散華する白百合
夏の夕暮れの「香月」は、静かな祈りのように花々を抱いていた。
西陽に照らされた白百合は純白を際立たせ、桔梗は紫を深く沈ませ、菊は黄金の花弁を揺らしている。
花瓶の水面は光を受けて煌めき、障子や木棚に淡い模様を映していた。
銀の糸のような髪を肩から背へと流し、淡い色の着物を纏った篠原咲は、花瓶の水を替えながらその光景を見つめていた。
彼女の姿は確かにそこにあるのに、ふと目を離せば、輪郭がかすんで消えてしまいそうだった。
そのとき、戸を叩く音が夕暮れの静けさを破った。
暖簾を押し分けて現れたのは、黒い傘を手にした老夫婦。
母は喪服に身を包み、泣き腫らした瞼を伏せている。
両手には、小さな木箱が抱えられていた。
父は帽子を胸に抱きしめ、背を丸めたまま深々と頭を下げた。
夕陽に伸びる二人の影は細く震え、……折れてしまいそうだった。
母は震える手で白布に包まれた小箱を差し出す。
その中には、娘・佐伯美緒の遺灰が収められている。
「……娘の声を、どうか、もう一度だけ聞かせてほしいのです」
その言葉は、張り裂けそうな願いが滲んでいた。
咲は静かに受け取り、胸の前にそっと抱いた。
まるで幼子をあやすように、銀の髪がやわらかに揺れた。
「花が咲くには、少しだけ時間がかかります。
言葉というのは、残すよりも、咲かせるほうがずっと難しいのです。
あなたの想いが届くように——一週間後、もう一度お越しください」
老夫婦は互いに支え合い、深く頭を垂れた。
暖簾が静かに揺れ、夕暮れの店内は花の香りに包まれていた。
ーーーー
母は娘・美緒の部屋に足を踏み入れた。
机の上にはスケッチブックが開かれたまま。そこには描きかけの白百合があり、色鉛筆が無造作に転がっていた。
——時が止まったように、そこには彼女の気配が残っていた。
母の脳裏には、美緒の幼い頃の声が甦った。
「お母さん、白百合ってね、花嫁さんの花なんだって」
まだ幼かった日の、あの無邪気な声が蘇る
美緒は遅くに授かった子で、夫婦にとっては待ち望んだ奇跡だった。
だからこそ、どんな瞬間も愛おしく、細心の注意を払って育ててきた。
その無邪気な笑顔に、母は「きっといつかは」と、娘の未来を思い描いた。
あのときから白百合は、美緒の象徴になった。
母はその笑顔を見つめながら、「この子もいつか大人になって、誰かに愛される日が来るのだろう」と、胸の奥でそっと喜んだ。
美大に入ってからの美緒は、地元の病院で経理補助のアルバイトを始めた。
帰宅は遅くなり、食卓での笑顔にはどこか影が差していたが、美緒は母にだけは小さな秘密を打ち明けた。
「バイト先にね、ちょっと素敵な人がいるの」
その頬の赤らみを、母は見逃さなかった。
母は驚きながらも、心の奥では喜びを覚えた。
娘が大人になっていくことを嬉しく思いながら、心の奥で、もっと詳しく聞きたかったが、
けれど、問い詰めることはしなかった。娘が語りたいときに語ればいい、と母は信じたのだ。
——けれど、娘から詳しく聞かなかったことを、今になって重くのしかかってくる。
一方、父には別の後悔がある。
仕事に追われ、娘と過ごす時間をほとんど持てなかった。
運動会にもろくに顔を出せず、家に帰れば疲れ切って「勉強はどうだ」の一言で会話を終わらせてしまった。
「……もっと、一緒にいる時間をつくってやればよかった」
彼は押し入れの奥から取り出した古い作文帳を見つめ、唇を震わせた。
《将来はお花屋さんになりたい。お父さんとお母さんにお花を贈るの》
幼い字が、父の心を深く抉った。
事故の日の朝、美緒は白いワンピースに袖を通し、鏡の前で髪を整えていた。
「今日は遅くなるから、ご飯はいらないよ」
母はその頬に灯る赤みに気づき、娘の恋を察した。
父も、胸の奥でそっと目を細めた。
——幸せそうだ、ならそれでいい。そう言い聞かせて、何も尋ねなかった。
だが、それが最後の姿になった。
ーーー
約束の日、再び「香月」に柔らかな橙の光が差し込んでいた。
西の空は茜から群青へとゆるやかに溶けてゆき、店先に吊るされた風鈴が、かすかな風に応えるように涼やかに鳴った。
棚に並ぶ花々は一週間のあいだにすっかり姿を変え、白百合の蕾だけが固く閉じたまま、深い緑の葉に抱かれていた。
暖簾がそっと揺れ、静かな足音が近づく。
姿を現したのは、あの日と同じ老夫婦だった。
母の瞳はまだ赤く潤んでいたが、その奥には決意の色が宿っている。
父は背筋を伸ばそうとしながらも、その肩は重みに耐えるように小刻みに震えていた。
咲は花器を拭いていた手を止め、静かに会釈する。
「お待ちしておりました」
老夫婦は黙って頷き、花に満ちた店内へと歩みを進めた。
その足取りはゆっくりだが、確かなものだった。
彼らの胸の奥には、娘の声を再び聴きたいという一心だけが燃えているように見えた。
やがて白百合は、ゆっくりと花弁を開いた。
その中心から、かすかな声が漏れ出す。
「……お母さん……お父さん……」
美緒の声だった。
母は花に顔を寄せ、父は震える手で花鉢を抱きしめた。
「ありがとう。私を生んでくれて、育ててくれて……心から感謝してる。
二人がいてくれたから、私はずっと幸せだったよ」
母の目から涙があふれ、父は唇を噛んで頷いた。
「覚えてる? 小さい頃、公園でシャボン玉を追いかけたこと。
すぐに風に消えちゃったのに、二人で笑いながら走って……
お母さんのお弁当も、本当に大好きだった。
あの頃の時間が、私にとって一番の宝物だったの」
父母の脳裏に、あの柔らかな日差しと笑い声が蘇る。
しかしそこで、美緒の声は途切れた。
言葉を飲み込むように沈黙し、花弁が小さく揺れるばかり。
まるで何かを語ることを恐れているかのようだった。
母が嗚咽混じりに声を絞り出す。
「美緒……お願い。あなたに何があったのか、教えて」
父もまた、必死に花へ語りかけた。
「お前を守れなかった俺たちに……せめて、あの日、何があったのか聞かせてくれ」
白百合の花弁がひときわ強く開き、芳香を漂わせる。
美緒の声が、ようやく重く口を開いた。
「……アルバイト先の経理で、不正なお金の流れを見つけたの。
帳簿に……おかしな数字があった。新薬のリベート、主任と……院長の息子が関わってた」
「……それでなのかな……、主任に目をつけられて……、
少しのミスでも大声で責められた……“仕事が遅い”“役に立たない”ってみんなの前で笑われた。
机を叩かれたり、書類を突き返されたり……毎日が苦しかった」
「でも……そんな私を庇ってくれる人がいたの。
……主任に怒鳴られたとき、“彼女のせいじゃありません”って助けてくれて。
“気にするな、大丈夫だよ”って笑って……その優しさに、私は何度も救われた。
だから……その人を好きになってしまったんだと思う」
母は泣きながらも微笑み、父は唇を噛んだ。
「そのことを、学校の友達にだけは勇気を出して相談したの。
友達から“証拠は必ず残しておきなさい。誰にも消されないように”って言われて……」
母の嗚咽が激しくなり、父の頬にも涙が伝った。
「“食事に行こう”って誘われて、私は疑わなかった……。
胸がいっぱいで、幸せで……」
「でも……真実を知ってしまった。
その人と主任は、本当は深く繋がっていて、横領に加担していたの……
私が知ったから……もう、逃げられないと思ったの」
花弁が強く揺れ、白い光が一瞬店を満たした。
声は震え、しかしはっきりと続いた。
「……川辺に連れて行かれて……
事故に見せかけるように、背中を押されて」
母は泣き崩れ、父は低く「許さない……」と繰り返した。
「……証拠は残してあるから……必ず見つけて」
最後に、美緒の声はやわらかく微笑むように響いた。
「ありがとう……おとうさん、お母さん、大好きだよ」
美緒の声がやわらかに響き、やがて静かに消えていった。
その瞬間、白百合の花弁がふるりと震え、光を帯びるように淡く揺らいだ。
母が慌てて花を抱き寄せたとき、花はすでに儚い光を残しながら透明にほどけていく。
白い花弁は一片ずつ空気に溶けるように消え、香りだけが店内に残った。
父母は涙に濡れたまま、その消えてゆく光景を見つめた。
娘の声と共に咲いた花は、役目を終えて静かに姿を消したのだ。
それはまるで、美緒が「もう大丈夫」と言い残し、静かに旅立っていったようだった。
咲はそっと目を伏せ、両親の前で消えた花の鉢を抱きしめた。
「言葉は残せません。けれど、心に咲いたものは……決して消えません」
店内には、花が消えたあともなお、甘やかな白百合の香りが満ちていた。
ーーーー
父と母はその後病院に繰り返し出向き、必死に訴えた。
「娘は、不正を告発しようとして命を奪われたのです。どうか、調べてください」
最初、病院は冷たく突き放した。
「根拠のない言いがかりだ」「亡くなった人をこれ以上……」と。
それでも夫婦は諦めず、病院へ出向き、記者に手紙を書き、警察へ繰り返し訴えた。
最初は門前払いを受けたが、自宅PCから見つかったデータが事態を覆した。
そこには主任と「院長の息子」による不正経理の記録、やり取りのメールが残されていた。
パソコンに残された証拠により、主任とその息子による不正経理と、その共謀を裏付ける証拠となった。
決定的な証拠を前に、警察は二人を逮捕した。
新聞は大きく報じた。
「大病院におけるリベート横領事件」「院長の息子らを逮捕」
世間は病院を厳しく糾弾し、院長も職を辞すことになった。
藤村美緒の名誉は回復され、彼女の告発は「正義の声」として刻まれた。
二人はすべてを失い、逃げ場のない裁きの座に立たされた。
判決の日、夫婦は法廷で涙を流しながらも、娘の声に背を押されるように証言した。
「私たちの娘は、正しいことをしようとしただけなのです」
その誇らしい言葉は、傍聴席の人々の胸を打った。
すべてが終わったあと、二人は再び「香月」を訪れ、咲に深々と頭を下げた。
「美緒の声を聞かせてくださって……あの子の願いを叶える力を与えてくださって、
本当にありがとうございました」
ーーー
店の灯を落とした「香月」に、白百合の香りが濃く満ちていた。
咲は、棚に置かれた まだ咲かぬ湊翔の蕾を見つめ、胸の奥に不安を抱いた。
「まだ咲かない花……これは、どういう意味なのだろう」
ふいに胸裏に甦るのは、義兄・篠原湊翔の姿だった。
かつて心臓病で何度も入院していた兄は、移植手術を受けてからは不思議なほど元気を取り戻し、少年のような笑みを浮かべていた。
「咲が来ると、心臓が本当に楽になる」
幼い自分にそう言ってくれた兄の声が、今も耳に残っている。
だが、兄はその後、父と同じ刑事となった。
厳しい任務に身を投じ、無理を重ねていた。
咲はただ「刑事」という仕事だとだけ聞かされていた。
その裏に、もっと深い闇があることを、当時の咲は知らなかった。
やがて勤務中に心臓発作を起こし、緊急入院となった。
医師からは「安静が必要」と告げられていたのに、兄は完全に回復しないまま外出し、そして「事故」に巻き込まれて帰らぬ人となった。
その報せは突然で、咲の心に深い影を落とした。
——あれは本当に事故だったのか。
兄が抱えていたものは、なんだったのか。
咲はまだ咲かない花鉢を見つめ、唇から小さな囁きをこぼす。
「兄さん……あの日のこと、私はまだ知らない。けれど……」
その背後に静かな気配が立った。
義弟・橘怜央が、迷いを抱えた眼差しで咲を見つめていた。
「……咲姉、大丈夫か」
声には確かな温もりがあったが、その奥に押し殺した感情の翳りが潜んでいた。
咲は微笑みを返したが、その胸の奥には、言葉にできないざわめきが広がっていた。
美緒の事件が告げた「不正」と「裏切り」。
その影が、湊翔の死の秘密へと続いているのではないか——
咲の心に、冷たい予感が広がっていった。