第二十一章 黒軍
「ドリナと旦那様が姿を消しました」
ローザの言葉に、女王は大した驚きも無く、「そうか」と呟く。
「追っ手を差し向けますか?」
「もう一日待て。国境を越えれば、捕えられなかった言い訳もできよう」
地図に自軍の進路を書き込みながら答える。
「……良いんですか。それで。あの男は陛下の期待を裏切り、陛下の乳兄弟を攫って逃げた。万死に値する」
ローザの声は普段からは考えられない程低く、殺気を含んでいる。
「ははは。そなたは夢を見せたからと言って吟遊詩人を処刑するのか?」
快活に笑う主に、忠実な侍女は戸惑った。
「夢……ですか」
「我々は騎馬民族だ。不毛の地に生き、食べるためには他人から食糧を奪うしかない。それが何かを生み出し、与えられる、そんな存在になれるのではと」
謡うように呟き、すぐに首を振る。
「そんなわけないのにな。所詮、我々は略奪者。この手は血に濡れている」
イロナは暫しペンを止め、自分の手を見つめた。凡そ娘の手とは言いがたい、剣を握る者の手。この国の為と言いながら、兄を殺し、数多の敵国の兵を屠り、未来あるこの国の若者を戦地に駆り立てた。
それでも、当たり前のように手を添えられ、壊れもののように導かれ、何かが変わる気がしたのだ。自分が何か、戦の女神ではなく何か別のものになれる、そんな気が。
「……陛下、もしかしてあの男のこと存外気に入ってました?」
ローザが訝し気に問う。
気に入っていた。見ていて面白かった。剣も握れない男なのに、敵意だらけの外国人の中に果敢に突っ込んでいく。その様はどんな兵より勇敢で、やがて周囲を変えてしまう。
「あの男を見ていたら暫し、この国が抱える閉塞感を忘れることができた」
彼ならば、不毛なこの地にも根差すかもしれぬと思った。だが、じきに戦火がこの不毛な地を燃やし尽くすであろう。幾ら丈夫な草でも火が相手では生き残れまい。
自分が詩的な表現をしていることに自嘲する。幾分センチメンタルになっているようだ。夫と見定めた男と、仕えてくれた乳姉妹が同時にいなくなったせいかもしれない。
「ドリナは気立ての良い女だ。かつては結婚を夢見る普通の娘だった。私の乳母姉妹にされたばかりに、多大な犠牲を払わせた。だと言うのに恨みもせず、長きに渡り私に仕えてくれた。これ以上の助力を求めるわけにいくまい」
「だからって自分の婚約者と逃がします、フツー」
「彼を存外気に入っているらしく、ドリナはいつも気にかけている。彼もドリナの価値をわかる男だ。この地で無残に死なせたくない」
イロナは己の剣の手を当てる。使い込まれた柄は手に馴染んでいる。
「二人には本当に感謝しているのだ。この先は血濡れの道だ。刃を握らぬ者をつきあわせるわけにはいくまい」
ローザはそんな主を痛ましげに見つめている。
「あなただって……誰だって刃の似合う人間なんていないでしょうに」
「? 何か言ったか?」
「いえ」
小さく首を振り、いつものように可愛らしい笑顔を作る。
「あたしはお供しますよ。血濡れの道でも、地獄の先でも」
イロナは目を見開き、それから、少し微笑んだ。
「……ありがとう」
感傷を振り払うように地図に目を移す。
「さあ、無駄口を叩く暇はないぞ。兵站のルートも考えねば」
‡ ‡ ‡
小麦の価格が上がった。民たちの腹を満たす糧はほぼ全て小麦からできている。食糧費をはじめとする人件費、インフラといったありとあらゆる物の価値が高騰した。異国の学生が言うところのインフレーションと言うやつだ。貧しい者が真っ先に被害を受ける。餓死者が増えてもおかしくない。暴動こそ起きていないが時間の問題だろう。そして……。
「これが盗賊の出現場所っす」
少年と言うには手足が長く、青年と言うにはあどけない若い男が地図を示す。テスと呼ばれる彼は別の任務で軍務についているのだが、女王の手足となり動く忠実な部下である。
食えなくなった者たちが「飢え死ぬよりは」と奪う方に動くのは道理である。しかし、軍事国家であるオノグルには常備軍があり、平時は治安維持も担っている。そんな中で犯罪を行えば潰されるだけだ。
そこで盗賊たちは小規模、場当たり的な、所謂ゲリラ的な行動をとった。いつどこに現れるかわからなければ、軍を展開して補足することはできない。
「で、姫も出陣するのか?」
「今は女王だが」
「そうだったな」
日に焼け、顎髭の生えた古参の司令官が呟く。名はミクローシュ。古くから続くモノキー家の出身、メイスを振り上げた祖を紋章に掲げる武家の名門である。
若いころは英雄とも轡を並べ、共に戦場を駆け抜けたこともある。女王の初陣も見守った。数多の死線を生き抜いていると言うだけで相当な実力者であることがわかる。
「大将がわざわざ危ない前線に出なくても良いだろうに」
「少し体を動かしておきたい。相手は銃火器をあまり持ってないのであろう?」
「ま、そうだが。油断してると痛い目に遭うぞ。次の戦いも控えているんだからな」
女王は軽く頷く。これはいわば、前哨戦。盗賊へ勝利し、そのことを大々的に宣伝すれば、次なる戦いへ弾みがつく。因みにエースターへは間諜が戻り次第攻め入る予定だ。
「ところで……マジで戦争する気か?」
「剣を振るう機会が減って腕が鈍ると言ったのは貴殿ではないか」
「いや、それはそうだが」
婚約式にも出席していた中年は、追及して良いものか迷う。
「聞いたっすよ、陛下! 男に逃げられたそうじゃないっすか!」
気遣いのできる老兵に思いっきりつま先を踏まれ、「いてぇ!」と叫んでいる若造に「まあな」と返す。全然反省してない好奇心いっぱいの青年が、足をさすりながら問う。
「どんな男だったんすか?! 陛下の心を狂わせる程の絶世の美男子とか?」
「いや全然」
「じゃ、一騎当千の兵とか? パール将軍みたいに」
「全く」
そう言えば馬に乗ろうとしていたことがあったな、と思い出す。以前自分が求婚者を断るためにパール将軍が好きなタイプだと法螺を吹いたが、それを真に受けて馬に乗れないくせに乗れるようになろうと、練習をしていたのだ。
落馬は命に関わる。だからきつく言ってしまったが、本当はそうやって自分の為に努力をしようとしてくれたことが嬉しかったのだ。
こんな風に逃げた男のことを思うのは、未練だろうか。
「なーんだ。じゃあ、全然惜しくないっすね」
「頭は良かったが普通の男だったよ。どこにでもいるまっとうな男だ。家族思いだし、案外いい夫になったかもしれぬ」
「尚更良かったじゃないっすか。普通の男なんてオノグルの王配には相応しくないっすよ」
女王は少し笑って「そうだな」と応じた。元々縁が無かった。平凡な幸せが似合う彼と血まみれの自分は交わるはずがなかったのだ。だから残念だったと思うのは気のせいだ。
地図に視線を移す。テスが印をつけた箇所、街道、地形を全て頭に叩き込んで凝視する。そして、ある一点を指で示した。
「ここだ。この地点が次に襲われる」
「え? なんでっすか?」
「この盗賊団は恐らく北の森を根城にしている。禁猟区だが、放置されて久しい。水場もある。近隣の村から家具が奪われたと報告もあったな」
老兵は軽く頷きかけ、地図の印のついた一点を示した。
「待て。ここが根城だとしたら、この二番目の箇所がまた襲われるんじゃないか?」
「そこは人通りも多く、逃げ場もない。砦からの距離も近く、兵を出されたら簡単に制圧されてしまう。警戒されていると考えるだろうし、一度襲ったら二度目はないだろう」
ミクローシュは「ふーむ」と顎髭を撫でる。
「ここならば、主要な街道で商人の通りも多い割には道幅が狭く、兵を派遣しても少数で対処するしかない。草の背も高く潜んでいてもわからず、逃げるのも容易だろう。
前回の襲撃から日も経っている。そろそろ次の行動に移るだろう」
翌日、準備を整えたイロナは兵と共に街道近くの茂みに身を隠していた。兵は五人程、他にも幾つかの候補に兵を分散させているのもあるが、あまり多人数で行動しても目立つ。目立つ黒馬は背を低くして蹲っている。草を揺らさないように移動してきた伝達係のテスが耳打ちする。
「昨夜、宿にいた商人の話だと、重い荷物をたくさん積んだ商人が居て、隊列を遅れたそうっす。黒髪の夫婦で、女の方が馬を操っていたとか」
「女連れか。襲ってくれと言っているようなものだな」
「うちも一応女連れっすけど」
そうだったな、と頷く。軍にいるとどうにも自分が女であると言う意識が希薄になる。
それはそれとして、イロナの父の代に常備軍が組織され治安が爆発的に良くなったとは言え、行商は危険が多い。危機感の薄い夫婦には気の毒だが、良い囮になるだろう。
無理な体勢を取らされ不満げな黒馬を宥めていると、道の先から砂ぼこりが上がった。
例の行商人の夫婦はイロナが予測した地点より少し手前で盗賊に遭遇したらしい。
前を行くは事前情報があった荷車。麻袋が多く積まれ、男の細身の背が崩れぬよう荷を支えているも、車輪の軋みやカーブを曲がる際に袋の幾つかが石畳へこぼれ落ちる。御者席の、砂ぼこりを避けるためかスカーフで顔を覆った女が馬に鞭を振るっている。かなり無茶な速度で走っているが、このままでは後ろの身軽な盗賊たちに追いつかれるのも時間の問題だ。盗賊は十数人ほどか、とイロナは目を眇める。
「鳴らせ」
返事の代わりにテスが真鍮のクラリオンを吹く。音が響く前に身体を起こした馬に乗り、その黒い腹を蹴っていた。
驚く盗賊の顔を目視できる距離になり、馬具に付けられたホルスターからハルバートを抜く。斧と槍を組み合わせた特殊な形状で扱いも難しく、剣の方が馴染みがあるが、馬上で振るうにはリーチの長い方が良い。たちまち接近し、近くにいた盗賊の一員へ武器を振りかぶる。慌てる盗賊は辛うじて剣で受け止めるも、イロナはすれ違い様にハルバートを回転させ、遠心力で威力を増した柄が男の脇腹を直撃した。その衝撃に身体が馬から落ち、そのまま動かなくなった。乗り手を失った馬が所在なさげに嘶く。
女王は荷馬車の脇でハルバートを下段に構えた。女王に続けと、草むらから兵たちが姿を現した。赤と黒、中央に青い盾と黒い鳥が描かれた旗が翻る。
「黒軍だ」
誰かがか細い声で呟く。近隣諸国でも類を見ない、訓練され、最新鋭の銃火器を装備した、数万人規模の常備軍。敵対する相手には恐怖の対象だ。




