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骨花〜最後の言葉〜  作者: 紫苑 雫
花は想いを伝える
2/4

白い椿の咲く夜

雨の夜、古びた商店街の奥で、一枚の扉が小さく鈴を鳴らした。

湿った夜気と共に、濡れた傘を手にした男が花屋へと足を踏み入れる。


両手には、小さな木箱が抱かれていた。

その中には、恋人――藤村結衣の遺灰が納められている。


失われた命の証を握りしめる指は、雨よりも冷たく震えていた。

滝沢蓮は声を震わせ、カウンターの奥に立つ咲へ訴えた。


「……どうしても、結衣の声を、もう一度だけ聞きたいんです」


その一言は、押し殺してきた想いの切れ端だった。

愛する人を失った痛み。真相を闇に閉ざされた無念。そして、どうしても確かめたいという焦燥。


咲は静かに頷き、蓮の腕から木箱をそっと受け取る。

その手は、悲しみに震える心をも包み込むように温かかった。


蓮は唇を噛み、うつむいた。


胸の奥に、幼馴染として過ごした日々が浮かぶ。

友達から恋人へと変わっていった時間を。


彼は顔を上げ、深く頷いた。


「……結衣のすべてを、知りたい」


咲は静かに目を細める。


「花が咲くには、少しだけ時間がかかります。

 言葉というのは、残すよりも、咲かせるほうがずっと難しいのです。

 あなたの想いが届くように——

 一週間後、もう一度お越しください」


その夜、蓮の胸に芽生えたのは、待つためのわずかな希望と、真実を知るための決意だった。


ーーー


小さな木箱に収められた結衣の遺灰が、淡い灯りに照らされて、かすかに銀色に光を反射している。

咲は深く息を整え、掌に力を込めず、そっと箱を開いた。


指先で微かに灰をかき分け、慎重に探す。

そして見つけたのは、

小さく、滑らかで、喉の奥にある声の器官、仏となったことを示すかのように形を留めていた。

咲はそれを手に取り、掌の上で静かに光を感じる。


空気は一瞬、柔らかく震え、まるで時間の流れが緩やかに揺らいだかのように感じられた。


陶磁器の鉢に手をかざす。


掌から零れる光が土に落ち、鉢の中で眠る蕾をそっと揺らす。

土は微かに温かく震え、雨上がりの湿った匂いと土の香りが混ざり合った。

咲は結依のそれをゆっくりと土に沈める。


「ここに、結衣さんの想いを宿します……安心して。必ず思うは伝えられる」


光が土の上で淡く揺れ、蕾はまだ硬く閉ざされたまま。それでも、確かに小さな生命の鼓動が宿っていることを告げていた。


ーーー


蓮と結衣は、小さい頃から同じ町で育った幼馴染だった。

夏の夕暮れ、公園の砂場や川辺で遊んだ日々の記憶は、二人にとってかけがえのない宝物だった。


蓮の胸に浮かぶのは、結衣と過ごした懐かしい日々だった。


兄のように面倒を見てくれる蓮に、結衣はいつも小さな手を伸ばしてついてきた。

泣き虫だった彼女が笑顔を取り戻すたび、蓮の胸には守りたいという思いが積もっていった。


結衣が高校生になったある日、二人は花火大会で手をつなぎながら歩いた。


「ずっと一緒にいたい……」


その言葉が自然に交わされ、幼馴染だった関係は、恋人へと変わった。

結衣の小さな手を握りながら、初めて心の底から安心したのを覚えている。


「私ね、いつか温かい家庭を作りたいの」


結衣は帰り道でそう言った。


「お母さんひとりで頑張ってくれたから……私も、支え合える人と生きていきたいの」


少し背伸びをするような言葉に、蓮は胸を打たれた。

母子家庭で育ちながらも、結衣は誰よりも優しく、努力家で、未来を諦めなかった。


やがて蓮は社会人になり、結衣は大学生へ。

離れる時間は増えたが、彼女は小さなカフェでアルバイトをしながら学業と生活を支え、蓮を待つ時間を愛おしそうに語った。


「蓮くんが来てくれると、全部が頑張れる気がするんだ」


「俺も……結衣がいるから、仕事を続けていける」


年下の彼女は少し幼さを残しながらも、蓮の前ではしっかりと未来を夢見ていた。


そんなある日、会社の親睦会に、大学生の結衣を伴って参加することになった。

その場で結衣は、蓮の同僚の黒川花音と初めて顔を合わせる。

蓮は結衣の手を取りながら笑顔で話しかけた。


「結衣、せっかくだから、同僚の黒川さんとも話してみたらどうかな。女性同士、話が合うでしょう。何か困ったことがあったら相談すればいい」


結衣は微かにうなずくものの、心の奥で小さな不安を抱えていた。


花音は表向きは笑顔で接し、蓮の仕事を気遣う優しい女性のように振る舞う。

だがその視線は、無意識のうちに結衣の存在を意識させ、蓮に対する独占心の片鱗を滲ませていた。


蓮は結衣の肩にそっと手を置き、安心させるように微笑む。


「大丈夫だよ、結衣」


その言葉に、結衣は頷きながらも、どこか気を張ったまま、花音との会話に臨むのだった。


ーーー


思い返すと、親睦会のあの夜から、結衣の様子は少しずつ変わり始めていた。

あの日までは、無邪気に笑い、些細なことで楽しそうに喜ぶ姿が日常だった。


しかし親睦会の翌日から、彼女の笑顔はどこかぎこちなく、授業やアルバイトの合間にはため息をつくことが増えた。

肩の力が抜けきらず、心ここにあらずのような影が漂っていた。


蓮はその変化に気づき、心配しながら声をかける。


「結衣、大丈夫か?」


結衣はかすかに微笑む。


「うん、大丈夫……」


しかし、その微笑みはどこかぎこちなく、蓮には薄氷を踏むように見えた。

穏やかで幸せだった日々の裏に、知らぬ間に忍び込む影。

蓮はまだその影に気づかず、ただ結衣を守ろうとする日々が続くのだった。


普段は明るく振る舞う結衣も、夜になるとひとり静かに考え込むことが増えた。

部屋で涙をこらえている姿を、蓮は直接見ることはできない。

それでも、ふとした仕草や沈黙の長さで、彼女の胸に潜む不安や孤独を感じ取った。


ある晩、結衣はぽつりと声を漏らした。


「私……重たくないよね?」


蓮は即座に首を振る。


「重たいなんて思ったことはない。結衣がいるから、俺は頑張れるんだ」


その言葉で少し安心する結衣を見ながらも、蓮の胸には不安が残った。

彼女の心の奥に、何か知らぬ影が忍び込んでいるような感覚――。


朝は以前より遅く起き、昼間もぼんやりと考え込む時間が増える。

笑顔の裏に、ため息と小さな戸惑いが混ざるようになった。


蓮は気づかずにはいられなかった。


「結衣、大丈夫か?」


問いかけると、彼女は微かに頷くものの、目の奥には消えない不安が宿っている。

影は見えないところから静かに忍び寄っていた。


思い返せば、すべての変化はあの親睦会から始まっていたのだ。


蓮の目には映らないその存在は、結衣の心の奥に微かに重さを落とし、知らぬ間に孤独を積もらせていた。


「私……頑張らなきゃ……」


結衣は自分を励ますように、心の中でそう繰り返す。


でも蓮に迷惑をかけたくないという思いが、彼女の笑顔をさらに無理に作らせる。

夜になると、結衣は一人ベッドに横たわり、枕を抱えて小さなため息をこぼす。


「どうして……うまくできないんだろう……」


蓮には届かない声で、孤独と疲労を吐き出す結衣。


穏やかで幸せなはずの日常の隙間に、知らぬうちに忍び込む影と、結衣自身の迷い。

それはやがて、二人の運命を大きく揺るがす予兆のようだった。


そしてある日。


蓮の目には、結衣が何かに追われるように出かけていく姿が映った。

その夜、突然の事故の知らせが届く。


彼女は帰らぬ人となった。


蓮の胸に残ったのは、悲しみと後悔、そしてどうしても解けない違和感だった。


「自殺なんて、ありえない……」


葬儀後、蓮は街の噂の中で一つの名を耳にした。

街の路地にひっそりと佇む、ある花屋のこと。


「——骨花屋の香月、結衣さんの声を、もう一度だけ聞けるとか」


蓮の胸に、抑えきれない想いが渦巻く。

愛する人を失った痛み、真相を知りたいという焦燥、そしてどうしても聞きたいという切なる願い。

その夜、蓮は決意した。


ーーー


一週間後


雨の名残が路面に残る薄暗い路地。

蓮は深く息を吐き、再び花屋の扉を押し開けた。


店内には、ほのかな土と湿った木の香りが漂う。

奥のカウンターに立つ咲は、淡い色の着物の袖を揺らしながら、静かに微笑む。


「蓮さん、お待ちしていました」


その声に、胸の奥に溜まった緊張が少しだけほぐれる。


咲の案内に従い、蓮は花屋の奥に通された。

そこには静かな光を受けて、ひと鉢の白椿が佇んでいる。


つぼみはまだ固く閉じていた。

咲が小さく息を吹き込むと、淡い香りが漂い、蕾はゆるやかに開き、花弁がひとひらごとに夜の静寂を切り裂くように咲いていく。

白い光を宿したその姿は、この世のものではないほど神秘的だった。


——白い椿の花


そして、花の中から微かな声が滲み出す。


——結衣の声。


『蓮さん……ごめんなさい。私、最後まで信じきれなかったの……』


胸の奥が締めつけられる。

聞き慣れた優しい声に触れながらも、その言葉は鋭く心を突き刺した。


『黒川さんに何度も呼び出されて……

 “蓮さんは私の方が必要なんだ”って言われて……

 わかっていたのに、信じているはずなのに……

 どうしても、不安に飲み込まれてしまったの』


花弁がふるえ、甘く切ない香りが漂う。

蓮の頬を熱いものが伝った。


『事故のあの日も、彼女から電話があったの。

 “蓮さんはもうあなたの重さに疲れてる”って……

 私、揺れてしまった。

 そのまま涙で前が見えなくなって、足を踏み外したの……』


声は次第に震え、そして静かに結ぶ。


『信じきれなくて、ごめんなさい。

 でも、私は最後まで、蓮さんを愛していました。

 どうか、忘れないで……』


花がひときわ強く香りを放ち、空気が澄んでいく。

蓮は膝を折り、咲き誇る白椿を抱きしめるように見つめた。


——真実はここにあった。


結衣は決して自ら命を絶ったのではない。

黒川花音の巧妙な言葉と揺さぶりが、彼女を孤独へと追い詰め、事故へと繋がったのだ。

蓮の胸に残ったのは、後悔と、愛する人の最後の想いだった。


白椿は、なおも静かに揺れていた。

その花弁の奥から、結衣の声がもう一度、蓮に届く。


『蓮さん……どうか、強く生きて。

 私は、あなたの未来を縛りたくない。

 でも、もしもあなたが苦しむのなら……

 私を追い詰めた人に、向き合ってください。

 私のためじゃなく、あなた自身のために』


甘やかな香りが、涙で震える蓮の心をそっと抱きしめる。

やがて、花は静かに閉じ、結衣の声も風に溶けていった。


蓮はしばらくその場に立ち尽くした。


胸には、どうしても消えない後悔と、結衣の最後の想いが絡みついている。

彼女が本当に望んでいたのは「温かな家庭」であり「信頼」だった。


それを守れなかった自分。


そして、その想いを壊した黒川花音。

蓮は拳を強く握りしめた。


「……逃げない。結衣を奪った真実からも、黒川花音からも」


ーーー


数日後、蓮は黒川に会う機会を作った。

会社の会議室、人目の少ない夕刻。

花音は変わらぬ笑みで迎える。


「蓮さん、こんな時間にどうしたんですか?」


その笑みの裏に潜む影を、蓮はようやく見抜くことができた。


「黒川……結衣に、何を言った?」


「え?」


一瞬の動揺が、彼女の瞳に浮かんだ。

だがすぐに、作り笑いに戻る。


「何をって……私はただ、心配していただけです。

 蓮さんが結衣さんに縛られて苦しんでるんじゃないかって」


「嘘だ」


蓮の声は冷たく震えた。


「結衣は、最後に俺に伝えてきた。

 お前に“蓮はお前を重荷だと思っている”って何度も言われたって。

 そのせいで、不安に押し潰されて……事故に繋がったんだ」


沈黙。


黒川花音の表情は、徐々に笑みを保てなくなっていく。


「……だから何? 彼女が勝手に落ちただけでしょう?

 私はただ、あなたにふさわしいのは私だって、気づかせたかっただけ」


声が震え、執念が滲み出す。

蓮は深く息を吸い、結衣の最後の言葉を胸に刻む。


「黒川……俺はお前を選ばない。

 結衣が命を落としたのは、不慮の事故かもしれない。

 でもその原因を作ったお前の言葉は、決して消えない。

 俺は、その真実から目を逸らさない」


蓮は決意を胸に、会社に真相を訴えた。


通話記録、同僚の証言、残された断片が調査委員会に提出される。


「——藤村結衣さんは、繰り返し不適切な言葉を浴びせられていた」


委員会の結論は明確だった。

黒川花音はハラスメントの責任を問われ、懲戒解雇。


監督不行き届きがあった部署にも処分が下され、会社は公式に謝罪文を発表した。


「藤村結衣さんの名誉を毀損する一切の憶測を撤回します」


その一文は遅すぎる弔いでありながら、彼女の純粋を取り戻す唯一の光となった。


仏壇に飾られた結衣が咲かせたと同じ白椿を見つめながら、蓮は小さく呟いた。


「結衣……守れなくて、ごめんな。

 でも、真実は守った。ずっと愛している」


椿の花弁がひとひら舞い落ち、その香りは「完全なる愛」を告げるように甘やかだった。

蓮の胸には、後悔と愛と、そして静かな決意だけが残された。


ーーーー


白椿が静かに香る店内。


蓮が帰った後、空気はしんと静まり返り、時間さえも止まったかのようだった。

微かに湿った木の床に、雨上がりの冷たい匂いが残る。


咲は奥の棚に視線を向ける。

そこには、湊翔のために慎重に整えられた鉢植え——まだ芽吹かぬ蕾が土の中で静かに眠っている。

土は冷たく、光を受けても微動だにせず、まるで答えを待っているかのようだった。


「どうして……兄さんの花だけは、咲かないのだろう」


咲の指先がそっと土を撫でる。触れた瞬間、鉢からほのかな温もりが伝わるが、言葉にはならない。胸にわだかまる疑念が、微かに震えた。


その時、ドアの鈴が柔らかく響く。

夜の街灯に照らされて現れたのは、咲の義弟・怜央だった。


咲は静かに目を細め、微かに微笑む。


「怜央……どうしたの?」


「咲姉……元気にしてるかと思って」


怜央は店内の花々を見渡し、静かに息を吐く。

奥にある芽吹かぬ鉢へ目を落とし、低く控えめに呟いた。


「……兄さんの花……、まだ咲かないんだな」


咲は答えられず、ただ沈黙の中で白椿の香りに身を委ねた。

香りは甘く、冷たく、微かに湿った土の匂いと混ざり合い、幻想的な気配をつくる。


咲の意識はふと過去に漂う。


幼い頃、湊翔と一緒に過ごした病院の廊下、入退院を繰り返す彼を見守っていた日々。

病室の窓から差し込む淡い光の中で、彼はいつも微笑み、弱さを隠していた。


「あなたのために、私は花を咲かせたい……」


そう思いながらも、何度触れても芽吹かぬ鉢。

咲は小さく息をつき、心の奥で問いかける。


——もしかすると、湊翔の死には、説明できない影があるのではないか。

——私の力では、まだ真実を受け止める準備が整っていないのかもしれない。


怜央の控えめな視線が、咲の胸の奥の不安をそっと照らす。

兄の花が咲かぬ理由、そしてその死の真相。


それは、まだ解き明かされるべき物語の入り口に過ぎなかった。

微かに、芽吹かぬ鉢の土が震えるように見えた——


まるで、答えを待つかのように。


店内には、花々の香りと静けさが重なり合い、幻想的な時間が静かに流れていた。

咲は目を閉じ、湊翔、怜央、そしてこれまで咲かせてきたすべての花たちの記憶をそっと抱きしめた。


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