沈黙の時計草
盛夏の午後遅く、「香月」の店先には、蝉時雨が降り注いでいた。
西陽は傾き、木格子を透かして橙色の光を注ぎ、並ぶ花々を金色に染めている。
棚に置かれた花瓶の中では、白く凛とした時計草の蕾が、まだ固く閉じたまま静かに息を潜めていた。
銀の糸のような髪を肩に流し、薄水色の着物を纏った篠原咲は、水差しを持った手を止めた。
次の瞬間、戸を叩く硬い音が、蝉の声を押し分けるように店内へ響いた。
暖簾を押し分けて入ってきたのは、一人の青年。
三谷翔太。
両手には、小さな木箱を抱きしめていた。
その瞳は赤く濁り、何日も眠っていないことを物語っている。
木箱を差し出すとき、彼の指は震えていた。
それを受け取る咲の手は、夏の夕暮れの空気とは対照的に、静かな温もりを帯びていた。
あたかも、すでに失われたものを慰めるように。
「……妹の声を、もう一度だけ聞かせてください」
その言葉は、張り裂けそうな祈りだった。
咲は木箱を胸に抱き、深く頷く。
「花が咲くには、少しだけ時間がかかります。
言葉というのは、残すよりも、咲かせるほうがずっと難しいのです。
あなたの想いが届くように——一週間後、もう一度お越しください」
翔太は小さくうなずき、唇を噛み締めた。
その目の奥には、失った日々を取り戻そうとする切実な願いが宿っていた。
思い出の夏
翔太の脳裏に、妹・美佳との夏の思い出がよみがえる。
まだ美佳が小学生だった頃。
町の夏祭りの日、浴衣に着替えた彼女は嬉しそうに下駄を鳴らし、翔太の手をしっかりと握って歩いた。
提灯の灯りが夜空を赤や橙に染め、祭囃子が賑やかに響く。
「お兄ちゃん、りんご飴! こっち見て!」
無邪気な声に引かれるまま、翔太は人混みをかき分けて屋台の前に立つ。
赤く光る飴玉を口にした美佳は、頬を赤らめながら「おいしい!」と笑い、袖をひらひらと揺らした。
金魚すくいにも挑戦した。
美佳の小さな手が紙のポイを震わせ、水面に映る金魚を追う。
「あっ、破れちゃった!」と泣きそうになる彼女に、翔太はそっと代わって金魚をすくい上げた。
小さな袋の中で泳ぐ金魚を見て、美佳はぱっと笑顔を取り戻し、「やっぱりお兄ちゃんってすごい」と声を弾ませた。
帰り道、夜風に吹かれながら二人並んで歩く。
美佳は袋の中の金魚を大事そうに抱え、
「大事に育てるね。ありがとうお兄ちゃん」
その言葉に、翔太はただ「楽しみだな」と返し、妹の頭を優しく撫でた。
——あの時の灯籠の光も、金魚の尾の赤も、すべてが今も鮮やかに心に残っている。
妹は自分にとって、何よりも大切な存在だった。
その笑顔を守ることこそが、自分の役目だと信じていた。
だが、その光は突然、奪われた。
約束の日。
夕暮れの「香月」には、赤く燃えるような西陽が差し込み、蝉の声がなお一層強く響いていた。
店先の風鈴が涼やかに鳴り、夏の空気を震わせる。
棚に並ぶ花々の中で、時計草の蕾だけが固く閉じ、じっとその時を待っていた。
翔太が再び暖簾をくぐる。
咲は深く会釈し、静かに彼を花の前へと導いた。
やがて蕾は震え、白と紫の花弁を広げていく。
その中心から、澄んだ声がこぼれた。
「……お兄ちゃん」
翔太は胸を押さえ、堪えきれずに膝をついた。
それは、もう二度と聞けないはずの美佳の声だった。
「ごめんね……心配ばかりかけて……でも、どうしても言えなかったの」
花弁は揺れ、夏の夕暮れの空気に甘やかな香りを放った。
「私、美術部で……先輩に憧れてたの。絵を描く姿が素敵で……ずっと見てるだけでよかったの。
でも、私が展覧会で賞をもらったとき、先輩は笑ってくれなかった。
“君なんかに負けるはずがない”って、冷たく言われたの……」
翔太は息を呑む。妹の夢と恋心が、嫉妬で汚されていったのだ。
「それだけじゃなかった……美術の先生に、毎日呼び出されて……
“特別に教えてやる”って言いながら、肩に触れたり、耳元で囁いてきたり……
断ったら、“お前の秘密をばらすぞ”って脅された……」
花弁がさらに強く震え、紫の影が揺れた。
「そして……屋上に呼び出されたの。先輩から“話したいことがある”って言われて……。
私は信じて行ったのに、そこにいたのは先生で……。
先輩も先生の側に立って、“黙っていてくれ、君がいると俺の居場所がなくなる”って言ったの」
声は震え、花弁が一層大きく揺れた。
「先輩は……本当は優しい人だった。私を傷つけたくなかったはずなのに……。
でも先生に“お前も共犯だろう”って脅されて、逃げられなくなって……。
私に嫉妬もしてたし、怖くて逆らえなくて……だから裏切ったの」
翔太の胸が焼けるように痛んだ。
「二人に腕を掴まれて、乱暴されそうになって……私は必死で抵抗した。
“やめて”って叫んだら、先輩が顔を歪めて、“お前が悪いんだ”って突き放したの……」
花の中心がひときわ強く光り、店内を白紫の光で包み込んだ。
「空が……逆さまになって……お兄ちゃん……助けてって呼んだ……」
翔太の瞳から溢れ出した涙が、花弁に落ちて揺れた。
「——お兄ちゃん。
私ね、どんなときも、お兄ちゃんが世界で一番の大切だよ。
夏祭りで金魚をすくって、二人で笑い転げた夜。
りんご飴を半分こしてくれた手の温もり。
ずっと……私にとってお兄ちゃんは、世界で一番の味方だったよ」
声が涙ににじみながら、なおも続いた。
「絵を褒めてくれたとき、私、すごく嬉しかった。
“お前はすごい”って言ってくれる言葉が、どんな賞よりも力になった。
だから私は、どんなに怖くても歩けたんだよ。
お兄ちゃんがいたから……笑って生きてこられたんだ」
翔太は嗚咽をこらえられず、花鉢を抱くようにして身を震わせた。
「もし生まれ変われるなら、またお兄ちゃんの妹になりたい。
だって私の一番の誇りは、お兄ちゃんの妹でいられたことだから」
花の光はやわらかに揺れ、最後の言葉を届けた。
「お兄ちゃん……私のことより自分を大切に生きてね。
立ち止まらないで。
お兄ちゃんが生きてくれることが、私の願いだから」
やがて声は静かに薄れ、花は淡く透けるように閉じていった。
残されたのは、涙と香り、そして心に深く刻まれた妹の想いだった。
——翔太は両手で顔を覆い、声にならない叫びを押し殺した。
胸の奥に突き刺さる痛みが、全身を震わせる。
「……美佳……」
やがて彼は嗚咽の中で顔を上げ、涙で濡れた瞳に確かな光を宿した。
「必ず……必ず守る。
お前が苦しんだことも、奪われた夢も、全部明らかにしてみせる。
そして……お前の誇りに恥じない兄でいる。
だから、見ていてくれ……美佳」
翔太の震える声は、まだ漂う時計草の香りと共に、静かな誓いとなって宙へ溶けていった。
花が静かに閉じ、店内に沈黙が訪れた。
残されたのは翔太の涙と、淡く残る時計草の香りだけだった。
それからの日々、翔太は妹の声に背を押されるように動いた。
美佳の携帯を必死に探し出し、破損した画面の奥から、決定的な証拠を見つけたのだ。
そこには教師とのやり取りが記録されていた。
「言うことを聞かなければ、秘密をばらす」
「お前がいなくなれば、彼は自由になる」
恐怖を煽る文言と共に、美佳の動揺した返信が残されていた。
さらに、先輩との通話記録も発見され、二人が示し合わせていたことが浮かび上がった。
翔太は震える手で携帯を警察に差し出した。
最初は渋っていた捜査も、証拠と証言が重なり、やがて事態は大きく動いた。
——夏の終わり。
教師は警察に連行され、学校からは懲戒免職の処分が下された。
先輩も事情聴取を受け、共犯として裁きを受けることとなった。
新聞は大きく報じた。
「名門校教師によるセクハラと脅迫事件」「女子生徒転落死の真相」
世間の糾弾の中で、隠されていた真実はようやく明るみに出たのだった。
翔太はその記事を握りしめながら、泣き笑いのような表情で呟いた。
「美佳……お前の声を、無駄にはしなかった」
——
その夜、「香月」に翔太は再び現れた。
咲の前で深く頭を下げる。
「……妹の声を、聞かせてくれて……本当にありがとう」
その姿は、涙で濡れながらも確かな決意を宿していた。
咲は静かに首を振り、柔らかな声で答える。
「花が咲いたのは……翔太さんの想いが届いたからです。
美佳さんは、最後までお兄さんを信じて大切に思っていました」
翔太は深く頷き、花屋を後にした。
扉の鈴が鳴り止んだ後も、咲の胸には痛みが残った。
棚の奥。
そこには、まだ咲かぬ湊翔の蕾が、深い眠りに沈んでいた。
時計草の「受難」という花言葉が、咲の心を締めつける。
「兄さん……あなたも、誰かに苦しめられていたの?」
咲の指先が鉢に触れた瞬間、微かな震えが伝わる。
それはまるで、沈黙の奥から訴えかけるような気配だった。
——背後で、鈴の音が静かに響く。
振り返ると、そこには怜央が立っていた。
その瞳には、深い影と、抑えきれない思いが宿っていた。
咲は小さく微笑もうとしたが、声は震えていた。
「怜央……兄さんの花は、まだ咲かないの」
怜央はしばらく沈黙し、やがて低く呟いた。
「……兄さんは、咲姉を守ろうとしていたんだ。
だからこそ、あんなにも無理をして……」
その言葉に、咲の胸は強く締めつけられる。
「守ろうとしていた」——その意味を、まだ彼女は理解できていなかった。
けれど、確かなのは。
湊翔の死の奥にもまた、受難の影が潜んでいるということ。
咲は閉じられた蕾を見つめ、胸の奥に重い予感を抱きしめた。
店内には、時計草の香りと蝉の声が、なおも残響のように響いていた。