと行先を考えていると、しゅーしゅーと音を立てて真っ黒な蒸気機関車がやってきた。


 誰かが行き先を叫ぶ。その駅名がいやにはっきりと聞こえた。


 ――故郷へ向かう駅だった。


 8年間、帰っていない平原の村。

 泥灰の匂いがして、人より羊が多い村。


 あそこに……帰りたい。


 気づいたら、切符売り場に足を動かして、チケットを買い、私は蒸気機関車に乗っていた。


 汽車は満席で、窓から煙が入り込み、顔に灰がかかる。ゴホゴホとむせながら、私は黒い鉄の塊に運ばれていった。

 途中下車し、また切符を買ってひたすらスコットランドに向けて北上する。

 乗客はまばらになり、私はようやく煙が入ってこない席に座れ、ぼんやりと車窓を眺めた。


 その景色はロンドンの薄暗さとは違っていた。

 空は吸い込まれそうなほど青く、山脈がなだらかな曲線を描いていた。

 のんびりと歩く羊の姿も見える。

 目に飛び込んでくる色彩はどれも鮮やかで、だんだんと故郷に近づいているのが分かった。


「村に着いたら、お母さんたちの墓参りをしなくちゃ……」


 わくわくするよりも、ほのかな哀愁を感じてしまうのは、罪悪感ゆえか。


 私は、ずいぶんと親不孝な娘だった。


 穏やかな景色を眺めていると、私も大切なものを置き去りにしてきたのかなと思ってしまった。



 ***

 


 ようやくたどり着いた故郷の駅舎を出ると、ひやりとロンドンより冷たい空気に包まれる。私は呆然とたたずんで、故郷の風景を見た。


 なにもかも、私が子どもの頃のままだった。


 ピチョンピチョンと、妖精が跳ねているような川音。

 人けはないのに、どこかでメェと羊が鳴いていて、呼吸をすると雨の匂いのような泥灰の香りで肺がいっぱいになる。


 おかえり、おかえり。


 風の妖精が、私にそうささやいているようだった。


「っ……」


 その音に包まれ、故郷の土を踏んでいると、無性に泣けてきた。

 鼻をすすって、しばらく景色を目に焼きつけた。

 そうやって風に抱きしめられていると、背後から声をかけられた。


「ベロニカ! ベロニカじゃないか!」


 大きな声に驚いて振り向くと、男性が笑顔で近づいてきた。

 ハンチング帽を被り、日に焼けた肌に快活な瞳。

 どっしりとした木のような大柄な人を見て、私は目を開いた。


「……ジャック?」


 にっと笑った彼の口からは白い歯がのぞく。

 その笑みがなつかしくて、じんときた。


「久しぶりだな。8年ぶりか?」

「そうね……一緒に村を出て以来かしら。ジャックはいつ戻ってきたの?」

「ああ、4年前にな。親父がぽっくりいっちまって、それから羊毛工場を継いだんだ」

「……そうだったの。ごめんなさい、私、何も知らないで」

「気にするなって。ローラばーちゃんはまだ元気だから」


 屈託(くったく)なく笑う顔を見ていると、まるで少女時代に戻ったみたいだった。


 私たちは同い年で、幼なじみだった。

 14歳で学校を卒業してから、それぞれ働きに村を出た。

 ジャックは工業都市マンチェスターへ、私はロンドンへ。

 同じ列車に乗って、私はジャックの手に妖精まじないをして笑顔で別れた。

 あの時の溌剌(はつらつ)とした笑顔が、目の前にある。


「ベロニカはどうしたんだ? 何かあったのか?」


 何も知らない瞳にのぞきこまれ、ふいに現実を思い出した。


 砂を巻き上げながら、私たちの間に風が吹く。


 純粋な目で見られると、胸の奥がちりちりと焦げついたように痛い。

 恋人に捨てられたとは言えなかった。


「……休みが取れたから」


 とっさに半分だけ、嘘をついた。


 8年ぶりに再会した幼なじみに何を遠慮することがあるのか。

 仲が良かったのは、大人の付き合い方も知らなかった子ども時代だけで――と、そこまで考えて、乾いた笑みが口からこぼれ落ちる。


 私、ジャックには、昔のままの姿を見せたいのね……。


 汚れて灰になったというのに。ちっぽけなプライドだけは捨てきれないようだ。


「そっか。泊まるところは決まってんのか?」


 鬱々とした気持ちに気づかないのか、ジャックはからっと質問してきた。

 それになんだか救われたような気がして、私は小さく笑い、山のふもとにある古城を見やった。


「ミセス・マクラーレンの城に泊めてもらおうかと思っているの」

「ああ、それは無理だよ」

「……どうして?」


 ジャックに視線を戻して尋ねると、彼はひょいと両肩をすくめた。


「マクラーレンさんは街に引っ越したんだ」

「えっ……じゃあ、あの城は別の人が住んでいるの?」

「いいや。誰も住んでいないよ」

「そう、なの?……意外だわ。マクラーレンさんはお城を大事にしていたから、誰かにゆずったのかと思った」

「マクラーレンさんも城の中で息を引き取りたいって言ってたんだけどな。……それだと『わたくしの友人たちに心配をかけてしまうから、残りの人生は、隣が診療院の家で、犬たちと暮らすの』って笑っていた」

「そうだったの……」


 もう一度、尖塔が見える古城を眺める。

 マクラーレンさんはとても気さくなご婦人で、寒さで震える人がいたら、誰でも構わず家に招いて暖炉に火を入れるような人だった。


 わたしもよく古城へ行った。よく笑い、たくさん冒険をさせてもらった。

 まばゆい思い出たちが、あの古びた城に眠っている。


「さびしいわね……あそこには、いい思い出があるから」

「そうだな。まあ、マクラーレンさんが決めたことだから、しょうがない」

「いい年だったものね。それにしても、まいったわ。マクラーレンさんをすっかり頼る気でいたから」

「なら、俺の家に来るか?」

「えっ……」


 ジャックを見て目を丸くすると、彼は気まずそうに、慌てて言った。


「別にへんな意味じゃないぞ? ばーちゃんの話し相手になってくれればと思ったんだ。うちのばーちゃんがおしゃべり好きなの知っているだろ? 部屋なら空いているし」

「でも、ジャックの奥様に失礼じゃないかしら?」

「え? 結婚はしてないぞ?」

「え? そうなの?」


 ポカンとお互いに見つめ合う。

 それがなんだか妙におかしくて、私はくすくすと笑ってしまった。


「いつまでいるか分からないけれど」


 ジャックは晴れやかに笑った。


「いいよ。ここら辺じゃ、宿なんてないだろ?」


 それもそうだ。


「じゃあ、お世話になるわ」

「っしゃ」


 ジャックが小さくガッツポーズをした。

 そんなに喜ぶことなのかしら。

 くすりと笑って、彼の家に向かった。



 家に行きながらも、私たちのおしゃべりは止まらなかった。


「家に行くことになってよかったの? 何か用事があって出てきたんじゃないの?」

「ああ、大丈夫だよ。ヘザーの丘に行った帰りだから」


 ジャックは後方を振り返る。

 その視線の先には、短い草が生える雄大な丘があった。


 秋に近づくと、あの丘はヘザーの花が覆い、紫の絨毯を敷いたようになる。


「ヘザーの丘、なつかしいわ。ねえ、白いヘザーの花を探したこと覚えている?」

「もちろん。ばーちゃんの誕生日プレゼントにしようとしたんだよな」

「幸運の白いヘザー。おばあちゃんにあげたら喜ぶと思ったのよね。結局、見つからなかったけど」

「ベロニカの執念はすごかったよなあ。夜になっても帰らないって泣いてて」

「だって……どうしても見つけたかったんだもの。おばあちゃんは私にとって母親代わりだったし」

「俺にとっても母親代わりだな」


 9歳のとき、両親が亡くなって、まっさきに助けてくれたのが、ジャックのおばあちゃんだった。

 ジャックのお母さんは産後すぐに亡くなっていて、私たちはおばあちゃんに育てられたようなものだ。


「ずっと顔を見せていないから、叱られそうね」

「そうかな? ばーちゃん、手放しで喜ぶと思うぞ」


 チチチチと鳴く小鳥の声を聞きながら、砂利道を歩いていく。そして、見えてきた。

 黄土色のサンドストーンでできた家が。 何もかもがなつかしい。

 ジャックは家の扉を開いて私を手招きした。


「どうぞ」

「お邪魔します……」


 背中を丸めて家に入ると、なんとも言えないおいしそうな匂いが漂ってきた。


 エプロン姿のおばあちゃんが、暖炉の前に立っている。 踊るように木べらで鍋をかき混ぜている姿に、ふわりと少女時代の記憶がよみがえる。


 あの細い体に、何度も抱きしめられた。あの腕の中にいると、不安は小さくなっていった。


「ジャック、帰ってきたの? もうすぐお昼ごはんができるわよ。今日はねえ、コッカリーキー・スープよ。ふふっ。いい感じにできたんじゃないかしら」


 声を弾ませながら、おばあちゃんが振り返る。

 前よりもしわが多くなった顔をくしゃくしゃにしながら笑っていた。

 でも、私を見て、あごが外れそうなほど口を開いた。


「ばーちゃん、ベロニカだよ」

「久しぶり……」


 はにかみながら言うと、おばあちゃんは木べらをするりと手から落とした。

 カランと敷石の上に落ちた音が響く。


「ベロニカ! 本物かいっ⁉」


 おばあちゃんは駆け寄ってきて、私を抱きしめ頬にキスをした。


「久しぶりだねえ、元気にしてたかい? まあまあ、ずいぶんと美人さんになって」


 愛しそうに言うおばあちゃんを見ていたら、胸の中にあったわだかまりが、すっとほどけていくようだった。


 ああ、この腕の中に帰りたかった。


「連絡をしないでごめんなさい」

「いいんだよ、そんなことは。ロンドンで忙しくしていたんだろう? ほら、新聞! あんた、新聞に載っていたでしょ!」


 おばあちゃんは私から離れ「あら?」と言いながら、落ちた木べらを拾い上げ、壁に飾った額縁を指さした。そこには新聞の切り抜きが飾ってあった。

 

「タイピスト早打ち大会で3位だったんだろ? ベロニカの名前を見て、びっくりしたよ。誇らしかったねえ」


 その言葉、笑顔を見て、胸の中が嫌な音を立てて、きしんだ。


 3年前の大会の記事だったから。


 その日、タイピスト早打ち大会で私ははじめて入賞した。

 自分でもよくできたと褒めたい出来事だ。

 だけど、マイルズと出会った日でもある。

 彼は2位だったのだ。


 あの日の夏の興奮。強い中で日差しの中、彼と交わした言葉が脳裏に映し出され、タイプライターの音が聞こえる。


 カチカチカチ――……。

 止めどもなく打ち出される思い出たちを手放したくて、私は自分の手の内側をつねった。


 痛みを感じて、記憶の打ち出しが止まる。

 短い息を吐き出して、私は笑顔の仮面をかぶった。


「……まさか、おばあちゃんが知っているなんて、びっくりした」


 おばあちゃんは私の動揺に気づいていないようで、うんうんと笑顔で頷いた。


「そりゃもお、自慢の娘ですから」


 おばあちゃんに褒められれば褒められるほど、否定の言葉がのどから出かかる。


 そんなことないの。

 私、ダメダメなのよ。


 マイルズとのことを全部さらけ出して、おばあちゃんにすがりつきたい。

 もう、いい年なのに、おばあちゃんの胸の中で、甘えたくなってしまった。


 ここで一度泣いてしまえば、いっそ楽になるのかしら。

 ぼんやりと考えて、それも結局できなくて、私は「ありがとう」と言うのが精一杯だった。


 


 食卓に料理が並んだ。


「さあ、おあがり」


 琥珀色のスープの中に、太いねぎと鶏肉がたっぷりと入っていた。

 その中に「いいダシになりました」と主張するかのように浮いているのは、ドライプルーンだろう。


「わあ、うれしい。……この味、ロンドンじゃ食べられなかったの」

「そうなのかい? うんとお食べ」


 私は祈りを捧げ、スプーンで琥珀色のスープを掬い上げた。

 ねぎの甘み、そして鶏の野性的な味を果実がふんわりと包んでいて、これよ、これって噛み締める。なつかしい故郷の味だ。


「おいしい……とってもおいしいわ」


 空っぽになってしまった心に、滋味あふれる味わいがしみ込んでいった。


 どうしてか、泣けてくる。


 味をきちんと感じることを、長く忘れていたせいだろうか。


「ベロニカ、大変な目に遭ったんじゃないかい?」


 おばあちゃんが風のような声で尋ねる。

 顔を上げると、あたたかな笑顔があった。


「ロンドンでがんばっていたんだ。少しお休みよ。しばらくいてくれるんだろう?」


 その声に、小さく頷いた。


「ジャックもうれしいだろうねえ。なんたってこの子は……」

「ばーちゃんっ!」


 急にジャックは声を上げて、口をへの字に曲げた。


「俺のことはいいんだよ。俺のことは」

「おや、そうなのかい?」

「ベロニカ、しばらくここにいるって。よかったな、ばーちゃん」

「あなたもね。ジャック」


 ニヤニヤと笑うおばあちゃんを見て、ジャックはむすっとした顔になった。

 そういえば、三人でよくこうやって食卓を囲んでいた。

 それがまたできることに、私はなぐさめられていた。


 

 昼ごはんを食べてから、両親の墓参りに行った。

 とてもきれいに手入れされていた。

 おばあちゃんが手をかけてくれたそう。


 守られていた墓に少し涙ぐみ、私は花を添えて、両親に「ごめんなさい」と心の中で謝った。


「おばあちゃん、ありがとう」


 おばあちゃんには心から感謝した。



 その日から、にわとりの鳴き声で目覚め、夜空に輝く無数の星を見ながら眠る生活が始まった。


 月曜日から土曜日までジャックは働いていて、私はおばあちゃんと家の中のことをしていた。


 洗濯、掃除、料理、羊の乳しぼりに、鶏の餌やり。小さな畑の手入れまで。

 よくもまあ、ひとりでやっていたと感心してしまうほど、やることは多かった。


 日曜日には教会に行ってお祈りをしたあと、ジャックと一緒に村のあちこちを出かけた。


 ある日曜日は、ヘザーの丘に登った。


 ジャックはひょいひょいと登るけど、私はずいぶんと体力が落ちていて、坂を上がるだけで汗をかき、息切れしてしまった。


「大丈夫か?」

「……へ、平気よ」

「ほら、手をつなげって」


 ジャックが手を伸ばしてくれ、ごく自然にその手を握る。

 ずいぶんと手がたくましくなっていてびっくりした。


「よいしょっ。ほら、着いたぞ」


 ジャックに引き上げられ、手が離れる。

 目の前に広がる雄大な景色に魅入った。

 平原がどこまでもどこまでも広がっている。


 羊が草を食み、メェと鳴き、私たちを見て「はて?」という顔をする、その愛嬌の良さ。


 風が、きもちいい。


「……きれいね」


 それ以上の言葉が見つからなかった。

 こんなに広い場所にいたら、ずいぶん自分が小さく感じる。

 小さい私の悩みは、さらにとても小さいのかもしれない。


 ジャックは草の上に腰を下ろして、私もその場に座った。


「ここに来るとさ、悩みがどっかいっちまうんだよな」

「わかるわ」


 肺を満たす涼やかな空気が、私の淀んだきもちを外に出してくれる。


 私たちは何も言わず、何も語らず、ただ風に包まれ景色を見ていた。



 またある日曜日は、ブラックベリーを摘みに行った。

 昔から、平原のくぼみにはブラックベリーの茂みがある。


「あ、あった。たくさんあるわよ」


 私は嬉々と声を上げ、ころんとした黒い実を指で摘んで、バケツの中に入れた。


「俺の方が早く摘めるぞ」


 なんてジャックが挑発的に言うものだから。


「ジャックは力任せに摘んで潰すでしょ? 私の方が上手よ」


 と、昔みたいに軽口を言い合った。


 持ち帰ったブラックベリーを見て、おばあちゃんは歓声を上げた。


「煮詰めてジャムにするわよ!」


 できたブラックベリーのジャムは少し渋くて、甘酸っぱい。


 夏の味がした。



 また別の日曜日は、マクラーレンさんの古城に行った。


 尖塔は今にも崩れ落ちてきそうなぐらいボロボロだった。

 石壁も、優美な玄関ホールも、なにもかも森に呑まれていきそうで、切なかった。


「なあ、ベロニカ、湖に行ってみないか」

「湖って……城の奥の?」

「ああ、ボートに乗って魚釣りしただろ?」

「ボートは処分されたんじゃないの?」

「それが、まだあるんだよ。だから、さ」


 やけに積極的に誘うジャックをふしぎに思いながら、私たちは歩き出した。


 しだの群生を抜けていくと、森で陰っていた視界がぱっと開かれる。

 海みたいに広い湖に現れた。

 ゆらゆら揺れる水面に、コブハクチョウが泳いでいた。


「まあ、子どもがいる」


 灰色のふわふわした羽毛をまとった小さな雛たちが、親鳥に守られながら、湖面をつついて懸命に泳いでいた。


「かわいいわね」


 コブハクチョウを眺めながら湖岸を歩いていると、突然、ジャックが走り出した。


「あった。おーい、こっちだ」


 ジャックが杭に繋がった縄をといていく。ズボンのままざぶざぶと湖に入って、ボートを私の前に持って来た。


「ほら、あっただろ?」


 にっと笑うジャックに、思わずくすくすと笑いだしてしまった。

 ズボンが濡れても気にしないのは、昔のままだ。


「ふふっ、乗らせてもらうわ」


 私はスカートの端を持ち、わざと澄ました顔をしてボートに乗る。

 ジャックはボートの先を掴むと片足をボートの中に入れ、かるがると乗り込んでしまった。 ボートに置いてあったオールを手に持ち、すい、すいっとボートが進みだす。


 その揺れは、まるでゆりかごだ。

 気持ちよく揺られて、ボートは湖の真ん中に止まった。


「なあ、ベロニカ。そろそろ話してくれないか」


 ひどく誠実な声に、心地よさが終わる。

 ジャックを見ると、そこにいたのは陽気な幼なじみではなかった。


「なんで、帰ってきたんだ」


 射抜くような視線の強さに、ドキドキと心拍数が上がる。


 湖にふたりだけ。逃げ場はない。


 ジャックは私を見ながら、それ以上、何も言ってこない。

 まるで何時間でも待つと言っているかのような様子だ。

 そのまっすぐな視線に、ごまかしも嘘も何もかも見抜かれると思った。


「私……」


 いや、それは言い訳だ。

 私はジャックに聞いてほしいと願ってしまった。


 私はしどろもどろに、恋人が結婚して連絡を絶たれたということを伝えた。


 長い沈黙があった。


 つい先ほどまでの楽しさを取り戻したくて、私は笑い話にすり替えようとした。 そうすべきだと思った。


「ほんと、馬鹿みたいよね。ちょっとハンサムで年上だからってころっと騙されるなんてね。私、見る目なかったわねえ」


 声は明るいだろうか。手は震えていないだろうか。

 私は、ちゃんと笑えているだろうか。


 冷たい風が吹いて、肌が粟立った。


 火照っていた肌は冷えて、空回っている自分が、ふいに虚しくなった。


 なにやってんだろ。


「どこのどいつだ……?」


 急にジャックが低くうなるような声を出した。

 びっくりして顔をみると、彼のひたいに青筋が立っていた。

 ドンっと踏み鳴らすように立ち上がって、ジャックは激昂した。


「ベロニカにそんな仕打ちをした奴は誰だ! このオールでぶん殴ってやる!」


「きゃっ」



 バッシャーン!



 ジャックが立ち上がった勢いで、ボートは横転して、私たちは湖に投げ出されてしまった。

 水の中で、じたばたと足を動かしていると、ジャックが腰を抱えて湖面に出してくれた。


「ごほっ、ごほっ」

「ベロニカ、大丈夫かっ⁉」


 私はボートの底にしがみつきながら、半目した。

 鼻の奥が痛い。気分は最悪だ。

 それなのにジャックが神妙な顔をするから、八つ当たりもできない。

 そもそも私が悪くて、ジャックは怒っただけだ。


 なにやってんだか。


「ふふっ」


 これでは本当に笑い話だ。

 ジャックと一緒にいると、私は自然と笑えている。

 清々しいまでに、笑ってる。


「ベロニカ?」

「ふふっ、おかしい……もう、なにやってんだろう」

「……だな」


 私は彼の顔をまっすぐ見ることができた。


「怒ってくれてありがとう。なんだか、すっきりしたわ」


 そう心から思える。本当だ。

 びしょ濡れになったのが、きっとよかった。


 私がほほ笑むと、ジャックはまだ気まずそうに体を揺らした。


「なら、いいけどさ」


 ジャックの耳は赤い。照れているのかしら。

 そのままザブザブと水をかき分けながら、ボートをひっぱって、私たちは対岸に上がった。



 水を含んだスカートを手で絞って、ぐしゃぐしゃのブーツのまま、ふたりで家に向かう。

 べじょっ、べじょっと奇妙な靴音を鳴らしながら。

 不快な音を奏でているのに、心は晴れやかだった。


「あ。髪に葉が付いたままだぞ」

「え? どこ?」


 ジャックにそう言われ、立ち止まって前髪を触る。


 ジャックも止まって大きな体をかがめて、指を私のひたいに伸ばした。

 大きな指が、私の髪の毛に触れた。


 彼と目が合う。その瞳の近さに、胸の奥がざわついた。


 至近距離で見つめ合うなんて、はじめてではないのに。

 彼は幼なじみで、家族みたいなものなのに、心臓の音がうるさい。


「ほら、とれた」


 彼が葉っぱを摘んで見せてくれる。

 それにハッと意識を戻し、触られた前髪を何度も指で整えた。


「……ありがとう」


 小声で返事をして、また並んで歩き出す。

 

 とくん、とくん。

 心臓の鼓動は、おさまりそうもなかった。



 ***

 


 私はずっと後回しにしていたソフィアに手紙を出すことにした。きっと心配している。

 おばあちゃんに手紙を出したいから、便箋がほしいと頼んだ。

 すると、おばあちゃんはなぜか「ちょうど良かった!」と手を叩いて笑った。


「手紙は、ジャックが戻ってからでいいかい?」

「え? ええ」


 うっきうきのおばあちゃんの言葉に、私は首をひねった。


 その日のディナーは、食卓に私の好きなものばかりが並んでいた。


「うわあ、すごい」


 スコッチパイに、コッカリーキー・スープ。デザートにブラックベリーのチーズケーキもある。


 スコッチパイは、スパイスをうんと効かせたひき肉をパイで包んだもの。黄金色に焼けたパイ生地はサクサクで、食感を楽しんでいると不意打ちでピリッとした辛みが舌を刺激する。体が震えるほどおいしい。

 にこにことご馳走を食べ、食事が終わるとおばあちゃんがミントティーを淹れてくれた。


 爽やかな香りを楽しんでいると、おばあちゃんが私にウインクした。


「ベロニカにプレゼントがあるんだよ」

「えっ……?」

「ハッピーバースデー、トゥー、ユー♪」


 ジャックが歌いながら、何かを持ってくる。それはヘザーの花が刺繍されたカバーがかかっている四角いものだった。

 彼は笑顔で四角いものを私の目の前に置いた。


「ヒップ・ヒップ」

「フーレイ!」


 ふたりに笑顔で3回、お祝いの言葉を言われて、今日が自分の誕生日だってようやく気づいた。

 

「ジャックとねえ、一緒にプレゼントを選んだんだよ。さ、見ておくれ」


 今年は諦めていた自分の誕生日。それが思いがけず祝われて、ドキドキと胸が弾んでいく。


 私はゆっくりとカバーを取る。四角いものは、タイプライターだった。黒い光沢を放つそれに、私は思わずジャックを見た。


「……これ、レミントンじゃない」


 とても高級で簡単に手に入るものじゃない。


「俺だって、これぐらい買える甲斐性はあるんだよ」


 ジャックが鼻をこすりながら得意げに言った。

 そして愛しそうに私を見つめる。


「ベロニカにとってタイプライターは大切なもんだろ? 今までがんばってきたんだ。今、止めるのはもったいないと思ったんだよ」

「ジャック……」


 その言葉にじいんと感動していると、おばあちゃんも微笑んだ。


「そうだよ。ベロニカががんばってきたことは消えやしないよ。それに、これを選ぶまで大変だったんだよお」


 おばあちゃんが片手を振りながら、カラカラ笑った。


「ジャックたらねえ。街のデパートでパンフレットを何枚も持って帰ってきてさ。夜な夜なあたしに相談してきたんだよ。あんな神妙な顔、久しぶりに見たよ」

「ばーちゃんっ!」


 ジャックは真っ赤になって慌てているけど、本当に真剣に選んでくれたのだろう。その気持ちだけでも、充分だ。


 うれしくて、舞い上がってしまう。


「ジャック、おばあちゃん。ありがとう……本当にうれしいわ」


 タイプライターを改めて見つめる。そっと、なめらかなボディに触れた。


 15歳でロンドンに出て、そこからタイプライターの養成学校に通った。学も経歴もない、身ひとつの私には、無料で開かれた学校に賭けるしかなかった。


「タイピングしてみる」


 私はドキドキしながらタイプライターの前に座った。


 指を丸い金属のボタンに置くと、自然と背が伸びた。


 心の中で、打ちたい文字を思い浮かべる。 ソフィアへのごめんなさいと、ありがとうを。


 そして、一文字をタイプする。

 ボタンは重く、力がいる。

 この感覚に、心が高揚した。

 

 夢中で打鍵する。

 そうしていると意識がすっと抜けて、快感だけが心に残る。


 どうしてこの感覚を捨てようと思ったのか。

 今となっては分からないぐらい、打つのが気持ちよかった。


 カチっ。


 最後の一文字を打って、ほっと息を吐く。


「ベロニカ、すごいじゃないかい!」

「打つのが、本当に早いんだな!」


 ふたりの声に意識を引き戻され、私は打ち終えた活字を眺めた。

 スペルミスはないか、小さい声で読み上げて確認した。


「ふたりとも、ありがとう。手紙、書けたわ」

「うんうん。よかったねえ。それにしても、あんたは才能あるよ。見惚れてしまったよ」


 手放しに喜ばれ、照れくさい。


 でも、失くしたものをまたひとつ、取り戻せたみたいだった。



 ***

 


 ソフィアに手紙を出すと、ものすごく喜んだ返事がきた。

 その手紙には、びっくりすることが書かれてあった。

 私のお得意様であった、ライコス教授の論文の清書をしてほしいという依頼だったのだ。


 ――ベロニカじゃないと嫌だって言うのよ。お願いよ、ベロニカ。私を助けると思って、仕事を引き受けてくれない?


 ソフィアにはずいぶんと迷惑をかけてしまった。

 その手紙を見て、やりたい気持ちがむくむくと沸き上がる。


 でもロンドンには帰りたくはない。


 私は正直な気持ちをジャックとおばあちゃんに打ち明けた。


「仕事は……してみたいと思うの。だけど、まだここにいたい。ここで仕事をしてもいい……かな?」


 そっと話すと、ふたりは身を乗り出して叫んだ。


「絶対にやれ。やるべきだ!」

「そうだよ! 断るなんてもったいないよ!」


 ぐいぐいとふたりに言われて、私は背中を丸める。


「……おばあちゃんのお手伝いができなくなるけど」

「そんなこと構わないよ! 今までひとりでやってきたんだからさ!」


 おばあちゃんの笑顔は、まるで太陽のようで私の心に光を照らした。


「ベロニカ、よかったな。がんばったことが報われたんだよ」


 ジャックも笑顔で言ってくれ、無性に嬉しかった。


 泣きそうだ。


「うん。……ありがとう、ふたりとも」


 ここに来てよかった。


 私はここで、生き直せている。



 ***



 ヘザーの丘が紫色に染まり、やがて緑に戻り、雪化粧をしても、私はジャックとおばあちゃんに見守られ、タイピングを打ち続けてきた。


 仕事道具のひとつである本をぜんぜん持ってこなかったから、ソフィアにお願いして送ってもらったりして、最初はてんてこまいだった。

 髪をひっつめて、本に囲まれて悪戦苦闘する私を、ジャックはふしぎそうに眺めていた。


「そんなに本がいるんだな」

「まあね。原文を正確に打ち込む仕事なんだけど、原文が間違っていることもあるから。丁寧に調べて、依頼主に確認するの」

「そっか。大変だな」

「そんなことないわ。好きでやってることだもの」


 くすくすと笑いながら言うと、ジャックが本に挟まれた葉っぱを指さす。


「それ、なんだ?」

「えっ……こ、これはしおりでっ ちょっと、慌てていたから」


 仕事をしていると、しおり代わりに手あたり次第にその場にあるものを挟んでしまう。

 無精者なところを見られて、恥ずかしい。


「そっか。がんばってるんだな」


 でも、ジャックは気にしない。からっと笑って、私ばかりが焦っている。それがこの頃は、好ましくなっている。


 彼は私の心を重くしない。軽やかで、風のよう。


「もっと体力をつけないと。タイピストは体力勝負なのよ」

「じゃあ休憩がてら、ヘザーの丘に登るか?」

「行く!」


 ジャックに誘われて、とくんと胸が温かい音を奏でる。

 その想いを大事にしたいなって思った。



 冬が終わり、春が顔を出し、また夏が巡ってきた頃、ソフィアから思いもがけない誘いが来た。


 ――ベロニカ、タイプライターの早打ち大会に出席する推薦状を書きたいってライコス教授が言うの。大会に出てみない? もちろん、そのままロンドンに残れとは言わないわよ? 今のベロニカなら、絶対にいいところまで行くと思うんだ。考えてみてね!


「タイプライター早打ち大会……」


 そっと壁に貼ってある記事を見つめる。

 あの大会で、ナンバーワンになるのが、私の目標だった。


 マイルズと一緒に、描いた夢だった。


 彼のことを思い出したというのに、それほど悲しくない。

 あれから一年、経ったからだろうか。

 そっと胸に手を置くと、空っぽだったはずの心が水を吸ったスポンジみたいに膨らんでいた。


 大会に出てみたい。

 今の実力を試してみたい。


 だけど、ひとりでは心細い……。

 私は思いきってジャックにお願いした。


「あのね……その、大会に一緒についてきて欲しいの」


 か細い声になってしまった。


「ジャックが一緒なら、怖くないかなって……思ったの。仕事が忙しいのは分かるけど、お願い……します」


 伺うように見上げれば、ジャックの顔が赤かった。


「行く!」


 二つ返事で了承してくれた。それにほっと胸を撫でおろす。


「工場は大丈夫?」

「なんとかする! だから、一緒に行こう」


 溌剌とした笑顔に、心が軽くなった。


「ジャック、ありがとう。心強いわ」


 大会は予選、本選がある。


 一週間は休まないといけないのだけど、ジャックは猛烈に働いて納期を前倒しにしていた。

 工場の人たちもよくよく理解してくれたらしく、がんばってくれた。

 ありがたいことだ。

 私も負けないように、少しでも時間があると、タイピングの練習をして体力をつけた。


 そして、出発当日。


「おばあちゃん、お土産を買ってくるわね」

「あたしのことはいいんだよ。しっかりね」


 私はタイプライターを持って、ジャックと汽車に乗った。


 故郷が遠ざかっていくと、急に不安になってきた。

 そういえば、3位になったときも、前の日はプレッシャーでよく眠れなかった。


「ベロニカ、どうしたんだ?」


 隣に座っていたジャックが、私の顔をのぞきこむ。


「……緊張してきた」

「早くないか?」

「うっ、私は意外と繊細なのよ」


 上目遣いで見上げると、ジャックは両肩をすくめた。


「じゃあ、おまじないかけてやる」


 そう言って私の左手を取り、手の甲に妖精の羽を指で描く。

 くすぐったいと思っていたら、ジャックは手の甲に唇を寄せた。

 やわらかい感触にびっくりして、胸が弾む。


 なんだか、すっごく、照れる。


 自分でも驚くほど顔に熱が昇った。

 きっと頬が赤くなったのだろう。

 ジャックまで顔を赤くしていた。


「……緊張、解けたか?」

「え? ……うん。解けた」

「……そりゃ、よかった」


 そう言ってハンチング帽を深く被ってしまった。

 私は魔法をかけられた手の甲を見つめる。


「前も……別れる前に、おまじないをしたわね」

「そうだな。あれ、けっこう効いた」

「私も」


 ふふっと笑って、返事をする。


「今度も効くわね。ありがとう」


 はにかみながら言うと、ジャックはこそばゆそうに鼻を指でくじいた。



 ロンドンの駅に着くと、人の多さにめまいがした。

 空気も悪く、空は灰色。今にも雨が降り出しそうな不穏な天気だった。


「すっげえ人だな。はぐれないようにしような」

「うん」

「タイプライターは俺が持ってるよ。重いだろ」

「あ、うん……ありがとう」


 どんっと誰かに背中を押され、ジャックが受け止めてくれる。


「大丈夫か? ほんと、押されるなあ」


 ジャックは文句をぶつぶつ言いながら、私の肩に手を回し、軽々とタイプライターが入ったケースを片手で持った。

 軽くなった体。それにジャックとぐっと密着して、少し草っぽい匂いがした。


 村の香りだ。

 それに心が落ち着いていく。


「ジャックに来てもらってよかった……」

「ん? そうか? って、押すなよ、おっさん!」


 人混みも騒音もなぜかジャックがいると、くすくすと笑ってしまう。

 守ってくれるのが分かるから、安心して私は歩き出せた。


 その足で私たちはソフィアの事務所に向かった。


 三階建てのタウンハウスの一階、一〇五号室。

 V/S事務所と書かれた看板を目にして、少しなつかしかった。

 そんな風に感じてしまうのが、ふしぎだった。

 ジャックはハンチング帽の鍔を上げて、まじまじと事務所のドアを見る。


「へえ、ここで働いていたのか」

「そうよ。20歳からね」

「こんな都会に自分の事務所を出せるなんてすげえな」

「ソフィアがいてくれたから。彼女がいなかったら、ひとりじゃ無理だったわよ」


 私はドアベルを鳴らした。

 ジリリと低音がして、しばらくしてドアが勢いよく開かれる。

 びっくりして後ろに下がると、ふっくらとした小柄の女性が飛び出してきた。

 青い瞳を輝かせて、私に抱きつく。


「ベロニカ! 久しぶり! 元気そうじゃないっ!」

 

 きゃっきゃっと弾む声に、ぐっとなつかしさがこみ上げる。


「ソフィア、久しぶり。色々とごめんなさい。それと、ありがとう」

「もう、仕事してもらっているんだから謝らないでよ! そういうところ変わらないわね。でも、元気そうでよかったあ」


 ソフィアが満面の笑みで私を眺め、ジャックを見る。

 その瞳が丸くなった。

 ジャックは緊張しているのか、急に真面目な顔をして帽子を取った。


「ソフィアさん、はじめまして、ジャックです」


 あまりに棒読みで、ちょっと噴き出しそうになった。

 

「ほうほう。なるほど」


 ソフィアが私たちを交互に見て、にんまり笑う。


「ベロニカが元気になったのは、あなたのおかげね。はじめまして、ソフィアよ。背は低いけど、私は君より五歳年上のお姉さんなんだから、君は私を敬うように」


 得意げに胸をそらしたソフィアに、ジャックはポカンと目を丸くする。


 私はおかしくてしょうがなく、とうとう噴き出してしまった。



 翌日、ソフィアと一緒に予選会場へ向かう。

 ジャックは私たちのタイプライターを持ってくれて、とても身軽だった。

 場所はロンドンの大学で、石造りの荘厳な建物だ。

 鉄の門をくぐり、前庭を抜けて三人で歩いていく。

 ジャックは建物の前で、私にタイプライターを渡した。


「俺はここで待っているよ。二人ともがんばってな」

「うん。ありがとう、ジャック」


 私は軽くジャックに手を振り、建物の中に入る。


 予選に来ていたタイピストは30名を超えていそうだった。 推薦がないと出場できないから、ロンドンの凄腕タイピストたちが集まっているのだろう。


 その中から本選に行けるのは、10名だけだ。

 ソフィアとは試験会場が分かれてしまった。


「また、あとでね~!」

「うん。がんばろうね」


 ソフィアと別れ、私は教室の前で立ち止まった。

 まだ誰も座っていないせいか静謐な空気を感じた。


 身が引き締まる。


 仕事に向かう気持ちのまま、私は試験番号の席に座ろうとした。


 それを阻むかのように、誰かに腕を掴まれた。

 重いタイプライターが落ちそうになり、その力強さにぞっとして私は身を引きながら振り返る。


「ベロニカ……」


 声をかけてきたのは、終わったはずのマイルズだった。


 記憶の中にある通り、前髪を横に流した、甘い顔立ちの彼が目の前にいる。


 それを見て彼を好きだった記憶と、彼がいなくなり空っぽになった冷たいテーブルの色、形が、カチカチカチとタイプする音と共に頭の中で鳴り響き――――。


 ――――今さら、何。


 その文字が、脳裏に打ち出された。


 私は目を見開いたまま、思いっきり腕を振りぬいた。


「っ……」


 自分を抱きしめるようにマイルズから距離を取る。

 哀愁とも、憎しみとも言える感情が湧き上がって、のどが圧迫されたまま私は彼を睨んだ。


「ベロニカ……話をさせてくれないか……」


 まるで赦しを乞うような声に、気持ちがざわついた。

 急にまた私の心の中に入ってきて、土足で踏み荒らされたみたいだ。

 乱れた呼吸のまま、私はうつむいた。


「……試験があるから」


 そんな事務的なことを言って、私は足早に自分の席に着いた。

 タイプライターをケースから取り出すが、手が震え出してしまい、もたもたしてしまった。

 全身までも、がくがく震えてしまう。


 ――今さら、なんなのよ……!


 そんな想いに振り回されて、ちっとも試験に集中できない。


 せっかくジャックに来てもらったのに。


 挫けたくはないのに――。



 ——おまじない。俺はよく効いた。


 

 ふいにジャックの言葉を思い出し、右手の甲を左手でなぞった。

 すがるように、手の甲に唇を寄せる。


 がんばるから。私……がんばるから。

 ジャック、お願い。私を守って……。


 固く目をつぶり、何度も浅く呼吸をする。

 吸っても、吸っても、酸素がまだ足りない。


 やがて、次々とタイピストたちが席に着き、審査員が入ってきた。

 私はとにかくタイプライターに向かった。

 小刻みに手が震えても、胃が引き絞られ痛みを感じても、目の前の銀色の丸いボタンだけを見つめた。




 ————ジリリリ!


 


 終了の合図が鳴り、ハッと息を吸い込んだ。

 長く呼吸を忘れていたみたいで、少しむせた。


「っ……」


 審査員が打ち込んだ紙を回収していくのをぼんやりと眺める。

 ちゃんと見直せた? 集中できた?

 自分に問いかけても、答えは出てこなかった。


 もう、やだ……。


 あんなにも気合いをいれたというのに、散々なきもちのまま終わってしまった。情けなくて、脱力したまま立ち上がる。

 人の流れに乗って帰ろうとしたのに、またもマイルズが視界に入ってきた。

 眉を寄せて話したそうにする表情に、顔が強張る。


「……時間をくれないか」


 頼み込む姿に、苛立ちが募った。


 賞味期限切れの恋は、腐り果てて、廃棄された。

 今さら拾い上げるほどの価値もないだろう。


「……話すことはもう、ないじゃない……」


 ジャックのところへ帰りたい。そう心底、思った時だった。


「ベロニカ! 一緒に、かえろ……う?」


 ソフィアがひょっこりと顔を出して、明るい声で呼びかけた。

 そして私とマイルズを交互に見て「はあああっ⁉」と声を上げた。

 目を吊り上げて、私の手を握ると、ぐいぐい引っ張って歩き出してしまった。


「なんで、あのろくでなしがベロニカに話かけているの⁉」


 叫びながらもソフィアの足は止まらない。

 その勢いのまま建物を出て、ジャックが私たちを見て首をかしげる。


「どうしたんだ?」

「どうしたもこうしたもないの! ろくでなしがいたの!」


 ソフィアの叫びに、ジャックの表情が一変する。

 みるみる怒りが浮かび上がってきて、建物を鋭く睨んだ。


「どいつだ」


 獲物を見つけようとするどう猛さを感じて、私は慌ててジャックに言った。


「ジャック、もういいの」

「よくないだろ!」


 叫ぶジャックにびくっと体が震えた。


「ベロニカが許しても、俺は絶対に許さねえぞ! 人としてやっていいことと悪いことがあるだろ!」


 言い切るジャックに、私は顔を歪ませた。


 その通りだ。マイルズは、私にひどいことをした。

 簡単に割り切れないほど、深い傷を残した。


 それを口にしたくなくて、泣きそうな気持ちになりながら視線を流した。


 その先に、マイルズがいて、体が硬直した。


「あいつか……」


 ジャックがずんずんと歩き出してしまい、いきなりマイルズの胸ぐらを掴みかかった。


「おまえ、ベロニカに何をしたのか分かってんのか? ベロニカに謝れ! 謝れよっ!」


 今にも殴りかかりそうなジャックのシャツを引っ張った。


「ジャック、もういいから!」

「なんでだよ! こいつは最低なことをしたんだぞ!」

「こんなところで騒ぎを起こしたら、ジャックが捕まっちゃう!」

「構うものか! こいつだけは許せねえ!」

「私が嫌なのっ!」


 私は潤む視界のまま、叫んだ。

 ジャックを守りたかった。


「この人はどうでもいいけど、ジャックがそんな目にあうのは嫌なの! この人は、ほんっっと、どうでもいいけど!」


 息を乱しながら言うと、ジャックは目を丸くした。

 私は肩で息をしながらマイルズを見た。

 さっきまでの恐れが嘘のように、はっきりと彼を見据えた。

 もうこれ以上、私たちの事情にジャックを巻き込めない。


「あなたが何を話しても、私はあなたを許さない。それでもいいなら、話を聞くわ」


 想いを口にすると、マイルズは気まずそうに視線を逸らした。


「分かった……」


 弱々しい声を出して、なおも話そうとする。

 その態度を不審に思いながら、私たちは場所を移動した。



 大学の近くにある公園に私たちは向かった。

 ジャックが無言で私からタイプライターを取り上げ、マイルズをけん制するように見る。

 その視線に小さくほほ笑みながら、マイルズに目を向けると、彼は神妙な声で話し出した。


 マイルズはタイピング事務所の上客の紹介で、化粧品メーカーのご令嬢に出会った。彼女は積極的にマイルズに会いたがり、彼自身もその気になってしまったようだ。彼女と付き合えば、さらに上にいけると思ったそう。マイルズは私と野心を天秤にかけて、野心に大きく傾いた。


「結婚の話が出て、その前に彼女が妊娠して……引くに引けなくなった」


 彼女の母親から新聞の取材を受けるように言われ、断れずあの記事が出た。


「彼女を好きだったのか、今となっては分からない。でも子どもの父親として責任だけは取らなきゃいけないと思った。そう考えるほど、僕が君にしたことの意味を考えるようになった。産まれたのは、娘なんだ……自分の娘がされたらって考えたら、君にどうしても謝りたかった」


 マイルズは今さらながら私に頭を下げた。


「君と話をしなくて……ごめん」


 その言葉を聞いても、私の許せないという気持ちは変わらなかった。

 でも、それはもう胸を押し潰すほど重い感情ではなかった。

 怒りでも、恨みでもなく、整理がついた、というべきか。


 結局、マイルズと私はタイピストという夢を抱えながらも、別々の方を向いていたのだろう。

 正面から向き合うことも、横に並ぶこともなく、背中合わせでいた。

 それが分かって、心の重りが軽くなっていくようだった。


「あなたは私に打ち明ける勇気すら持っていなかった。それだけの話ね」


 思ったよりも軽やかに言えた。

 意地でも重く言いたくなかったから、これでいい。

 マイルズは未練があるような顔をしていたけど、私はいっそ清々しく微笑む。


「じゃあ、私、帰るから。あなたも娘さんを大事にね」


 彼は彼の日常へ。私は私の日常へ。

 それぞれ戻る。


 軽やかに足を進め、私はイライラしていそうなジャックとソフィアの間にぴょんと入る。

 ふたりの両腕を掴んで、にっこりと笑った。


「お待たせ。帰りましょう」


 まだ何か言いたそうなふたりを促して、私は歩き出した。



 ***

 


 事務所に戻ってもまだ、ふたりはムスッとしたままだった。

 私が晴れやかな顔をしているから言葉を飲み込んでいるようだ。

 その様子に私は静かに感謝して、予選の結果を待った。


 夜に、速達が来た。

 私にもソフィアにも。

 ということは、ふたりとも本選への出場が決まったということだ。

 微妙な空気が、一気ににぎやかになる。


「ベロニカ、やったわね!」

「ええ」


 いそいそと手紙を開くと、本選通過メンバーの順位と名前が書かれてあった。

 ソフィアは6位。私は8位と微妙な位置だった。


「あのろくでなしが、ちゃっかり3位にいるッ⁉」


 ソフィアはそう叫んで、悔しそうに地団駄を踏んだ。


「ろくでなしより順位が低いなんて! 自分が許せないわ! 明日の本選は、絶対に勝つッ!」


 めらめらと背後に炎が見えそうなほど闘志を燃やして、ソフィアは早く寝てしまった。

 私は苦笑いしながら、それを見送り、再び通知を見る。


「8位か……」

「充分だろ」


 そう言ってくれたのはジャックだった。

 ひょいと両肩をすくめ、なんてことはないように軽く言う。


「あの人数の中から、10人に選ばれたんだ。すごいことだよ」


 マイルズのことを引きずっているのか、ジャックの顔は神妙だった。

 私は肩から力を抜いて、はにかむ。


「あのね、ジャック。マイルズに遭って、私、すごく動揺したの」


 ジャックの眉間にしわが刻まれた。


「でも、ジャックがおまもりを思い出して、力をもらった」


 私は微笑みながら、右の手の甲をなぞった。


「とっても効いたの。本当よ」


 そうささやくように言うと、ジャックは両手で顔をおおって「あー」とうなるような声を出した。


「ベロニカは大人すぎる。あんな奴、ぶん殴っても、穴に落としてもよかったんだ」

「穴に落とすの?」

「その後、埋める」


 思わぬ発想にふふふっと笑ってしまった。

 ジャックは顔から手を外して、むすっとしていた。


「俺が許せないだけだ」

「私も許していないわ。同じよ」


 私は甘えながら、ジャックに呼びかける。


「ねえ、またおまじないをかけて、そしたらがんばれる。お願い」

 

 ささやくように言って、手の甲を差し出す。

 ジャックはじっと私の手を見つめた後、両手で包み込んでくれた。

 宝物のように眺めた後、ゆっくりと妖精の姿が描かれる。


「妖精も俺も、ばーちゃんもベロニカを見守っているよ」


 妖精の羽が手の甲に描かれ、 彼の唇が触れる。

 キスをした後、ジャックは強い瞳で笑った。


「いつも通りにやればいいんだ。ベロニカは今までがんばってきただろ」


 その熱い瞳に、私の心に火が付く。

 応えるように、大きくうなずいた。

 

 


 次の日、本選会場に着いた。広い公園にテントが張られ、机が並べられている。

 押し寄せる見物客、カメラを構えた記者たちが私たちにフラッシュをたいていて、会場は異様な熱気に包まれていた。

 

 タイプライターを用意して、机に座って顔を上げると、ジャックと目が合った。


 が・ん・ば・れ


 彼の口元がエールを送る。それに微笑んで、私は手の甲にキスをした。


 

 ――私、がんばるよ。


 

 銀色の丸いボタンに指をのせ、はじまりの合図を待つ。


 手は、震えなかった。



 ジリリリっ!



 開始の合図と共に、テキストをめくる。

 1分間にミスなく何文字、打てるか。


 正確さを競う戦いに、私は挑む。



 ――――カチカチカチカチ。



 養成学校に入って、はじめてタイプライターを打った。最初はタイプミスが多く、力も弱くて文字が印字されず「あなたのしていることは紙の無駄」と何度も叱られた。そんな私に講師の女性タイピストは言った。


 一度、印字されたら、文字は消せない。人生と一緒だ。だから集中しなさい。軽い気持ちでやるなら、本物のタイピストにはなれない。


 タイピングを簡単だと思っていた私のきもちはへし折られ、悔しくて泣いた15歳の夏。



 ――――カチカチカチカチ。



 タイピスト事務所に入って、自分でようやく稼げると思ったのに、締め切りに追われる日々だった。膨大な仕事量に、わずかな賃金。ロンドンを歩いていると、華やかな衣装をまとった女の子がうらやましくてしかたなかった。


 なんで、私は働いているんだろう。

 そうしないと生きられないからだ。


 心の中で押し問答を繰り返し、固いパンをかじって、踏ん張った17歳の夏。



 ――――カチカチカチカチ。



 引用を間違えていると顧客に指摘したら、恥をかかされたとクレームがついた。私は自分が間違っていないと思ったから反論したが、上司に怒鳴られた。「タイピストなんて顧客の文を正確に打ち込めばいいだけなんだ」とぴしゃりと言われた。


 それは違う。タイピストは、校閲もしなければ。正しくない文章を読者に伝えられない。

 文字は、印字されたら消えないのだから。

 たったひとつのミスで、読んだ感動を失くしてはいけないんだ。

 

 そう思っても、私の声は届かなかった。

 タイピストとしての自分を否定され、事務所を辞めさせられ、星空に向かって泣くしかできなかった19歳の夏。



 ――――カチカチカチカチ。



 20歳でソフィアと出会って、事務所を開いて、この大会にも出られた。

 タイピングしていると思い出すのは、様々な人々の表情だ。


 私がここにいられるのは、いつも誰かが支えてくれたから。


 だから、約束するわ、全力を出すって。



 ――――カチッ。


 タイピングは人生だ。

 それが分かった25歳の夏。


 指先に全神経を集中させ、私はボタンを力強く押しきった。





 


「誰が1位かしら?」

「俺はあの男に賭けたぞ」


 見物客がひそひそとささやき合う中、 私たちは結果を待っていた。


 やがて丸眼鏡をかけた老齢の審査員が、こほんと咳ばらいをして最下位を発表しだす。


 第5位まで発表された。


 私の名前はまだ呼ばれていない。


「第4位―――」


 ドキドキしすぎて手が震えだしていた。手の甲をぎゅっと掴んで、私は祈った。


「――マイルズ・ローズウッド、108文字」


 え……? マイルズが4位?


 拍手が沸く中、呆然としてる間に、第3位が呼ばれる。


「第3位、エドガー・ヘイル、110文字。第2位、ソフィア・グレン、115文字!」


 ソフィアが席から立ち上がる。

 そしてパッと私を見た。


 目が爛々と輝きだす。





「第1位、ベロニカ・ウィロウズ! 118文字!」

 

「きゃあああっ! ベロニカが一位よ!」





 ソフィアが私を抱きしめる。  


「え? あ、え?」


 私は信じられなくて、ぱくぱく口を開けたり閉めたりした。

 ソフィアは「もう、やだあ!」と笑いながら言う。


「私たち、ロンドンで一番のタイピスト事務所になったのよ!」


 ぎゅうぎゅうに抱きしめられ、じわじわと実感が沸き始める。


 そっか……夢が、叶ったんだ。


  第1位の証、金のメダルを審査員の人から「おめでとう」の言葉と共に贈られる。

 そこには、私の名前がしっかりと刻まれている。


 何度見ても、何度読んでも、消えない証がある。



 カメラのフラッシュがたかれて記者たちが私を取り囲もうとした。それを押しのけるようにジャックが顔を出す。

 

「ベロニカ、やったな!」


 その声を聞いた瞬間、ぽろっと瞳から涙が零れた。


 おかしい。


 涙腺が壊れてしまったみたいだ。


 ぼろぼろと熱い涙が頬を流れていき、自分では止められない。


 しゃくり声を上げる私をジャックが抱き上げる。

 誰よりも一番、空に近いと言わんばかりに。


「がんばったことが報われたんだよ! おめでとう、ベロニカ!」


 抱きしめたまま、くるくる回り出して、私は泣きながらジャックの首に腕を回した。


「……ありっ……ありがとう、ジャック……あなたとこの瞬間を迎えられて、私、幸せよっ」


 その声を聞いて、ジャックは強く強く抱き返してくれた。



 ***

 


 ロンドンを出発する日、ソフィアは得意げに私に言った。


「1位と2位のタイピストがいるんだから、これからバンバン仕事がくるわよ。じゃんじゃん仕事を回すからね」

「うん……ソフィア、色々と、ありがとう」

「もう、やあね。お別れしないんだから、寂しい顔はなしよ。またね、ベロニカ」


 私は頷いて、ソフィアと抱き合い、頬にキスをして別れた。

 しゅーしゅーと音を出す蒸気機関車にジャックと乗り込む。


 最初は混んでいた席も、だんだんと少なくなり、私たちは席に座れた。

 外を見れば、青々とした木々に覆われた山々が見える。


 傷心して逃げてきた時とはまったく違う気持ちで、その風景を眺めていた。


「ベロニカが1位になったって聞いたら、ばーちゃんびっくりするだろうな」


 自分ごとのようにうれしそうにジャックが笑う。


「喜んでくれたら、私もうれしいわ。恩返しできるし」

「そうだな。ぎっくり腰になるくらい驚くかも」

「それは困ったわね」


 くすくすと笑いながら、ジャックを見る。

 その優しい眼差しに、すっと意識が吸い込まれた。


 座席についた私の指が、ジャックの指と絡み合う。


「ねえ、ジャック。私、これからもあの家にいたい。あなたと一緒にいたい」


 ジャックの指は私の指をしっかりと握った。

 真剣な表情になり、彼の瞳の奥に熱を感じる。


「これからも家にいてくれ。俺が、守るから」


 その力強い声に、幸せが波紋を描いて胸に広がっていった。


 激しく落ちる恋でもなく、夢に向かう恋でもなく、日々の中で育っていた恋。


 そんな恋を、私はジャックとしている。


 私はジャックと正面から向き合って、時に横に並んで歩いていきたい。


「ジャック、好きよ。ずっと、ずっとそばにいてね」


 そう言うと、ジャックが私に顔を近づけた。

 とくんと胸が弾み、そういう空気を感じて目を閉じようとした。

 

 ジャックが不意にハンチング帽子を脱いで、私たちの顔を隠した。

 それにくすりと笑いながら、私は今度こそ目を閉じる。



 唇に柔らかいものを感じながら、ああ、幸せだなと思う。


 あの日、捨てられたけど、私は今、笑っている。

 心から笑っている。とても幸せなことだ。

 そして、これからも笑って暮らすのだろう。


 おかえり、おかえりと風の妖精がささやき。


 泥灰の匂いがする、あの故郷の村で。




 END






 ――after story



 俺、ジャックにとってベロニカは、人生の節目に思い出す存在だった。


 最初の出会いは、もう覚えていない。家が隣同士だったから、気づいたらベロニカがいたんだ。

 

 ベロニカは波打つ黒髪で、ちょっと気が強そうな吊り目で、ちょっと近寄りがたい雰囲気を出しているきれいな子だった。


 9才の時、ベロニカの両親が病気で亡くなって、ベロニカはみるみるやつれていった。

 親父がベロニカを引き取ったけれど、何をしても無反応で、俺はオロオロしすぎて、馬鹿みたいに明るく振る舞ったり、話かけたりしていた。


 ある夜、ベロニカがいなくなってしまって、俺と親父とばーちゃんが慌てて探した。


 汗だくで探していたら、ヘザーの丘が月明かりの下で、ぼんやり紫色に輝いていた。

 導かれるように走ったら、ベロニカがぽつんとヘザーの草むらの中にいた。

 彼女の周りに蛍みたいな小さな粒が光っていて、妖精が守ってくれているのかなと思った。


「おとうさん、おかあさんっ……」


 ふいに泣き声が聞こえて、それまでベロニカが泣いているところなんて見たことがなかったから、俺は無我夢中でベロニカを抱きしめて叫んだ。


「つらかったら、つらいって言えよ! 我慢すんな!」


 わんわん泣くベロニカを抱きしめながら、ふたりでヘザーの丘にいたんだ。

 気がつくと、俺たちは寝ちまったみたいで、親父に叩き起こされた。

 ベロニカは親父におんぶされて、家に帰るとばーちゃんが「よかった、よかった」と泣いていた。


 それからベロニカはちょっと回復したみたいで、よく笑うようになった。

 あと、惚れっぽくなった。


「雑貨屋のジョンがいいわ」とか「牧場のトーマスがいいわ」とか。

 きらきらした目で俺に言ってくるようになった。


 どこがいいんだよと思ったけど、まあベロニカが笑っているし?と思って、俺は何も言わなかった。

 だけどさ。俺が「あの子がいいな」って話すと、ベロニカはツンと澄ました顔をして、なんでか口をきいてくれなかった。


 14歳になって、学校を卒業したら親父にマンチェスターで修行してこいって言われた。

 俺は村を出るのが嫌だったんだけど「そういうものなんだ」って頑固に言われてさ。

 しぶしぶ工業都市に行くことになった。


 そしたらベロニカが「ジャックが村を出るなら、私もがんばる!」とか言い出して、ロンドンのタイピスト学校に行くって言い出したんだ。


「タイピストなら女性でもできるんですって! 私も職業婦人になれるのよ」


 キラッキラした目で言うもんだからさ。反対なんてできなかった。

 俺も、親父も、ばーちゃんも。


 ふたりで汽車に乗って、俺が緊張していると、ベロニカは笑顔で「おまじないをしてあげるわ」と言ったんだ。


 手の甲に妖精を描くおまじない。

 いつでも、どこにいても、故郷の妖精が守って力を与えてくれる。


 ベロニカが俺の手の甲にキスをした時、びっくりして俺は飛び上がりそうになった。


「なんで、顔が真っ赤になるの? これは幸運のお守りよ! 私にもやって」


 ツンと目を吊り上げて言われ、俺はドキドキしながら小さな手にまじないを描いて、唇を寄せた。

 ドキドキが聞こえませんように、そう願いながら。


 ベロニカは手の甲に描かれた透明の妖精を見て、満足そうに、にこにこしていた。

 笑顔で別れて、それっきりベロニカとは連絡を取らなかった。


 修行時代は、自分がいかに井の中の蛙だったかを思い知った。

 世の中にはすげえ人が多くて、やたら自分がちっぽけに感じた。


 それでもいい先輩には出会えたし、酒も女の肌の柔らかさも覚えた。

 でも、情熱を持てる関係にはなれなかった。


 19歳の年、親父が病気に倒れ、俺は故郷に戻った。


 手を尽くしてもダメで、親父はあっけなく死んじまった。

 それからはよく覚えていない。


 とにかく親父がしていた羊毛工場をなんとかしなくちゃいけないって思った。


 だって他に誰がやるんだよ。

 誰があの工場と、ばーちゃんを守るんだよっ。


 必死にやっていたけど、全然ダメダメで、工場は売り上げが減った。

 そんな時だ。ベロニカを新聞で見つけたのは――。


「ベロニカ、がんばっているんだねえ。よくがんばっているんだねえ」


 ばーちゃんはベロニカがタイピスト早打ち大会で3位になった記事を見てボロボロに泣いていた。

 俺は素直に喜べなかった。ベロニカと自分を比べてしまったから。


 気づいたら夜だというのに、ヘザーの丘に駆け上がっていて、紫色の草むらの中にいた。


 汗だくの俺に、風が吹く。かっかしていた頭が冷えていった。

 俺はその場に座り込んで、無言でヘザーの丘を眺めた。


「つらかったら、つらいって言えよ。我慢すんな……か」


 あの日、ベロニカに言ったことを今の自分に言う。

 ごろんと、草の上に寝っ転がって月を仰ぐと、小さな光の粒みたいなのが俺に近寄ってきた。

 小さな粒を見ていたら、真っ白なヘザーの花を見つけた。


 二輪、咲いていた。


 ベロニカと散々探しても見つからなかった花だ。


 ――これは幸運のお守りよ!


 ベロニカの声まで聞こえてくるようだった。


「なんの運命だよ、これ」


 目頭が熱くなって、俺は鼻をすすった。

 そっと花を摘んで、夏の香りをめいっぱい吸い込む。


「俺、がんばるよ。ベロニカもがんばっているから、がんばれる」


 白い花を摘んで、俺は家に戻った。

 ばーちゃんは喜んでくれて「押し花にして、しおりを作ろう!」と言い出した。


「一枚はあたしがもらうよ。もう一枚は、好きな子にあげなさい」


 好きな子と言われても。

 ふとベロニカの顔が浮かんだけど、まあ次に会えたら渡そうかなぐらいの感覚で、しおりは引き出しにしまっておいた。


 それからなんとか工場は持ち直した。

 修業時代の先輩に相談したら、いい客先を紹介してくれた。

 ありがたかった。


 そんな日々を過ごして、ヘザーの丘に登るのがすっかり日課になったある日。

 

 風が、ふしぎと強かった。

 なんでだろうなと思っていたら、8年ぶりにベロニカに会った。


 その時のベロニカは、今にも消えそうなぐらいやせていて、何かあったんだとすぐにピンときた。

 だけど、俺はまた馬鹿みたいに陽気に笑った。

 そうしたらまたベロニカは笑うと思った。


 でも我慢できなくなって、ベロニカを湖に連れ出し、問い詰めたけどな。



 ***



 ベロニカが大会で優勝して故郷に戻って報告したら、ばーちゃんはびっくりしすぎてぎっくり腰になった。


「いたたたっ……」

「おばあちゃんっ、大丈夫!?」

「ばーちゃん、医者を連れてくるから! ベロニカ、ばーちゃん頼んだ!」

「う、うん」


 大騒ぎで、ベロニカのお祝いをしたのは、しばらくしてからだ。



 ある日曜日、俺はベロニカを誘ってヘザーの丘に登った。


「わあ……紫の絨毯だ……」


 ベロニカは嬉しそうに景色を眺めていた。

 その笑顔に満足して、俺はあれを渡そうとポケットに手を入れる。


「なあ、ベロニカ。白いヘザーの花を探したこと、覚えているか?」

「もちろんよ」

「見つけたんだよ。ずっと前だけどさ」


 俺はズボンのポケットから白いヘザーの花のしおりを取り出して、ベロニカに差し出した。


「え? え?」


 ベロニカは信じられないものを見たように、しおりを凝視した。


「白い幸運の花……だわ」


 その瞳が輝き出すのを見て、きれいだなと思いながら、俺は言った。


「好きな人ができたら、あげるつもりだった。受け取ってくれないか?」

「……私に」

「うん。ベロニカ、仕事をしているとき、葉っぱをしおりにしているからさ。これ、使ってくれよ」


 ベロニカの顔が真っ赤になった。恥ずかしいのか、慌てている。


「あ、ありがとうっ……使うわ」


 しおりを受け取ったベロニカは、嬉しそうに目を細めて白い花を見つめた。

 その顔がまたきれいで、ずっとそばにいてほしいと願った。


「ベロニカ、結婚しよう。ずっと、大切にする」


 俺の人生の節目にはベロニカがいた。

 これからの節目にも、ベロニカにいてほしい。


「来年もその先も、ずっとずーっと先も。じーちゃん、ばーちゃんになっても。ヘザーの丘を一緒に見に来よう」


 そういうとベロニカは瞳を潤ませた。

 ぽろぽろと、頬に涙が流れ落ちていく。


「ジャックのお嫁さんになるっ」


 その返事が、幸せだった。

 大切にしたいと思った。


 俺は紫の草原の上で、白いヘザーの花を持つ彼女を抱きしめた。


 泥灰の匂いのする風が俺たちを包む。


 おめでとう、おめでとう。


 そう、風の妖精がささやいているみたいだった。



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拝読させていただきました。 積極的に資料収集されていたのは、Xで伺っていましたが、本当によく読み込まれていることが伝わってきました。 読み込めても、それを作品のバックボーンに浸透させられるかどうかは、…
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