表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
骨花〜最後の言葉〜  作者: 紫苑 雫
花は想いを伝える
1/4

青いスミレ

町の外れ、誰も気に留めぬような細い路地に、ひとつの小さな花屋がある。

店の軒先には質素な木の看板が掲げられており、そこにはただ二文字——「香月かつき」と記されている。

棚に並ぶのは華やかな花束ではなく、色を持たぬ蕾や枯れ枝ばかり。誕生日も結婚式も、この店とは無縁だ。

それでも、愛する人を失った誰かが訪れるとき、不思議なことが起こる。

遺骨の中でもひときわ大切とされる 喉仏 が土に埋められると、眠っていた蕾がひそやかに開き、淡い光を宿した花となって咲き誇る。


その花は「骨花こつか」と呼ばれ、ただ一度きり——


故人の最後の声を宿し、残された者の心に寄り添う。

この店を営むのは、淡い色の着物に身を包み、月光のような銀の髪を背に流す女主人、篠原咲しのはら さき


年齢も素性も定かではない。

だが誰もが彼女を「咲さん」と呼び、いつしか心の痛みを抱えた人々が、この花屋を訪れるようになった。

咲はただ花を咲かせるだけではない。


声にならなかった想いを、花という儚き姿に変え、残された者へと静かに手渡してゆく。

死者の花がひとひら散るたび、誰かの心に新しい記憶が灯る。


そして咲自身もまた、まだ咲かぬひとつの蕾を胸に秘めながら——

静かな夜の店先で、今日も訪れを待っている。

町の大通りから一本外れた細い路地に、その花屋はひっそりと佇んでいた。

看板には「香月かづき」とだけ記され、華やかな飾りも目印もない。


それでも葬儀に携わる者や、誰かを偲ぶ人々の間では、この店の名は静かに伝わっていた。


―香月は、葬儀専用の花屋である。


祝いの花は一輪もない。

誕生日も、結婚式も、この店とは無縁だ。


棚に並ぶのは枯れ枝のようなものや、まだ固く閉じた蕾ばかり。

しかし、故人を想い続ける人がここを訪れ、花を求めたとき、その蕾は音もなく開く。

咲いた花は、一瞬だけ「想いのかたち」となり、訪れた者の心に応える。


やがてその役目を終えると、花は必ず消える。

形も香りも残さず、まるで最初から存在しなかったかのように。


その花々を扱うのが、花屋の女主人だった。


彼女は淡い色の着物を纏い、黒とも銀ともつかぬ髪を肩から背へと流し、淡く光を宿していた。

姿ははっきりしているのに、目を離すと輪郭がぼやけてしまい、思い出そうとすると掴めない。


年齢も、生い立ちも分からない。

ただ人々は「さきさん」と呼び、その存在を疑わなかった。


花屋を訪れる者には共通点がある。


―故人を思い、なお胸に抱え続けていること。

故人の最後と言葉を届けるための花。 最後の花だった。


彼女はそれを“骨花こつか”と呼んだ。


店の奥、薄布で仕切られた小さな部屋。

蝋燭の火が揺れていた。 それは風のせいではない。

何かが空間の中で、微かに脈打っているような感覚。


「咲…」


部屋の一角に置かれた陶磁器の鉢から、その声は聞こえたような気がした。


鉢の中央には、ひとつの「想い」が深く埋められている。 長い歳月を経てもなお眠り続ける。

彼女にとって最も大切な人のものだ。


それは種子のように土の中で静かに潜み、まだ一度も花を咲かせたことがない。


火葬され、骨となったあともなお、その人は言葉を抱えたまま。

けれど、それを外に告げることを拒んでいるかのように、花は固く閉ざされたままだった。


彼女は両手を合わせ、小さく祈るように唇を動かした。


「声を聞かせて・・」


銀髪がそよぐように揺れ、彼女の掌から淡い光がこぼれ落ちる。


ほんの一瞬――鉢の中の土が、わずかに震えたように見えた。

だが、それ以上に芽吹くことはなかった。


ーーー


雨の中、黒い傘を差して現れた女性。

店の入り口に立ち、声をかけることもせずに、ただ無言で扉を押し開けた。


「……娘の、最後の言葉を……聞かせてください」


骨花屋を訪ねてきたのは、町の中学校で教師をしているという玲子という女性だった。

母子家庭で育ててきた一人娘・志織を失い、彼女の声を一度だけでも聞きたいと、噂を頼りにこの店へ辿り着いたのだ。


玲子の手には、白布に包まれた小箱があった。

その中には、娘の魂の名残を宿した欠片が、白布に包まれて静かに納められていた。


咲は一礼し、両の手をそっと差し出した。


「大切なものを……お預かりいたしますね」


玲子は震える手で白布に包まれた小箱を差し出す。


咲は丁寧に受け取り、胸の前に抱えると、まるで幼子をあやすように小さくうなずいた。


「花が咲くには、少しだけ時間がかかります。

 言葉というのは、残すよりも、咲かせるほうがずっと難しいのです。

 あなたの想いが届くように——

 一週間後、もう一度お越しください」


玲子は深く頭を垂れ、名残惜しげに小箱へ視線を落としながらも、不安を抱えたまま扉を後にした。

雨音だけが、店内に残った。



雨が上がった午後、花屋の奥の静かな部屋。

咲は慎重に、白布に丁寧に包まれた志織の喉仏を手に取った。


「こんにちは、志織さん。ここで少し休んでね。」


声は小さく、でも優しく。

まるで眠る子どもに語りかけるように、咲は土の中にそっと手を入れる。


掌で温かく土を包み込み、喉仏をゆっくりと沈めていく。

その間、部屋には静かな息遣いと、土の微かな匂いだけが満ちていた。


作業が終わると、咲は手を土の上に置き、しばらくそのまま静かに祈るように目を閉じた。


「大丈夫、ちゃんと伝えられるよ」


咲はそっと白布を片付け、母が訪れる日のために花鉢の土を静かに整えた。


ーーー


志織は……すごく、静かな子だった。


玲子は、「子どもを守るのが親の責任」と思い込み、自分にも娘にも完璧を求めていた。


志織が学校で何かあっても、「頑張れば乗り越えられる」と励ましてしまう。

中学生になる頃、志織は徐々に口数が減っていった。


その「何も言わない」という姿勢が、母には拒絶のように映った。


教室でいじめがあったことを、玲子は後から知った。

そして、ある夜。 「どうして何も話してくれないの?」


それでも志織は静かにうつむくだけだった。

苛立ちを抑えきれず、玲子は声を荒げた。


「ママは、あんたのことわからない……!」


その瞬間、志織の表情が凍りついたのを、玲子は今でも鮮明に覚えている。


教師である自分が、子どもを守れなかったという後悔が、胸を締め付けた。


──


その優しい子は、何も言わず、母の手を握って笑ってくれたこともあった。


小さな絵を描き、膝に頭を預け、眠る前には「おやすみ」と囁く声で母を安心させてくれた。

その優しさが、母にとっては余計に痛かった。


死の前日 その日は、特に変わった様子はなかった。 晩ご飯のあと、二人でテレビを見て、志織は目を細めながらうとうとしていた。


「眠る前に、“おやすみ”って、小さな声で言ってくれて……あれが最後だったの」


玲子は、その瞬間の温もりを思い出し、胸を締めつけられる。


あのとき、もっと話を聞いてやればよかった。もっと笑ってやればよかった。


——翌朝。 学校から突然の電話が鳴った。


「志織さんが、校舎の階段から転落し、頭を強く打って……いま、病院に搬送されています」


血の気が引く思いで駆けつけたとき、志織はすでに冷たいシーツの上に横たわっていた。

医師の静かな声が告げる。 「間に合いませんでした」

遺書はどこにもなかった。


それは不慮の事故なのか、それとも——。


残された母は、言葉にならぬ後悔に苛まれ続けた。


「もっと話を聞いてあげればよかった」

「もっと優しくしてあげればよかった」


その想いは、時間が経つほど深く、胸を締めつけていった。


ーーー


雨の名残が路面に光を残す午後。


玲子は再び花屋を訪れ、志織の小さな遺影を胸に抱いていた。

咲は静かに微笑み、写真をそっと触れる。


その手つきは、母の心をそっと包み込むように柔らかく、慈しみに満ちていた。

玲子は息を整え、膝の奥で小さく手を握った。


胸の奥に渦巻く後悔と愛情を抱きしめながら、母は静かに咲を見つめる。


咲の掌から零れる光が、陶磁器の鉢の土に降り注ぐ。

小さな光が掌から溢れ、鉢の土をほんのりと温めるように揺らす。


土の中では、まだ固く閉ざされていた蕾がゆっくりと動き始め、芽吹こうとしていた。


「大丈夫」


咲の穏やかな声が、静かな部屋の空気に溶け込む。


母の胸に、期待と不安、そして娘への想いが入り混じる。


鉢の中の芽吹きは、まるで小さな生命の鼓動のように、静かに、しかし確かに母に届いていた。


やがて——

硬く閉ざされていた蕾が、かすかに震え、ゆるやかに開いていく。

淡い光をまとった青いスミレが姿を現し、夜明け前の星のように静かに揺れた。


スミレその花が意味するのは——「小さな幸せ」「誠実」「ひそやかな愛」。

淡い香りが立ち上り、部屋の空気を優しく満たす。


——その花から声が生まれた。


『ママ……』


花を通して届いた志織の言葉は、静かで、しかし確かな存在感を持って母の胸に響いた。


「ママ……ありがとう。ずっと支えてくれて、見ていてくれて。 でもね……本当は、たくさん言いたいことがあったの」 声はやさしく、けれど深い陰を帯びていた。

「小さい頃、ママと一緒に絵を描いたの、楽しかったよ。 熱を出して寝込んだ夜、ママが手を握ってくれたから安心できたの」


しばし沈黙。花弁が閉じようとしては、また震えながら開く。


「……でも、中学に入ってから、クラスの子にいじめられるようになったの。

ノートを隠されたり、破かれたりして……みんなの前で笑われて、恥ずかしくて、苦しくて…… それでも、ママには言えなかった。だって……ママは先生だから。私が弱いことを言えば、ママを困らせると思ったの」


玲子の胸が締めつけられる。涙が頬を伝い落ちる。


「志織……どうしても、ママに話してほしかった……」


母の声に押されるように、志織の言葉は続いた。


『私ね、美術の先生に絵を褒めてもらったの。

 いじめられて苦しかったけど、その言葉が少しだけ救いになったの。

 だから……先生のこと、好きになったの』


志織の声は、淡い光に包まれて震えながら続いた。


『あの日……クラスの子に、ノートを奪われて……みんなに笑われたの。

 恥ずかしくて、苦しくて、逃げたくなって……

 階段を駆け下りたとき、足を滑らせて……  病院に運ばれた……』


その告白は、母に突きつけられる刃でありながら、同時に娘の心を知る唯一の道しるべでもあった。


「どうして話してくれなかったの……志織……」


震える母の声に、花は最後の輝きを放つ。


『ママ……怒ってくれて、ありがとう。

 私のことをちゃんと見ててくれて、ありがとう。』


花弁がひとひら、静かに散った。光が薄れていき、香りだけが残る。


それは志織が母へ託した「小さな幸せ」と「ひそやかな愛」そのものだった。

声は次第に震え、けれど最後には柔らかく結んだ。


「ごめんね、ママ。もっと話せばよかったのに、できなかった。

 でも、ママを傷つけたくなかったの。

ただそれだけ…… 、ママが大好きだったよ」


青いスミレはひときわ強く香り、やがて花弁を震わせて静かに散り落ちた。

その儚い光と香りが、母の胸に深く刻まれ、志織の「小さな幸せ」と「ひそやかな愛」は、確かに伝えられたのだった。


玲子は、自分は母親として失格だと責め続け、何をどう言葉にすればいいのかもわからず、胸の奥で苦しんでいた。

それでも、口に出せなかった言葉の奥に、確かな愛情が宿っていたことを、玲子はようやく感じ取る。

声にはならなかったけれど、沈黙の中で、娘の優しさや思いやり、そして母への深い慕情が静かに伝わってきたのだ。


胸の奥に重く沈んでいた後悔が、少しずつ温かさに変わり、母は初めて、言葉にならない想いの存在をしっかりと受け止めることができた。


涙が頬を伝い、胸の奥で押し潰されそうになった感情がゆっくりと溶けていく。


「もう一度抱きしめたかった」

「……やっと、あなたの声が聞けた」


玲子は小さなスミレを抱きしめ、淡い香りに包まれながら、娘の温もりを胸に感じた。


花はやがて静かに光を落とし、役目を終えようとしていたが、その瞬間、母と娘の想いは確かに交わったのだった。



事件の顛末


玲子は、志織が学校でいじめを受けていたと知り、真実を明らかにするために動き出した。

しかし、同僚の教師たちは当初「そんな事実はない」と繰り返し、学校は体面を守ろうと沈黙した。


それでも彼女は、母であり教師としての責任から、一歩も引かなかった。

保護者や同僚に頭を下げ、事実を調べるように求め、証言を集めて回った。


やがて、志織がいじめられていたこと、そして当日の出来事を目撃していた生徒の証言が集まり、学校はようやく真実を認めざるを得なくなった。


加害者の生徒たちには厳しい処分が下され、事実は公に明らかとなる。

志織の名誉は回復され、母の必死の訴えは無駄ではなかった。


玲子は、涙を拭いながら遺影に語りかけた。


「志織……やっと守れたわ。遅くなって、ごめんね」


静けさが戻った店内に、かすかなスミレの花の香りが残っていた。


ーーー


白いスミレの香りがまだ薄く漂う店内で、咲は奥の小箱を見つめていた。


「……やさしい子だったわね、志織さん。」


独り言のように呟くと、咲は小さく目を伏せた。

銀の髪が静かに揺れ、指先が土の表面をなぞる。


そこには、いまだに芽吹かぬ蕾が眠っている。


「……兄さん。あなたの花だけは、どうして咲かないの」


まぶたの裏に、今はもう会えない人の顔が浮かぶ。


「一番、咲かせたいのに、咲かせられない花……」


「……湊翔……」


消え入りそうな声で、咲は名を呼ぶ。


呼んだあと、まるで自分を叱るように、静かに唇を噤んだ。


そして、その夜。 店の前を、一人の男が通り過ぎていった。

咲の視線が、店のガラス越しにその背中を捉える。


細身の背中。静かな足取り。

その男は振り返らなかった。


——どこかで見たような気がした。


「……まさか……」


咲は微笑みを返しながらも、心の奥に疼く記憶を抑えきれない。

——学生の頃、病室で見た湊翔の微笑み。

——義兄であるはずなのに、心の奥に芽生えてしまった恋。

——だが、その想いを口にすることは、決して許されない。


咲は静かに息をつき、未だに咲かぬ兄の小箱を見つめる。


「あなたが抱えた想いは、どこに眠っているの……」


店内に再び静寂が満ちる。青いスミレの香りだけが、かすかに夜気の中へ溶けていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ