10話 仮面の男再び
「ベットタイムです」
ルーレットの盤上を、ディーラーが投げ入れた純白の玉が転がって行く。テーブルに座るのは、顔の上半分を覆う仮面をつけた謎の男が一人。
どこか嘲笑うように軽快な音楽が鳴り響くなか、身なりの良い老若男女が息を潜めてその行方を見守っていた。
「最後の賭けを」
「すべてのチップを赤」
ディーラーがファイナル・ベットを促す声に、仮面の男が応えた。他に口を開く者は居ない。
増え続ける観客と裏腹に、プレイヤーはこの男だけになっていた。
球は徐々に速度を失い、ゆっくりと傾斜を下る。最後にカランと乾いた音を立て、ひとつのポケットの中に収まった。
「赤の27番」
ディーラーが微笑みながら宣言すると同時に、悲鳴とも歓声ともつかない声が周囲に響きわたった。
微動だにしない男の前に、倍に膨れ上がったチップが積み上がる。
「次のベットタイムです」
また、球が転がり始める。
数人の観客が血走った目で仮面の男を凝視するが、彼が気に留める様子は無い。
先程からずっと、この男は赤と黒のどちらかにチップを全掛けし続け、勝ち続けていた。
便乗しようとする者も居るが、常にタイム終了ギリギリに賭けるため間に合わない。
「最後の賭けを」
「すべてのチップを黒」
ルーレットにおいて赤や黒、または偶数奇数に賭けるときの倍率は最小の二倍。
しかしその予測を一度も外すことなければ、倍々に増え続けるチップの量は尋常ではない。
「黒の8番」
黒く染まったポケットの底に球が転がりこみ、ディーラーが宣言する。観客はもう声も出ない。
積み上がるチップはもはや換金すれば貴族の屋敷さえ建てられる額だ。
「……お客様。少々お話よろしいですか?」
しかし、快進撃は唐突に終わる。
当然と言えば当然。ぶ厚い観客達の輪を屈強なボディガード達によってかき分けさせた老人が、仮面の男の肩に手をかけたのだ。
老人はレオネクス国王都の地下に作られた、知る人ぞ知るこの裏カジノの支配人だった。
「はいはい、なんでも答えますよ……なんでも、ね」
こうなることがわかっていたかのように、仮面の男は抵抗することなく立ち上がる。
そして、テーブルに積み上がった大量のチップに何の未練も見せず、黒服のボディガードに連れられるまま大人しく歩いていくのだった。
◆◆◆
裏の部屋はいつも通り静寂に包まれていた。
壁も天井も防音素材で作られ、中央には漆黒のテーブルを挟んで同色の革張りのソファが置かれている。
ほんの少しでもこの場所の脅威になり得る者と『話し合い』をするのにはとても都合の良い場所だ。
最後に入室したボディガードが慣れた手つきで扉を閉めるのを確認し、支配人はにこやかに仮面の男を席に促した。
「それにしても素晴らしい快進撃でしたな。まるで球の行方が最初からわかっているかのような……一体全体、どんな奇跡を起こしたのやら」
声だけは丁寧に語りかけつつ、さて何から吐かせるかと、男を値踏みするようにねめつける支配人。
ソファの後ろでは彼を守るように、そして仮面の男が座るソファの後ろではいつでも取り押さえられるようにと、屈強なボディーガード達が目を光らせている。
「貴方達の方がよーく知ってるでしょう。あの特定の場所に磁石を仕込んだルーレット盤。それぞれエス極とエヌ極が外側になるよう埋め込んだ球を使い分けて、訓練次第である程度球の落ちる場所を操作することが出来る。たまにサクラを使って大勝ちを演出してるから、スタッフは最初俺のこともサクラだと思って確認が遅れたんですよね?」
そんな周到な包囲網をせせら笑うように、仮面の男はまったく恐れる様子もなく言い放った。
「ルーレットだけじゃない。ダイスは特定の目が出やすいように重りが仕込まれてるし、カードには特殊なレンズを通したときだけ見えるインクで目印がつけられてますね。この世界じゃ、イカサマと言えばまず魔道具を疑いますから。客のイカサマ防止である魔力絶縁素材で作られた部屋がそのままカジノ側の潔白も示しているという売り文句ですけど、見事に裏をかいていたと。しかし、タネさえわかっていれば暴くのは簡単。負けが込んでる客達が知ったら、暴動じゃ済まないですよ」
「な、なっ……!」
駆け引きも読み合いも何も無い。明け透けなその物言いに、支配人は目を白黒させるしかなかった。
「カジノがダメとは言いませんよ。こういう欲望の発散場所も必要といえば必要でしょう。でも、ちょっとやり過ぎです。負け分が払えなくて先祖代々受け継いだ形見まで手放す人も居ると聞きましたよ?」
「な、何者だ貴様っ!」
ついに取り繕うことも忘れて叫んだ支配人を、底知れない二つの黒い穴が見つめる。
「この裏カジノはお忍びで貴族も多く利用している。イカサマで金を巻き上げるのは、レオネクスの民の血税を啜るのと何が違いますか?もしこの惨状をかの十七代目が……誠実と慈愛の女王エレオノーラが見ていたら、さぞその瞳に涙を浮かべて悲しんでることでしょう……」
「……!!」
そのとき、一人のスタッフが息を切らして裏部屋に転がり込んできた。
「お、オーナー!大変です!別室に連れて行ってた、この男と結託していたと見られるディーラーが!」
「消えたんですよね?煙みたいに。何の魔道具も使えないはずの部屋で」
最後まで言葉は続けられなかった。
しかし青ざめて息を呑むスタッフの様子が、何よりもそれが真実であることを告げていた。
「わ、私達には、さる尊き方の後ろ盾が!」
「もっと上の存在が居るとしたら?この国の王族すら辿り着けない次元から、ずっと貴方達のことを見ていた」
「なっ……」
もはや、この男は単なるイカサマ師では説明がつかない。
得体の知れない何かを感じ取り、支配人は背中に冷たい汗が滲んでいくのを感じた。
「で、では、何が目的で……」
「言ったでしょう。やり過ぎだって。取りすぎた分を返して、今後真っ当に運営する分には目を瞑りますよ。さる尊き方には、最初からお目当てのものは手に入らなかったと説明すればいい。……さすれば女王も、涙を拭いて許してくれるでしょうから」
◆◆◆
銀月亭───王都にひしめく高級料亭のなかでも有数の、貴族御用達の由緒ある店。
光魔石入りの街灯がポツポツと灯りだす頃、店の前に音もなく止まった馬車からヒョロリと背の高い青年が降り立った。
彼の名はエドガー・ティグレス。レオネクス国、ティグレス公爵家の長男。
大国レオネクスに四家しかない公爵の、それも跡取り息子でありながら、その気弱さから父や姉の影に隠れるように、人々の注目から逃げるように生きてきた男。
しかし今宵、逃れようのない一枚の紙が彼をここまで導いていた。
『良い商談が有ります。本日の夜、銀月亭にてお話しをさせて頂けませんか?個室に貴方の名で予約を入れています。ティグレスを今も見守る女王にこれ以上孤独に涙を流させたくなければ、一人でお越しください』
ほんの数時間前、酷い二日酔いで目覚め青ざめたエドガーの懐にいつのまにか入れられていた手紙。しかも読み終えた瞬間、紙の端から黒い煤となって跡形も無く消えてしまった。
怪しさの塊でしかないその指示に、エドガーは従うしかない事情があった。
「よ、よよ、予約していた、ティグレ……いや、エドガー、だが……」
「ようこそいらっしゃいませ。お連れ様は既に奥でお待ちです」
「……っ!」
エドガーを出迎えた店員に案内されながら、まるで追い立てられるように店の廊下を進む。
「ごゆっくりお過ごしください」
店員によって恭しく扉を開けられた個室の中に、鉛のように重い足を踏み入れた。
エドガーの入室を確認して閉じられる扉に思わず縋るような視線を向けかけ、どうにか堪える。
「お待ちしておりました。ティグレス公爵家が長男、当主代理エドガー様」
かけられた声に、恐る恐る顔を向けた個室の中心、純白のテーブルクロスがかけられた卓の反対側。
既に席に着いていた仮面の男が、瞳の見えない二つの黒い穴の中からじっとエドガーを見つめていた。
◆◆◆
「……どうですか?悪い話では無いと思いますが」
磨き抜かれた銀食器の中、湯気を立てる料理が上質な肉汁と果実の香りを放つ。
銀月亭が誇るコース料理もメインディッシュに差し掛かった頃、仮面の男がエドガーに問いかけた。
「良いも悪いも、そんなふざけた話が……」
ホーンラビット肉のソテー、ドラゴンベリーソースがけ。
平時ならエドガーの大好物であるその香りにも、今はまったく食欲をそそられない。
「ふざけるなんてとんでもない。大真面目ですよ。光り輝く妖精女王の羽衣は必ずや一世を風靡する……」
「だからそれがふざけていると言ってるんだ!」
食事と共に始められたのは、商談とも言えぬ代物だった。
エドガーの父が治めるティグレス領産のシルクは、滑らかな手触りと美しさで『妖精の羽衣』と名高い。
仮面の男はそれを、今後田舎の伯爵領から進出するとある商会に大量に融通しろというのだ。
それを魔石を溶かした特殊な染料で染めあげ、『妖精女王の羽衣』という共同のブランド名で売り出すことを認めろと。
「魔石とは魔素の強い場所で発生し、中の魔力を消費しきれば消えてなくなるものだ。液体になるなど聞いたことがないぞ」
「だからこそ、誰も見たことが無いような素晴らしい商品になるのですよ」
「誰が信じるというんだ、そんな与太話を」
まるで雲を集めて綿菓子屋を開こうとでも言うような荒唐無稽さ。馬鹿にするなと席を立っても文句を言われる筋合いは無い。
しかしエドガーには、それが出来ない事情があった。
「与太話なんて。ティグレス家を今も見守るかの女王の目の前で、そんなこと致しません」
獲物を弄ぶ蛇のように、仮面の男が真紅に満ちたワイングラスを揺らす。
女王。今も見守る。手紙にも書かれていたその言葉が示す意味。
「お前は、どこまで知って……」
ティグレス家には、先祖代々受け継がれてきた家宝があった。
それはレオネクスの長い歴史における最古の女王にして、誠実と慈愛の治世を敷いた名君エレオノーラから、当時のティグレス家が下賜されたもの。
最高純度の水魔石とブルーダイヤが混じり合った希少さと美しさから『女王の瞳』と名付けられ、ブローチに加工されたそれは、ティグレス家の変わらぬ忠義の証として屋敷の金庫に大切に保管されていた。
エドガーが、悪い友人達から散々酒を飲ませられて酔った勢いで、成人した後継ぎだけに渡される予備の鍵を使い金庫から持ち出し、そのまま連れて行かれた裏カジノの負け分として質に取られるというとんでもない大ポカをつい十数時間前の深夜にやらかすまで。
(どうしてこんなことに……)
空になった銀の皿に、己の情けない顔が反射して見える。
内心の怯えを悟られないよう平然と食べ進めるフリをしていたが、味は殆ど感じられなかった。
「失礼します。本日のデザート、ドラゴンベリーとバジリスク卵のカスタードタルト、バニラアイス添えでございます」
タイミングを見計らうように入室した店員が、メイン皿を回収し最後の一皿をサーブした。
エドガーの好物だけで構成されたフルコースが、お前のことはすべてお見通しだという脅迫に思えてならない。
仮面の男はエドガーの過失をどこかで知り、その秘密を盾に契約を迫るつもりだろうか。
いいや、きっとそれだけではなく。
「それに、シルクの権利は父上のものだ……僕の一存で決められることでは」
「いいえ、決められます。これさえあれば」
その言葉を待っていたかのように、仮面の男が懐から小箱と、一枚の紙を取り出した。
「『女王の瞳』に見守られた、成人済みの正当な後継ぎ。貴方は十分、ティグレス家当主代理の資格を満たします」
「やはり、それが目的か……!」
樹木から安価に大量生産できる製紙業が発達して以来、特定の状況を除き殆ど見なくなった羊皮紙。
魔物の皮で作られたそれは契約の魔道具であり、それによって結ばれた契約は王族だろうと背くことは出来ない。
だからこそ成立させるには厳しい条件があり、正当な後継とはいえ父親が権利を持つ事業に関する契約をエドガーが勝手に結ぼうとしても紙に弾かれるはずなのだが。
「あ、ああ……エレオノーラ様……」
仮面の男が蓋を開けた小さな木箱の中には、最高純度の水魔石とブルーダイヤが混じり合い、まるで涙で潤んだ青い瞳のような宝石のついたブローチが布の上に鎮座していた。
後継ぎの成人と共に受け継がれてきた『女王の瞳』は、正当な後継者が所持すれば一時的に当主を代理する権限を持つ。
契約の魔法紙に弾かれることも無いだろう。
「悪魔め!何が商談だ、最初から俺を脅す気しかなかったんじゃないか!」
「人聞きが悪いですね。貴方の宝物を悪魔から取り返した側ですよ」
木箱だけを奪って逃げることは出来ないだろう。これだけ用意周到な男がその対策をしていないとは思えない。
現に二人しか居ないはずの部屋で、周囲から得体の知れない圧力を感じる。
明らかに詐欺とわかっている契約を結んだと知られたら、父にどれだけ呆れられるだろうか。財政へのダメージも計り知れない。
しかし、家宝を紛失したことが露呈したらそれこそティグレス家は終わりである。
エドガーの選択肢は最初から一つしか用意されていなかった
「さぁ、契約書にサインを。家宝を持ち出したことに対する誹りは、ほんの数ヶ月で類稀なる商談を見出した慧眼への賞賛に変わるでしょう」




