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エクリプスと黄金の断罪

作者: TEKA
掲載日:2025/11/18

ホロフェルネスは、挫折した画家だった。美大の夢は、現実という名の巨大な壁に跳ね返され、彼の才能は、自己嫌悪という名の冷たい泥の中に埋没した。アトリエとして借りた部屋の隅には、高価な油絵具やキャンバスが、自らの敗北の象徴のように積まれている。油絵具の鈍い光沢も、キャンバスの真っ白な表面も、今となっては彼の無力を嘲笑う残骸でしかなかった。彼はその痛みに背を向け、今は生活費を稼ぐための単調なカフェのバイトに、自らを閉じ込めていた。

2025年11月18日。肌寒い晩秋の午後。

彼は、店のバックヤードで無心にグラスを拭いていた。彼の心は、遠くで響く街の喧騒からも遮断されていた。その時、店内のモニターに流れていたライブ映像が、彼の視界の端を捉えた。彼の内側の鉛色とは無縁の、眩い光と、爆発的な熱狂の渦。

「すごい熱狂……」

ホロフェルネスは、グラスを置いた。画面の中の人々は、誰かのために、或いは、ある「表現」のために、あんなにも全身全霊でいる。その姿は、描くことから逃げた彼にとって、眩しすぎる異世界だった。

映像は、ある曲の終盤を迎えていた。それは、彼の心を揺さぶる、象徴的な光景となる。

<次の曲聴いて下さい。「接吻の残光」>

グループのメンバーである少女が、パフォーマンスの激しさの中で、ふいに顔を歪ませた。その瞳から大粒の涙が溢れ、激情の極みを表現しているかのようだった。その姿は、彼の脳裏に、クリムトが描いた『音楽 I』のテーマを呼び起こした。竪琴を抱く女性が象徴する、芸術の純粋な嘆きと、隠された真実。彼女の涙は、その竪琴の音色の具現化であり、音楽そのものの魂の叫びのように見えた。

「え……あの子、泣いてる!?」

次の瞬間、少女は顔を上げ、濡れた瞳で前を見据えた。その瞳には、弱さではなく、未来への強い意志の光が宿っていた。ホロフェルネスは息を呑んだ。

「すげぇ」

あんなにたくさんの人がいたのに、スポットライトを浴びたその少女だけが、異質な輝きを放っていた。それは、クリムトが『ベートーヴェン・フリーズ』で表現した、悪しき力との闘いの先に現れる「至高の幸福」へと導く、芸術のミューズのようだった。彼女の背後から放出される「黄金の光」は、あたかも音楽の最終楽章を具現化した、絶対的な存在感。

外側から見ていたはずなのに、気づけば彼の心は、その熱狂の中に立っていた。冷え切っていた感情が、その光によって焼き尽くされるような感覚。彼の心に閉じ込められていた、描くことへの衝動が、抑圧的な扉を叩き始めた。

彼女の名は、ユディト。

「あなただけの存在になりたい」 ユディト、です!

ホロフェルネスは、この日以来、ユディトの熱心なファン、サロメとなった。ユディトは、彼の人生に、失われた色彩と、再び描くことへの衝動を取り戻させる「断罪者」となったのだ。彼女は、彼が恐れ、逃げ出した「真の芸術」の体現者だった。

彼女は、恋人でも、家族でも、友達でもない。しかし、紛れもなく、彼の「心に要る、特別な たった一人の人」だった。ユディトの光は、彼の中の画家を、再び目覚めさせる「レクイエム(鎮魂歌)」となった。



サロメは、ライブに通い詰め、特典会にも参加した。ユディトとの交流は、彼にとってかけがえのない時間だったが、彼の口から出る言葉は、いつも決まっていた。

「ユディト……今日もすっごい良かった……!」

その言葉は、彼の心の内で渦巻く、複雑な感動や、ユディトの表現の細部に対する賛辞を、何一つ伝えられていなかった。

「本当?ありがとう〜!今日はね、中盤の静かなメロディの部分、感情の波の表現をいつもより深く、優しくしてみたの」 「うん」 「あとね、終盤のクライマックスで手を伸ばすポーズを、いつもよりこう、指の先まで『願い』を込めて」 「うん、そこ、光が宿っていた……!」

「サロメ、出会って3ヶ月。いつもありがとう」

特典会を終えた後、サロメは独りでドリンクバーの隅に座り込んだ。

「ハァ……特典会でもっと、感想とかちゃんと、描くように言えるようになりてぇ」 「ユディトを前にすると、『よかった』しか言えん……くよくよ……」

彼の内なる声がささやいた。「お前は、絵描きだったじゃないか」

「あれは?ファンアート描くとか。絵ぇ上手かったじゃん、中学の時も」

サロメは一瞬、顔を伏せた。美大受験の挫折が、重い鎖のように彼の足元に絡みついた。

「描くことの苦痛に、耐えられるのか?」

「まずはまともに目見れるようになれ」と、彼は自らに言い聞かせた。

彼は、自分の中の画家を、ユディトによって斬首されなければならないことを、無意識に悟っていた。



家に帰った後も、特典会で言葉にできなかった「表現の飢餓」がサロメを突き動かした。

今日のライブで最も印象的だったのは、「接吻の残光」の、クライマックスに向かう最も静かな場面だった。ユディトが、ステージの前に出てきた瞬間の光景が、彼の脳裏に焼き付いていた。

照明が逆光になり、ユディトの髪は、まるで細い糸のように透けて見えた。その全身の輪郭は、光の縁取りによって、異様なまでの神聖さを帯びていた。

それを「良かった」という薄っぺらな言葉で終わらせてはいけない。もっと深く、あの時の感情を、視覚を、すべてを具現化しなければ。

ホロフェルネスは、埃を払って画材を広げた。積んでいた画材に触れるのは、数年ぶりだった。

彼は、この時のユディトを、クリムトの作品『ダナエ』のように、背景に渦巻く金色のパターンの中に、光を浴びた肉体を描き入れた。ユディトのパフォーマンスの光が、彼に「描く衝動」を再び受胎させたのだ。

彼の描くユディトの顔は、クリムトの描く女性の肌のような白磁の色ではなく、躍動感のある、生の血の色。逆光で光る髪の毛。瞳はまっすぐ……前を見ている。

「あー、好きだなぁ……」

彼の描く手は止まらなかった。過去の苦痛も、挫折の記憶も、すべてがユディトという光によって昇華されていく。彼は、好きな女の子の絵を描いているのではなく、彼自身の魂の再生を試みていた。

彼は、完成した絵を撮影し、特定のアート投稿サイトに投稿した。

タイトル:『接吻の残光』—至高の瞬間を永遠に。 本文:外側から見ていたはずなのに、気づけばそこに立っていた。ユディトさんのパフォーマンスに、再び筆を握る勇気をいただきました。


翌日の特典会。ユディトは、彼のファンアートを見てくれていた。

「ねぇっ、見たよ、サロメ!ありがとう!」 「あ、よかった……」

彼はまた「よかった」としか言えなかったが、その声には、確かな喜びが滲んでいた。

「あんなに絵が上手なんだね!びっくりした。すぐ保存したよ!」

そして、彼の人生を決定的に変える言葉を口にした。

「絵を見てたらね。うん。サロメから見た私って、こんな風なんだ……って、すごく綺麗に見えるんだって思えて、嬉しかった」

「……!」

彼が最も純粋な情熱を捧げる、ユディト本人の言葉だった。過去に他人との比較で「才能がない」と断罪された彼にとって、この「すごく綺麗」という言葉は、彼の中に再び灯った、黄金の炎だった。

「良かったらまた描いてほしいな」 「え……また?」 「うん!その日いちばん心に残った私。そうだなぁ……『今日のユディト』ってタイトルで、あのサイトにまた描いてくれる?」 「……わかった!」

それから、彼の人生は一変した。描くことの苦痛は消え、ただただ楽しかった。ユディトは、彼に色んな光景を見せてくれた。それを描き留める日々は、楽しくて、楽しくて、楽しかった。彼の絵は、サイトを通じて現場のファンたちにも広まっていった。


ある日の特典会で、ユディトはさらに驚くべきことを打ち明けた。

「ね、今日もライブ前に、サロメの絵、見たよ」 「!? え……!? 今日も?」

「あれ、言ってなかったっけ。サロメの描いてくれた私はすごく綺麗だから、ライブ前に絵を見て、目を閉じて想像するの。今日も上手くいきますように、って」

お守りみたいに。

ホロフェルネスの喉の奥が詰まった。彼の絵が、ユディトという特別な存在のパフォーマンスを支える一端になっている。

「それなら、よかった……」

実家に帰省した夜。

久しぶりに帰ってきたホロフェルネスに、母親は言った。 「遊ぶのもいーけど、予備校辞めたなら、次どうするか早く決めてね」

母親の言葉が重く響く。だが、彼はもううつむかなかった。

「……うん、わかってる」

描くことが好きで、楽しくて、これだけを頼りに家を出た。一度は諦めた。だが、ユディトは、その挫折という名の過去の自分を、断罪してくれた。

あんなに苦しかったのに、今は描くことが楽しい。彼の絵は、ユディトの美しさ、生命力、そして彼女の芸術を永遠に留めるための、彼独自の「現場」となった。

「今なら、自分にはこれしかない、って。思っても良いかなぁ……」

サロメは、再び画家の道を歩み始めた。彼の描くユディトは、常に強い眼差しを持ち、金色に輝き、生命力に満ちていた。それは、彼がユディトの中に見た、クリムトの描く生命と死のテーマそのものだった。


そして、運命は、彼らの関係を、さらに劇的な領域へと導いた。

ユディトの卒業が発表されたのだ。

「あなただけの存在でいさせてくれて、本当にありがとう」

卒業公演の日。サロメは、ステージから最も遠い席で、最初で最後、最高傑作となる絵を、その場で描いていた。筆は、彼の心の臓から直接繋がっているかのように、迷いなく動いた。彼は、この日のために、過去の自分と決着をつけるために、筆を握っていた。

フィナーレ。ユディトは、黄金の光の中で、一人、ステージの前に立った。涙を流しながら、彼女は「接吻の残光」を歌い始めた。そのパフォーマンスは、出会ったあの日、彼がモニター越しに見た姿と同じ、しかし、何倍も強く、深く、感情のすべてを込めたものだった。

その時、サロメの心の中で、彼の過去のホロフェルネス(挫折した自分)は、完全に息絶えた。ユディトの光が、彼の中の弱さ、逃げた過去を、容赦なく断ち切ったのだ。

彼は、ライブ後に、ユディトの楽屋へと向かった。ユディトと二人きりになったとき、サロメは、まだ筆が乾ききっていないその絵を、ユディトに差し出した。

それは、ユディトの描く「黄金のユディト」ではなく、ユディトが、過去のホロフェルネス(挫折と絶望の象徴)を断ち切った後、その頭部を掲げる姿を描いたものだった。

絵画の主題は、『ホロフェルネスの斬首後のユディト』。

ユディトは、息を飲んだ。彼女の顔には、この絵の衝撃が、一瞬で広がる。

「サロメ、これは……」

「これは、俺の……俺の過去だ。あなたが、俺の中の『描くことを辞めたホロフェルネス』を、断ち切ってくれた。あなたがいなかったら、俺はあの暗闇に閉じ込められたままだった」

サロメは、目を潤ませながら、まっすぐユディトを見つめた。彼の表情は、画家に、そして一人の表現者に再生していた。

「ユディト。あなたは、俺の人生の救済者、断罪者だ。描く喜びを教えてくれて、本当にありがとう」

ユディトは、その絵を震える手で受け取った。そして、深く、深く、息を吸い込んだ。

彼女は、絵の中のホロフェルネスの首に手を重ねた。その首は、絶望に満ちた過去のサロメの表情をしていた。そして、そのまま目を閉じた。

「サロメ……」

ユディトは、その絵の中の首を抱きしめるように、静かに、優しく、絵を胸に抱いた。まるで、過去の苦痛と、それによってもたらされた未来の光を、すべて受け入れるかのように。

「この光景を、私は、一生忘れない。私の、お守りだから。ありがとう、サロメ」

その瞬間、ホロフェルネスは、自分が描くことを諦めなかったこと、ユディトに出会えたこと、そのすべてが、この一瞬のためにあったのだと悟った。

彼は、ユディトという名の光によって、完全に再生した。


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