深淵の蓋
新作が思いつかないから番外編だよー
我慢して欲しい
紺碧の谷に満ちる静寂は、アルスにとって何よりも尊いものだった。
彼は最小限の私物、すなわち計算尺、いくつかの化学式が走り書きされた羊皮紙、そして愛用の比重計だけを手に、騒がしい帝国を去った。
向かう先は、以前から「異味」があった特殊な磁場を持つ最果ての地。
「紺碧の谷」。
その名の通り、世界で最も深く、最も純粋な青が生まれる場所だった。
十日後、僕は常都の喧騒から遠く離れた、この静寂に包まれた地にいた。
「ふむ……この地の水はイオン濃度が理想的だ。これなら【色素定着】の分子結合計算に狂いが出ないな」
テラスで、温度計ではなく比重計を片手に、独自の「藍染め」を行っていた。
染料の湖の中では完璧な化学反応が起き、宇宙の深淵を思わせる「極上の藍」が布を染め上げている。
「素晴らしい。これこそが、僕が辿り着きたかった『存在証明』の解かもしれない」
傍らでは、谷で出会った希少種「極光鳥」が、僕が配合した「高ミネラル結晶」をついばんでいる。
こいつの羽の光沢周期も、非常に興味深い力学的な規則性を持っていた。すべてが僕の設計通り、完璧な調和の中にあった。
その時、はるか上空から不気味な振動が伝わってきた。
ゴゴゴ、メキメキメキッ――。
空が裂けるような重低音。
それは、僕が去った帝国を支える浮遊石が、魔力の過負荷によって自壊を始めた合図だった。
案の定、僕が施していた「エネルギー分散処理」を無視して魔力を注ぎ込んだせいで、空間の弾性限界を超えたのだ。
さらに三日後。岩の谷で、三枚目の布を完璧な青に染め上げた僕の前に、ボロボロの飛空艇で現れたのは、鼻水を垂らしながら震えるバドラスだった。
「アルス殿!頼む、戻ってくれ!帝国が……帝国が重力崩壊を起こしている!宮殿は逆さまになり、居住区では重力が三倍になったり消失したりして、パニックだ!貴公の計算があれば救えるはずだ!」
僕は、藍色に染まった自分の指を見つめ、静かに答えた。
「バドラス長官。おかしなことを言いますね。魔法は『気合い』と『魔力量』でしょう?優秀な大魔導師たちに任せれば、地磁気の一つや二つ、力押しで捻じ曲げられるのではないでしょうか?」
「あ、あれは私の慢心だった!魔力を注げば注ぐほど、浮遊石の位相が狂い、現在は北海の上空で帝国が『独楽』のように回転を始めて、誰も真っ直ぐ歩けんのだ!この通りだ、頼む!」
「残念ながら、私の【空間力学】によれば、帝国の構造維持は既に『事象の地平』を超えています。一度位相が逆転した構造体は、外から魔力を足しても、内側の歪みは消えません。
それは……人と人の信頼関係も同じです。貴方が私のキャリアを『除名』という形で破壊した時、その設計図は永久に破棄したのです」
僕は、極光鳥の羽を整えながら告げた。
「それに、ここでの生活は有意義です。水の比重。染料の結合率。そしてこの静けさ。すべてが私の設計通りに回っている。混沌の極みである帝国の再建に関わるメリットは……解析の結果、零パーセントです。金で重力が買えるといいですね。さあ、帰ってください。計算の邪魔です」
その後、帝国はゆっくりと高度を下げ、北海の海原へと着水した。
幸い、重力が弱まっていたため落下速度は緩やかで、物理法則が狂いすぎて「海に浮く城」へと変わったが、かつての「浮遊帝国」としての栄華は完全に失われた。バドラスは「国家の威信を物理的に喪失させた罪」で永久追放となった。
一方、僕は。
最果ての谷で、希少な天体図を直し、谷の村人たちの傾いた水車の軸を【位相計算】で数ミリ修正しては、お礼に極上の染料の原料をもらう日々を過ごしている。
「やっぱり、設計が正しくないとね」
僕が染めた「極上の藍」は、今日も空の色よりも深く、論理的な美しさを湛えて輝いていた。
次こそは新作を書く




