鼠色が彩る私の世界 ~王子様よりネズミの騎士様の手を取って、駆け落ちしようと思います~
私はリュシエンヌ。
伯爵令嬢という肩書はあれど、実際はただの使用人。
七歳の時に両親を事故で亡くし、伯爵代理として叔父がやって来ると、伯爵家から私の居場所はあっという間に無くなった。
我が物顔で振る舞う叔父、邪魔そうに私を見るその妻、彼らにそっくりなその娘。味方になってくれる使用人は全員解雇され、私は都合の良い使用人として屋根裏部屋へ追いやられた。
何もかもを諦めてしまうのに、そう時間はかからなかったと思う。
叔父一家は顔を合わせると心無い暴言を吐いて暴力を振るうけれど、出来るだけ会うことを避けて従順な使用人として大人しく従っていれば、一日二食は食事が与えられて生きるのに困ることはない。
それを理解してから十年、私は屋敷の片隅でひっそりと生きてきた。
虚しくて寂しい人生だったけれど、今はもう違う。
「リュシー! 見てくれ、今日のタンポポはでっかいぞ!」
パタタタと可愛らしい小さな足音を立てながら窓辺に現れたのは、タンポポを持ったネズミさん。
少し硬めのふわふわした鼠色の毛に、ダークブラウンのつぶらな瞳。大きな丸いお耳と小さなお鼻はお揃いのピンク色。ぴょんと元気に真っすぐ生える長いヒゲ。ちょろりと長いしっぽは楽しそうに揺れている。
小さくて可愛らしくて素敵な、世界で一番の私のお友達。
「まぁ、ガスパール。素敵な大輪のタンポポね」
「そうだろ! リュシーが喜びそうだから一番でっかいのにしたんだ! 受け取ってくれ!」
「ふふ、ありがとう。とても嬉しいわ」
後ろ足で立って精一杯背伸びしながら、小さな手でタンポポを差し出してくれる姿に思わず頬が緩んでしまう。毎日見ているというのに、胸をくすぐるこの気持ちは全く変わることがない。
“彼”と初めて会ったのは一年前。
裏庭の片隅で死にかけていたのを見つけたのがきっかけだった。誰にも知られずひっそりと命を終わらせようとしている姿が自分と重なって、思わず部屋に連れ帰って手当てをしてしまった。
そうして何かの生き物にやられた傷が無事に治って「もう怪我をしないように気を付けてね」と裏庭に逃がしてあげた次の日、彼は私の部屋に戻って来た。
「助けてもらった恩返しがしたいんだ!」と元気な声で喋りながら。
聞けば、恩返しがしたいからと知り合いの魔法使いに人語を喋れるようにしてもらったらしい。
「どんな願い事でも叶えてみせる! 何でも言ってくれ!」
「願い事……ごめんなさい、すぐには思い浮かばないわ」
「そっか、じゃあ決まったら教えてくれよな!」
ピンクのお鼻をぴこぴこ動かしながらつぶらな目を細めて笑った彼とそんな会話をしてから、私たちは一緒に暮らし始めた。その日から彼は毎朝野花を摘んで来て、私にプレゼントしてくれている。
他愛のないお喋りをたくさんして、「リュシー!」と二度と呼ばれることがないはずだった愛称で呼んでくれるのが涙が出るほど嬉しくて、お礼に彼へ“ガスパール”という名前をプレゼントした。絵本の騎士様から頂いた名前に「今日からオレはガスパールだ!」と大喜びで机の上を駆け回ってくれた姿が忘れられない。
そんな懐かしい思い出を振り返りながら、貰ったばかりのタンポポを空き瓶に挿す。晴れやかな黄色が私の心を照らしてくれるようだった。
「さて、朝食にしましょうか。今日は貴方の好きなトウモロコシがあるわよ」
「ホントか!? やったー! わっ、チーズもある!」
私の少ない朝食のパンとサラダとチーズを小さな皿に少しずつ取り分けて、机の上に駆け上って来た彼の前に差し出せば、サラダに入っていた大好物のトウモロコシに、ガスパールはお鼻をぴこぴこさせて大喜びしてくれた。とても可愛らしくて、これだけでお腹が一杯になってしまう。
「ガスパール、今日は魔法使いさんの所へお仕事に行くのよね? 怪我しないように気を付けてね」
「大丈夫だリュシー! リュシーに貰った針があるからな。オレは強いんだ、ボス猫にだって負けないぞ!」
ガスパールは例の魔法使いさんの所で薬草や木の実を納品するお仕事をしていて、なんとお給料もしっかり貰っているらしい。
でも、その仕事中は危険が一杯で色々な生き物に襲われることも多く、時折怪我をして帰って来る。それが心配で、せめて武器になるものをと裁縫道具の待針をあげた。今ではそれをレイピアのように器用に扱えるようになって怪我をすることも少なくなってきたけれど……やっぱりどうしても心配だわ。
「“油断は大敵”って絵本の騎士様も言っていたでしょう? あなたがとっても強い騎士様なのは知っているけれど、もしもがあったらすごく悲しいの。だから無理はしちゃダメよ」
「わかった! リュシーが悲しいのはイヤだから気を付ける。リュシーは笑顔でいるのが一番だからな!」
「私もあなたの笑顔が一番好きよ」
パンを頬張るガスパールの頭を人差し指でクルクルと撫でると、嬉しそうに目を閉じて「わはは!」と屈託のない笑い声を上げてくれる。そんなちょっとした反応が嬉しくて可愛くて、つい、クルクル、クルクルと頬にお腹と続けてしまって「リュシー、くすぐったいぞ!」と怒られてしまった。
そうして二人でゆったりと食事をしながら今日の天気の話をしたり、お互いの仕事が終わったらなにをしようかとお喋りした後は、お仕事に出掛けるガスパールをお見送り。
窓辺に立つ彼が小さな手で針の剣と端切れの革で作った鞘を身に纏えば、立派な騎士様の完成。格好良さと可愛さが同時に存在していて、何度見ても素敵。
「それじゃあ、いってくる!」
「えぇ。いってらっしゃい、ガスパール」
身を屈めて彼のふわふわほっぺにキスをすると、彼もお返しに私の頬へ頬擦りしてくれた。ぴんと元気なヒゲが頬に触れて、頬と胸の内がくすぐったくて暖かくなる。
「今日は暗くなる前に帰って来るからな!」
手を振って窓枠から身を乗り出し、スルスルと器用に壁を伝いながら降りて行く小さな姿を見送って、私も仕事へと向かった。
エプロンを身に着けて一階まで降り、メイド長に挨拶をして仕事を貰う。
使用人たちは私に優しくはないけれど、冷遇以上のことはしてこない。関わりずらい同僚という程度で、仕事上最低限のことはちゃんと伝えてくれるし、とても平和。だから仕事は嫌いではない。
「あら、薄汚い使用人女じゃない! 相変わらず、床を這いつくばる姿がお似合いね」
――こうして、叔父の娘に会ったりしなければ。
床を磨いていた手を止め、静かに黙って頭を下げる。こうすれば一番早く終わると知っているから。
「本当、陰気で気持ち悪い女。こんなのが同じ屋敷に居るなんて信じられない! ……でも、そうね。今日のアタシは機嫌がいいの。お前にいいものをあげるわ。顔を上げなさい」
こんなことを言われたのは初めてで恐る恐る顔を上げると、豪奢なドレスで着飾った彼女が勝ち誇った顔でこちらを見下しながら後ろに控えた侍女に「あれを持って来て!」と威圧的に叫び、侍女が急いで持って来るなりそれを私に叩き付けるように投げ付けた。
床に落ちたそれを目で追えば――…手紙?
「拾いなさいよ」
言われるがままに手を伸ばすと――パンッ、と乾いた音。じんわりとやってくる頬の痛み。扇子で頬を打ち据えられたのだと、遅れて理解する。
「いい? アタシが捨てたものを、アンタが勝ったに拾ったの。だから連れて行ったりなんてしないわ。あぁ、そもそも参加するためのドレスがなかったわね!」
何がそんなに楽しいのか、高笑いしながら去って行く背中が消えるまで眺めてから、改めて手紙を拾い上げる。一度開封された形跡がある豪華な箔押しがされた封筒。宛名にあるのは間違いなく私の名前。
すぐにでも中身を確認したい気持ちを抑えて手紙をポケットへ入れ、掃除の続きへと取り掛かった。
*** *** ***
全ての仕事を終えて屋根裏部屋に戻って、一息吐く。日は陰ってきているけれど、ガスパールはまだ帰って来ていない。
ベッドに腰かけて、気になっていた手紙をポケットから取り出して中身を確認する。
「……お城で舞踏会?」
中に入っていたのは、封筒同様豪華な便箋と招待状。
第一王子様の成人を祝う舞踏会がお城で開催されるので是非参加して欲しいと、そんな内容だった。
十七歳なのにデビュタントすらしていない私にまで招待状が来るということは、きっと幅広く色々な家に送っているのだと思う。だから特別嬉しいということはない。……普通のご令嬢であれば、王子様に会える機会に大喜びなのでしょうけど。
思い返せば随分前から屋敷が騒がしくて、商人らしい人たちが頻繁に出入りしていた。きっと舞踏会の準備をしていたのだろう。
それでご機嫌だったのね、と思わずため息を吐いてもう一度招待状を見る。
書かれている開催日は明日。ドレスを持っていない私が今から用意できるはずもなく、外出を許されていないのにお城へ行ける訳がない。それをわざわざ分からせて自慢したくて、私にこれを渡したのだろう。……随分と暇なのね。
「リュシー! 帰って来たぞ、ただいま!」
「お帰りなさい、ガスパール」
聞こえてきた声にすぐさま立ち上がり、窓を開ける。
少し開いた隙間からスルリと入って来たガスパールに怪我がないことを確認しつつ撫でていると、彼は丸い目をさらに丸くしながら私を見上げて言った。
「リュシー、怪我してる! どうしたんだ!?」
「え? ……あぁ、頬のこと? 大した怪我ではないわ」
「でも真っ赤になって痛そうだぞ……手当てしなきゃダメだ!」
「そうね、そうするわ。だからそんな顔しないで、ガスパール」
しょんぼりと耳とヒゲを垂らしてしまった姿に思わずそう返事をして、元気を出して欲しいとガスパールをもう一撫してから、机に着いて手鏡で傷を確認する。
じんじんするとは思っていたけれど、言われた通り赤くなって腫れあがっていた。
傷口はないようなので、ハンカチを水で濡らして押し当てる。生温い温度でも無いよりはマシかもしれない。
「大丈夫か? 痛くないか?」
「えぇ、もう痛くないわ。大丈夫よ」
机の上で心配そうに見ていたガスパールが、私の空いている手にそっと小さな両手を乗せてグイグイと頭を押し付けるように頬擦りしてくれた。それだけで、私の心は満たされて痛みなんてどうでも良くなってしまう。
「心配してくれてありがとう、ガスパール。大好きよ」
感謝の心を込めて伝えると、私を見上げていたガスパールは耳を垂らして元気がないまま、両手を大きく広げて全身で私の手にピタリと張り付いた。
とても可愛くて嬉しいのだけれど……どうしたのかしら。
「ガスパール?」
「……リュシーをぎゅってしたかったんだ。でも、オレはちっちゃいから全然ダメだな……」
「そんなことないわ。私は今、確かに心を抱きしめてもらったもの」
その証拠に、胸がぎゅっとドキドキしてすごく温かい。
頬を押さえていたハンカチを置いて、張り付くのをやめてしょんぼりしているガスパールを両手で包み込むように抱き上げ、「ありがとう」と丁寧に頭から背中を何度も撫でた。
それでようやく元気を出してくれたのか、垂れていたお耳がぴょっと元に戻る。可愛くてこちょこちょとくすぐるように撫でたら、「くすぐったいぞ!」と身をよじって笑ってくれた。
「大好きよ、ガスパール。大好き」
「オレもリュシーが大好きだ!」
ガスパールにキスを贈って二人でひとしきりクスクスと笑い合うと、私の手のひらで勇ましく立ち上がったガスパールが言った。
「リュシーを虐める悪いヤツはオレがやっつけてやるからな! すぐ行ってくるから待っててくれ!」
「そんなことしなくていいわ。それより私と一緒に居て欲しいの」
あんな人たちの所へなんて行かないで欲しいし、考えても欲しくない。可愛いガスパールが汚れてしまったらどうするの。そんなことをするくらいなら一秒でも長く私と一緒に居て、私を見ていて欲しい。
そう思いながら、飛び出して行きそうな小さな体をそっと抑えて、一緒にベッドへ移動する。
断ってしまったからか、またしょんぼり耳を垂らしたガスパールが私を気遣うように見上げて言った。
「……オレ、リュシーを悲しいことから守れてないな」
「そんなことないわ。ガスパールが一緒に居てくれるだけで、私は元気になれるのよ」
笑顔で返してベッドに腰かけ、彼を枕元に降ろして一緒に読む予定だった絵本を手に取る。
ちゃんとした伯爵令嬢であった頃の、唯一残った思い出の品。
“騎士ガスパール”が大冒険の末にお姫様を救い出して結婚する、ありきたりなお話。だけどそれが大好きで、ページの端が切れるまで読み込んだ。今ではガスパールもお気に入りで、時々こうして一緒に読んでいる。
「リュシー、これなんだ?」
「え? あぁ、招待状よ。『お城の舞踏会に来ませんか?』というお誘いのお手紙ね」
ベッドに置いたままだった手紙を見つけたガスパールにそう説明すると、彼は首を傾げて絵本を指した。
「“ブトウカイ”ってアレだろ。絵本の、最後のキラキラのところ」
「そうよ、このページが舞踏会のシーン。絵本と違って、王子様と女の子が躍るの。綺麗な色のドレスがクルクル回って、とても素敵でしょうね」
騎士とお姫様が躍る絵本のページを開きながら、ふと思いを馳せる。
「この絵本を貰った頃はお姫様に憧れていてね、舞踏会で王子様と踊るのが夢だったの」
『リュシーは王子様と歳も近いし、いつか舞踏会で踊れる日が来るかもね』なんて、お母様が私の頭を撫でながら言ってくれた懐かしい思い出。
まさか本当にこうして招待状が来るとは思わなかった。そう考えると、実際に舞踏会に行くことが出来ないのが残念に思えてくる。
「……一度でいいから、行ってみたかったわ」
「……? 行きたいなら行けばいいんじゃないのか?」
「私は行けないの。ドレスも馬車も、何も持っていないから……」
「なら、オレがリュシーをブトウカイに連れて行く! 任せてくれリュシー!」
「ふふ。ありがとう、ガスパール。とても嬉しいわ。一緒に行けたら素敵ね」
舞踏会がどういうものなのかも良く分かってなさそうなガスパールが胸を張ってそう言うものだから、可愛らしくてついそう返してしまう。
すると、ガスパールが嬉しそうに耳としっぽを立ててパッと顔を明るくさせて言った。
「やっとリュシーのお願いが叶えられるな! じゃあ準備してくるから待っててくれ!」
「……え? 待ってガスパール――」
その言葉に思い起こされるのは、一年前の約束。
『どんな願い事でも叶えてみせる! 何でも言ってくれ!』
本当に叶えるつもりなのだと気付いて慌ててガスパールを追いかけるも、走り出した彼は開けたままになっていた窓からあっという間に出て行ってしまった。今から庭に出ても、小さな姿を見つけられるはずがない。
ガスパールに“お願い”をするつもりはなかった。
してしまったら、私の傍から居なくなってしまいそうだったから。
「……ガスパール……」
ひとりぼっちの未来に足がすくんで、思わずその場にうずくまった。
胸を締め付ける嫌な気持ちに頭を振り、きっと大丈夫と何の確証もない希望を言い聞かせる。
そもそも、ガスパールはどうやってこのお願いを叶えるつもりなのだろう?
例の魔法使いさんに言う? ……膨大な魔力があれば凄い魔法が使えるとはいえ、御伽噺のように指先一つで願いを叶える魔法使いなんて存在しない。
叶えられる訳がないと思う自分と、頑張り屋さんのガスパールならやってしまうのではと思う自分がいる。
どちらにせよ、危ないことはして欲しくない。どうか怪我無く帰ってきますように。
不安と心配で胸を一杯にしながら、明かりを灯して一晩中待ってみたけれど、ガスパールは帰ってこなかった。
*** *** ***
舞踏会当日。
「娘が王子様に見初められるかも!」なんて騒がしかった屋敷は先程ようやく静かになり、叔父一家はわざわざ私に見送りさせて馬車で出掛けて行った。
あんな人たちなんてどうでもいい。ガスパールがまだ帰って来ない方が苦しかった。
屋根裏部屋に戻っても、ガスパールは居ない。
もしかしたら何かあったのかもしれない。怪我をして動けないとか、誰かに捕まってしまったとか。
探しに行きたい。でも、どこへ行ったのか分からない。
涙が出そうになりながら、せめて庭を探してみようと部屋を出ようとした時だった。
「リュシー!」
「ガスパール!!」
聞こえた声に慌てて駆け寄り、小さな体を両手でぎゅっと抱きしめる。
「大丈夫? 怪我はない? 本当に心配したのよ……」
「むぎゅ、苦しい……オレは大丈夫だから一緒に来てくれ! やっと準備が出来たんだ! 早く行かないと始まっちゃうぞ!」
「……嘘、本当に?」
困惑したまま「早く早く! あっちだぞ!」とガスパールに急かされ、屋敷を抜け出して裏門へ。人気のない通りにはその場に似つかわしくない豪華な馬車と、傍らに佇むローブを纏った男性。その男性にガスパールが「おーい魔法使い! リュシーを連れてきたぞ!」と声をかけると、彼は軽く手を挙げて言った。
「こんばんは、お嬢さん。君がネズミくんの“リュシー”か。お会いできて光栄だ」
「……私の方こそ、“魔法使いさん”にお会いできて光栄です」
「まぁ、挨拶もそこそこに。時間がないから早速失礼するよ。ネズミくんはこっちにおいで」
ガスパールが私の手のひらから飛び出して行ってしまうと、魔法使いの彼が「それでは」と私に向かって指を鳴らした。
瞬間、目を覆う眩しい光と“ぽんっ”と場違いに可愛らしい音。
ふわりと浮かぶような感覚を感じて目を開けてみれば、視界に入るのは暗闇の中にあっても輝くような美しい、私の好きな明るい黄色のドレス。
それを、私が身に纏っていた。
ドレスだけじゃない、靴も装飾品も上等な品々が揃っていて、まるで幼い頃に憧れたお姫様になったみたい。
「……素敵……」
「凄いな! リュシーがふわふわの花びらいっぱいの花になったぞ!」
思わず息を飲む私に、魔法使いさんの肩に乗るガスパールが拍手をして喜んでくれた。可愛らしく素敵な誉め言葉に思わず頬が緩んでしまう。
「次はネズミくんだ」
そう告げた魔法使いさんがきょとんとしているガスパールを地面に降ろして、再びパチンと指を鳴らす。先程と同じ眩しい光と“ぽんっ”と可愛らしい音。
「わっ、なんだなんだ!?」
いつもより低いガスパールの声が、随分と近くから聞こえてくる……?
不思議に思いながら目を開き――…そのまま、目を見開いてしまった。
ガスパールが居た場所でフルフルと頭を振って目を瞬かせているのは、紺色の騎士服を身に纏う青年。
歳は、私と同じくらい。短く切り揃えられた鼠色の髪にダークブラウンの瞳。人懐っこそうな顔立ちは困惑したような幼い表情を見せていた。
「うー……なんか変な感じがする……」
「……ガスパール、なの?」
「リュシー!? どうしてそんなちっちゃいんだ!?」
驚いた様子で慌てて駆け寄って来た“彼”が私に手を伸ばし、その自分の手を見るなりさらに驚いてクルクルと全身を見まわし始めた。
「うわっ、オレ人間になってる! しっぽがない!」
凛々しい外見とは逆の可愛らしい仕草とその口調は、間違いなくガスパールのもの。想像していなかった魔法に驚いて、思わずまじまじと見つめてしまう。
……どうしましょう。すごく、格好良くて素敵だわ。でも当然よね、ガスパールはネズミさんの時点でもの凄く素敵なのだから。
「舞踏会に行くお嬢さんには、エスコートする人間が必要だろう? 騎士として、君がエスコートしてあげなさい」
「“えすこおと”ってなんだ? オレは何をしたらいい?」
「舞踏会に着くまで、彼女の手を握っていればいい」
「そっか、わかった!」
頷いたガスパールが、ニコニコと彼らしい笑顔で私の両手をぎゅっと握り締める。
誰かに手を握ってもらったのはとても久しぶりで、温かいぬくもりに対する喜びと、素敵な男性に触れられた緊張とで胸の内がドキドキと飛び跳ねた。
「さて。それでは馬車へどうぞ。せっかく用意したのに遅れてしまう」
魔法使いさんが馬車の扉を開き、ガスパールに手を引かれて乗り込むと、馬車はゆるやかに走り出す。
本当に舞踏会に行くのだと緊張と不安が渦巻く中、あちこちを見回してソワソワしていたガスパールは私の手を一度ぎゅっと握り締め直すと、そこに視線を落として言った。
「リュシーの手がこんなちっちゃいなんて、変な感じだ。これじゃあ、いつもみたいにここで寝転がれないな」
私の手をふにふにと触りながら冗談めかして、でも少しだけ残念そうな、そんな笑顔を浮かべながらガスパールが言う。
「そうね。でも、いつもみたいに撫でてあげるのはできるわ」
いつもは指先だけの手を両手一杯使って、その少し硬めだけれどふわふわした鼠色の髪と頬を撫でてあげると、ガスパールはネズミさんの時と変わらない可愛らしい笑顔で「わはは!」と声を上げた。
……ふと、心配に思う。ガスパールはちゃんと元に戻してもらえるのかしら?
今のこの姿もとても素敵だけれど、あの可愛らしいネズミさんがもう見られないのはすごく嫌だわ。
逸れた思考に、こっそりと溜息を吐く。
本当は、この願いが叶ったあとはどうするのか聞きたいのに、怖くて聞くことが出来ない。気を紛らわせるようにガスパールを撫でて他愛のない言葉を交わしていると、馬車がゆっくりとスピードを落とし始めた。
窓の外を見れば宵闇の中でも煌びやかな、憧れていた世界が見える。
馬車から降りてガスパールにエスコート、というよりは手を繋いで一緒に歩き、大広間の入口へと辿り着くと「騎士の方はあちらの控室へ」と使用人に促されて、離したくなかった手は私の元からするりと去って行ってしまった。
「ガスパール……」
「入れるのはリュシーだけだって。独りで大丈夫か? 気を付けるんだぞ」
「……私が戻るまで待っていてくれる?」
「当たり前だろ! ちゃんと待ってるからな」
満面の笑顔で力強くそう言ったガスパールに見送られ、輝く広間に足を踏み入れた。
とても心細いけれど、ガスパールが頑張ってここまで連れて来てくれたのだから、勇気を出すのよ。
開かれた大きな扉の先ではもうすでに舞踏会が始まっているようで、遅れてやって来た私に視線が集まり、緊張に心臓が飛び跳ねた。
一度だけ深呼吸をして、幼い頃に教わった通りに背筋を伸ばして歩みを進めていく。
豪華な衣装を身に纏った貴族たちが各々集まって談笑しているけれど、ここから先は……どうしましょう? 実際に王子様をダンスに誘うなんて難しいから、どなたか手の空いている殿方に声をかけて――…
「こんばんは、麗しいお嬢さん。私と一曲、踊って頂けないだろうか?」
驚きのあまり、声が出なかった。
だって、目の前に居るのは王族特有の銀の髪が輝く、一際目を惹く美しい男性。何も知らない私でも分かる。間違いなく今日の主役の第一王子様。
何故、どうして。と頭の中は疑問が埋め尽くすけれど、王子様をお待たせするわけにはいかない。不慣れなカーテシーを精一杯綺麗に見せて「私で良ければ、喜んで」と返事をする。
美しい王子様が私に手を伸ばして微笑んで――…本当に、絵本の世界に入り込んだみたい。
エスコートされるがまま大広間の中央に出ると、美しい音楽が奏でられ始めた。
輝くシャンデリアの眩しい光の下、クルクルと体が回ってドレスが広がり、顔を上げれば王子様がじっと私を見て微笑んでいる。夢の中に居るような現実感のない光景に、緊張で体が強張って足がもつれて転んでしまいそう。
落ち着いてやれば大丈夫……と自分に言い聞かせていると、ふと視界に大好きな鼠色が映った。
ガスパール!?
柱の陰からぴょこりと顔を出しているのは、間違いなくガスパール。どうしてあんなところに? 控室から出てきたらダメでしょうに、見つかったら怒られてしまうわ。大丈夫かしら……
そんな私の心配を余所に、ガスパールは私が見ていることに気が付くとぱぁっと顔を輝かせて、満面の笑顔でブンブンと大きく手を振るものだから、思わず笑ってしまった。私のネズミさんはいつでも可愛らしくて大好き。
「君の護衛騎士かな?」
「はい。私をいつでも守って笑顔にしてくれる、素敵な騎士様です」
「そうか。君を笑わせられるとは羨ましいな」
ガスパールのおかげで緊張が解け、王子様も冗談みたいなことを言うものだから、つい気になっていることを聞いてしまった。
「……あの。王子様は何故、私などにお声がけを?」
「知人に、今夜君と踊ってやって欲しいと言われてね。だが言われなくとも、今夜誰よりも目を惹く美しい君と踊っただろう」
「まぁ、お褒めになるのがお上手ですね」
「世辞のつもりはないんだが」
王子様がまた冗談を仰る。ご冗談が好きな、お茶目な方なのかしら。
それにしても、王子様にお願いを言えるなんて魔法使いさんはきっと偉い方なのね。帰ったらちゃんとお礼を言わなくては。もちろんガスパールにも。
夢のような時間は消えてゆく音楽の余韻と共に静かに終わりを迎えた。
名残惜しくはない。ただ、夢が叶った満足感が私の胸を満たしている。
清々しい気持ちで王子様に連れられて中央から下がったけれど、いつまでも手を離してもらえず、困って王子様を見上げるとそのままじっと瞳を見つめられ、穏やかな熱が込められたような言葉が告げられた。
「もっと君のことが知りたい。よければ、このまま少し話さないか?」
「身に余る光栄なお誘いですが……申し訳ございません。来たばかりではございますが、本日はこれで失礼させて頂きます。一生忘れられないとても素敵な思い出をありがとうございました」
精一杯出来る限りの笑顔を浮かべて、王子様へと感謝の気持ちを伝える。本当に、今後一生得られない素晴らしい一時だった。
そのままカーテシーをして去ろうとした私に、何故だか頬を赤く染めた王子様が何かを言おうとしたようだったけれど、次に王子様と踊りたいご令嬢たちに囲まれて声を発することはなかった。
皆様の素敵な時間を邪魔してしまっては悪いから、しっかりともう一度カーテシーをしてその場から去る。向かう先は、もちろんガスパールの元。
「ガスパール」
「リュシー! 見てたぞ、凄かったな! リュシーがクルクルしてふわふわでキラキラで、雨が降ったあとにお日様に背伸びするひまわりみたいだった! 凄いキレイだな!」
「ふふふ。可愛い誉め言葉をありがとう、ガスパール。貴方が連れて来てくれたお陰だわ。本当にありがとう」
大興奮で大喜びのガスパールにお礼を伝えてから「それじゃあ、帰りましょう」と言うと、私よりも名残惜しそうに「もう一回やらないのか?」と広間を振り返った。
「王子様と踊れるのは一回だけなのよ」
「そっか。残念だな……ひまわりのリュシー、もう一回見たかったのに」
「ならいつか、ガスパールが私と踊ってね。今度は一番近くで見て欲しいわ」
「オレがやってもいいのか? やる、やりたい! リュシーをクルクルするの、すっごい楽しそうだ!」
「えぇ。きっと、とても楽しいわ。約束よ」
上機嫌でワクワクと顔を綻ばせるガスパールの手を取り、しっかりと手を繋いで出口へと歩き出す。
さようなら、小さな私が憧れた世界。
*** *** ***
帰りの馬車の中で、夢から覚めたようにぼんやりとドレスの裾を眺めていると、その視界にしょんぼりと心配そうな顔がそっと入り込んできた。
「リュシー、元気ないけど大丈夫か? ……もしかして、あんまり楽しくなかったか?」
気遣うようにそう言ったガスパールは私の手を両手でそっと取って、その手にグイグイと頭を押し付けるように頬擦りをしてくれた。ネズミさんの時と全く変わらない仕草に、へちゃりと垂れた耳とヒゲが見える気がするわ。
でも、思い切り押し付けるものだから力が強くて少し痛い。
「ごめんなさい、大丈夫よ。ちょっと疲れてしまっただけなの。……ガスパール、励ましてくれてとても嬉しいのだけれど、ちょっとだけ力を弱められる?」
「あっ、ごめんな! 今はオレの方がでっかいから、いつもみたいにやったら痛いよな……」
慌てて離れたガスパールがますますしょんぼりとしてしまった。『慣れていないだけなのだから気にしないで』と伝えようとした時、パッと顔を上げたガスパールが嬉しそうに言った。
「そっか! 今はオレの方がでっかいんだ!」
そして――…気付けば、温かい腕の中に居た。
「ほら、リュシー。今ならリュシーをぎゅっと出来るぞ」
耳元で聞こえる、嬉しそうな声。
騎士らしく逞しい腕が背中と腰に回されて、そっと、けれどもしっかりと私を抱き寄せ、スリスリと私の髪に頬を寄せている感覚がした。
いつもと違って、ふわふわしていないけれど。
ガスパールのお日様みたいなにおいがする。
……あったかい。
最後に抱き締められたのはいつだったかしら。誰かから貰うぬくもりがこんなにも、こんなにも温かいなんて、忘れていた。すっかり、忘れていたの。
目頭が熱くなった瞬間、ぶわりと涙が溢れて零れ落ちた。
「……ッ」
「わわっ、ど、どうしたリュシー!? 痛かったか!?」
「……いいえ、ちがう。ちがうの。だから、もう少しだけ、ぎゅっとしていて」
「よ、よく分かんないけど、分かった!」
涙で濡れる顔で笑顔を浮かべて見せるとガスパールは少し困りながらも、さっきより少しだけ強く私を抱き締めてくれたから、今度は私からもぎゅぅっと抱きついた。
穏やかな陽だまりのような腕の中でグズグズと泣いて、でも心の底から溢れる喜びが止まらずに笑顔でいる。……満たされるって、きっとこういうことをいうのね。
「……ガスパール、ありがとう。本当にありがとう。大好き、大好きよ」
「オレもリュシーが大好きだ!」
心の底から笑顔を浮かべて感謝の気持ちを伝えると、ガスパールは私の涙をそっと拭って満面の笑顔で微笑んで――…私の、頬に、キスをした。
驚きのあまり、思わず涙が止まってしまう。
「……ガ、ガスパール? その、……今の、は?」
「今の? いつもやってるだろ? 『大好き』とか『ありがとう』の時とか」
頬が熱くなる私とは対照的に、ガスパールはきょとんとしてそんなことを言う。
確かに私からは幸せな気持ちになった時にキスを贈っていて、ガスパールはお礼に頬擦りを返してくれていたけれど……あぁ……頬擦り、では、なかったのね。
小さな体で、一生懸命にキスを返してくれていた。
なんだか急に恥ずかしくなってきてしまって、よろよろと頬を抑えて俯くと「リュシーはしてくれないのか?」とガスパールの声が聞こえてくる。けれど、今は……とてもじゃないけれど無理だわ……
「……また、あとで、ね」
「じゃあ、オレからもう一回やる!」
「今はダメよ……」
「むぅー。いつもは何回もやってくれるのに……」
ちょっと拗ねたような声が、出来なかったキスの代わりというように私を抱き締め直した。
これも何だか恥ずかしくなってきてしまったけれど、ガスパールが楽しそうだし温かさが心地良いから、静かに体を預けて胸の鼓動に耳を傾けておく。
そうしているうちに、馬車がゆっくりとスピードを落とし始めた。夢の時間も、本当に終わりを迎えるらしい。
ガスパールに手を引かれて馬車から降りると、目の前には小さな薬屋さん。その店からすぐに魔法使いさんが出迎えてくれた。
「おかえり。随分と早かったね。王子様とは踊れたかい?」
「はい、素敵な一時を過ごさせて頂きました。素晴らしい魔法をありがとうございます」
「……魔法、というよりは、ちょっとした人脈とネズミくんが稼いだ金の力だけどね」
「だとしても、私にとっては夢のような素晴らしい魔法だったのです」
そう笑顔で告げたお礼の言葉に魔法使いさんは照れたような安心したような笑顔を返して、「楽しんでもらえたのなら何よりだ」と言ってパチンと指を鳴らした。眩しい光と体がふわりと軽くなった感覚がして、煌びやかなドレスはいつもの質素なワンピースへと変わる。
少し寂しい気持ちを胸の奥にしまって、魔法使いさんにもう一度丁寧に頭を下げて何度もお礼の言葉を伝えてから、私たちは屋敷に帰ることにした。
魔法使いさんは送ってくれると言ったけれど、屋敷は意外とすぐ近くで、少しだけ歩きたい気分だったのもあり、丁重にお断りして街灯が淡く照らし出す夜道をガスパールと一緒に歩き出した。
ちなみに、ガスパールにかけられた魔法は「そろそろ解けるはずだよ」とのことで、まだ人間の姿のまま。暗い夜道で頼もしく私と手を繋いでくれている。
その温かい大きな手を一度握り直して、ずっと聞けずにいたことを恐る恐る問いかけた。
「ねぇ、ガスパール。貴方は私の願い事を叶えたけど……私の傍から、居なくなってしまうの?」
落ち着いて、出来るだけ平常心を心掛ける。もしもお別れの言葉を言われても、ちゃんと笑顔が見せられるように。
でも、そんな私の心構えとは裏腹に、ガスパールは驚いた声を上げて足を止めた。
「えっ、なんでだ!? まだ一個しか叶えてないし、オレはリュシーとずっと一緒に居たいのに!」
「……ええと。叶える願い事は一つだけ、ではないの?」
「なんで一個だけなんだ? 願い事って、いっぱいあるだろ? オレはリュシーの願い事を全部叶えたいんだ!」
満面の笑顔でそう言い切ったガスパールは私の両手をぎゅっと握り締めると、真っすぐに私と目線を合わせながら続けて言った。
「リュシーは死にそうだったオレを助けてくれて、治ったあとも大好きだって撫でて大事にしてくれた。オレ、そんなの初めてで、毎日どんどんリュシーが大好きになっていったんだ。だから、リュシーが大好きって言ってくれる分、オレも大好きって言いたいし、リュシーの笑顔が見たい。リュシーが笑ってくれるなら何でも出来るし頑張れるから、もっとどんどん願い事を言ってくれ! 死ぬまでずっと傍にいて、全部の願い事を叶えて見せるからな!」
少し照れたはにかみ顔で胸を張っていたガスパールが「一番大好きだぞ、リュシー」と、また頬にキスをしてくれた。
「“死がふたりを分かつまで”? プロポーズみたいで、素敵ね」
溢れそうな涙を堪えて心からの笑顔を浮かべ、今度はちゃんと――いつもとは逆に私の方が背伸びをして――…キスを返した。
ガスパールは嬉しそうに声を上げて顔を綻ばせると、「さっきしてくれなかった分、もう一回してくれ!」とおねだりをしてくるものだから可愛くて、勇気を出してもう一度キスを――
「わっ!!」
「ガスパール!?」
目の前のガスパールが消えた、かと思ったら繋いでいた手の縁にネズミさんのガスパールが落ちないよう必死にしがみ付いていて、慌てて手のひらで掬い上げる。ガスパールはほっと一息吐いてから自分の体をクルクルと見渡すと「魔法終わっちゃったんだな……」と残念そうに呟いた。
そんなガスパールを顔の高さまで持ち上げて、小さなふわふわほっぺに途中だったキスを贈る。すぐに「オレもする!」と嬉しそうに私の手のひらで背伸びしてくれる姿が本当に可愛らしくて、愛おしい。
……出会った日からずっと、ガスパールには沢山のものを貰ってきた。それらが積み重なって私の心を育み、今夜貰った見知らぬ世界に飛び込む勇気が、私の背中を押してくれる。
「あのね、ガスパール。私、貴女にずっと言えなかったことがあるの」
「……? なんだ?」
「貴方は小さなネズミさんで、私にこんなことを言われても困ると思っていたの。だけど貴方は、私が思っていたよりもずっと立派な騎士様だったから、きっと困らず受け止めてくれると思う。だから、勇気を出して伝えるわ。
――…ガスパール。貴方を、世界で一番愛してる」
伝えた言葉に、ガスパールは耳としっぽをピンッと立てて立ち上がり、驚きと喜びを込めた大きな声で言った。
「“あいしてる”って、大好きよりもっとすっごい大好きのヤツだ!! オレも! オレもリュシーを“あいしてる”だ!! ……わわっ、なんかヒゲがムズムズする! 体もドキドキしてる! どうしようリュシー、オレ変かもしれない!」
「ふふっ、変じゃないわ、大丈夫よガスパール」
むにむにとヒゲの根元を擦ったり、ぴこぴこ動くお鼻を抑えたり、しっぽをぎゅっと抱きしめたり、手のひらで忙しなく動くガスパールが落ち着けるように撫でてあげる。
……正直に言えば、私もドキドキしているの。
愛している貴方に、拒絶されることなく“あいしてる”と返してもらったから。
――あぁ、お父様、お母様。
私、生きていて良かったと、今なら心の底から笑えるの。
「ねぇ、ガスパール。私、決めたわ。……一緒に来てくれる?」
「リュシーが行くなら、どこにでも一緒に行くぞ! 当たり前だろ!」
「ありがとう、ガスパール。本当に……ありがとう」
幸福と喜びが胸に満ちて、耐えきれなかった涙が零れ落ちる。
その涙を拭ってくれる小さな姿が、濡れた視界に反射する街灯の光でキラキラと輝いて、まるで夜空の一番星のようだった。
*** *** ***
一夜明けた早朝、私は古いトランクに数少ない荷物を詰めて屋敷を出た。もちろん、ガスパールも一緒に。エプロンのポケットからぴょこっと顔を出しているのがとても可愛い。
叔父一家は舞踏会の私に気付いているのかいないのか、夜遅くに帰って来てから顔を合わせることはなかった。もしかしたら彼らの朝一番に怒鳴り込んでくる可能性はあったけど、もうそこに私は居ない。好きなだけ大騒ぎすればいい。
朝の空気同様に爽やかな気分で向かう先は、魔法使いさんが居る薬家さん。
早い時間にもかかわらず出迎えてくれた彼は、少し困りながらも家に招き入れてくれた。
「ご相談させて頂きたいことがあるのです」
「……まぁ、内容だけは聞くよ」
「家を、出ようと思いまして」
失礼ながらもそう切り出して、淹れて頂いた温かいお茶を飲みながら私は相談内容を語った。
不当な扱いを受ける伯爵家から出て行くこと。
どこか遠くで生きていこうと考えていること。
それにガスパールを連れて行くこと。
その資金のために、大きな宝石が付いたネックレスを買い取って欲しいこと。
高値を請求するつもりはなく、遠くへ行けるだけの路銀代で良いこと。
迷惑ならばすぐに立ち去ること。
すべてを話し終えると魔法使いさん――彼曰く、しがない薬師さん――は、机に頬杖をついて溜息を吐き、それからしばらく考え込むように黙った後、「……何故僕にそんな話を?」と小さく問いかけた。
「買い取って下さる場所の心当たりも、そんなことをして下さる知人も居ませんので、ガスパールが信頼している貴方にまずはお話してみようと思いました。それに――…ネズミさんにお給料を出して下さるくらいですから、お金と気持ちに余裕のある方なのかな、と」
最後は少し冗談めかして言ってみると、彼は「はぁ……」と乾いた溜息を零し、またしばらく悩んだ末に「決めた。こうしよう」と言った。
「ネックレスは買い取らない。代わりにここで働いて欲しい。ネズミくん共々、給料と衣食住を保証しよう。それから、半年後には辺境の町に引っ越して、研究をしつつ薬屋をやる予定だ。それに付いて来てそのまま働いてもいいし、給料を貯めて好きなところに行ってもいい。ということでどうだろう?」
「……よろしいのですか? その、……貴方様に利益が無いように思えます」
「利益はある。研究に専念するために元々人を雇う予定であったし、君が居ればネズミくんも居てくれる。ネズミくんの薬草採取技術には結構助けられているんだ」
あまりにも好待遇で迷惑をかけてしまうのではと迷う背中を、ガスパールが「リュシーも一緒に働くのか? 楽しそうだな! ここは色々ヘンなものがあって面白いぞ!」と笑顔で押してくれた。
「……ご迷惑をお掛け致しますが、お世話になります」
「あぁ、よろしく」
迷惑をかけるせめてものお礼とお詫びにとネックレスを譲ろうとしたけれど、「それは君の資産だ。大事にするように」と断られてしまった。
……両親に仕えていた執事さんが解雇される直前にこっそりと渡してくれた、お母様のネックレス。本音を言えば手放したくなかった物。手元に残る喜びを胸に、トランクへと大切にしまいこんだ。
迷惑をかける私が言うのは失礼だけれど、彼はきっとお人好しなのだと思う。
それから、魔法使いさんこと薬師さんとしっかりと雇用契約を結んだ後、彼に遠慮なく仕事を与えて貰って働きだした。店内の清掃に薬の販売、扱う薬についての勉強、住宅部分の家事に食事の用意。忙しく大変だけれど、懸命に支えてくれるガスパールと過ごす充実した日々。
――時間はあっという間に過ぎてゆき、気付けば一年が経っていた。
私は今辺境の小さな町で、変わらず薬師さんの元で働かせてもらっている。
今までの人生を取り戻すように沢山の人と出会い、「ありがとう」と笑顔でお礼を言って貰えるこの仕事が気付けば大好きになっていた。薬草の名前や効能を一通り覚えたので、「そろそろ調剤の助手をやってみようか」と薬師さんと話し合っているところ。
思い返せば、この一年色々なことがあった。
舞踏会で踊った王子様が私を探しているとか、ついに探し当てて伯爵家の方に行かれてしまったとか、私が居なくて大騒ぎになったとか。その結果、私にしていたことが明るみに出た叔父一家は厳しく罰せられ、膨大な借金と共に伯爵家から追放。一家揃ってどこかで強制労働させられているとか。興味がないので詳細は知らない。
結局、後継者が居ない伯爵家は取り潰しになった。「名乗り出なくていいの?」と薬師さんに尋ねられたけど、令嬢として教育を受けていない私は相応しくないし、今の生活が好きだからと名乗り出なかった。
……生まれ育った家がなくなってしまうのは、両親に申し訳ない気持ちがある。でも、お父様とお母様なら、私が笑顔で居ることの方をきっと喜んでくれると思う。
「リュシー! ただいま! 帰って来たぞ!」
「お帰りなさい、ガスパール」
遠のいていた意識を呼び戻す元気な声に、私も明るく声を返す。
朝食の支度をしていた手を止めて振り返る視界に飛び込む、大きなひまわりとそれを囲む色取り取りの花。その後ろからぴょこっと、“人間姿”のガスパールが顔を出した。
「見てくれリュシー、このでっかいひまわり! キレイでカッコイイだろ! あと、赤いのと白いのと紫のとピンクの、名前知らないけどキレイだったヤツ! 全部リュシーにプレゼントだ!」
「あらあら、こんなに沢山ありがとう、ガスパール。花瓶が足りるかしら?」
「リュシー。今日も大好きで、あいしてるだぞ!」
「えぇ。私も、ガスパールを大好きで愛しているわ」
ガスパールは花束を潰さないようにそっと私を抱き締めて、まだ慣れない“あいしてる”に少し照れて頬を赤くしながら頬擦りしてくれる。そんな姿が愛おしくて笑顔が零れた。
しばらくその温もりに身を委ねてから、空いている手で鼠色の髪を何度か撫でて、「そろそろ朝食にしましょうね」と名残惜しくも離してもらう。
「今朝はなんと、トウモロコシが沢山あるのよ」
「トウモロコシ!!」
貰った花束を一旦水に浸しながら言った言葉に、ガスパールはぱぁぁっと顔を輝かせてテーブルに駆け寄ると、そこにあるトウモロコシたっぷりのサラダが入ったボウルを見るなり“ぽんっとネズミさんに姿を変えて”「すっごいいっぱいある!!」と大喜びでテーブルを駆け回った。
この一年で一番大きく変わったのはコレだと思う。
ある日ガスパールがとても希少な薬草を見つけて来て、喜んだ薬師さんが「ご褒美をあげよう。何がいい?」と聞くと、ガスパールは少し悩んでから「人間になりたい!」と答えた。思わず薬師さんと顔を見合わせてしまったのを覚えている。
「ねぇ、ガスパール。どうして人間になりたいの?」
「ブトウカイの時、すっごい楽しかったんだ! それに人間のオレ、でっかいだろ。でっかいといいことがたくさんある! リュシーをぎゅってできるし、手を握れるし、一緒に歩けるし、悪いヤツに虐められても守れそうだし、もっとでっかい花をプレゼントできそうだし――…あと、まだリュシーをクルクルしてない!」
その後も私のための“でっかいといいこと”を沢山並べてくれたガスパールに、私も薬師さんも折れてそのお願いを受け入れた。
とはいえ、薬師さんはネズミさんを完全に人間にする魔法は流石に使えないし、私はネズミさんのガスパールが見れなくなってしまうなんて嫌だったので、結果として半分、自由に人間へ姿を変えられる魔道具を作ることで願いを叶えることとなった。
一定の制限はあるものの、ガスパールは大喜びでネズミさんと人間の姿を行き来して楽しんでいる。
そして、毎晩ガスパールと手を繋いでクルクル回るのが日課になった。ダンスとは程遠い遊びだけれど、時折私をひょいと持ち上げて回ってくれるガスパールの満面の笑顔がたまらなく好きで愛おしくて、今では一番大好きな遊び。
「リュシー、まだ食べちゃダメか?」
「あ、ごめんなさい。ちょっとだけ待ってね」
ワクワクソワソワして待っているガスパールに返事をして残りのお皿をテーブルに並べ、まだ自室から出て来ない薬師さんに廊下から声をかける。……返事がないけどまた寝坊かしら?
私たちが食べ終わっても来なかったら起こしに行こうと決めて、テーブルに着く。
食べやすいように小さなお皿にサラダを分けて「どうぞ」と声をかけると、ガスパールは真っ先にトウモロコシを手に取って、それはもう嬉しそうに頬張った。食べ終わる前に次を食べ始めてしまうので、ほっぺが少し膨らんでしまっている。
……ちなみに、ガスパールはトウモロコシを食べるときは絶対にネズミさんの姿で食べている。理由は「トウモロコシがちっちゃくてイヤだ!」らしい。
「ガスパール、もっとゆっくり食べなくちゃダメよ」
「むぐむぐ……だってすっごい美味しいんだ、このトウモロコシ!」
「美味しいものはゆっくり味わうと、もっと美味しくなるのよ」
「もっと美味しくなる!? なら、ゆっくり、ゆっくりだな!」
私の言葉に興奮して、お鼻をぴこぴこさせながら何度もコクコクと頷いてくれる素直で可愛らしい姿に、胸が幸福でいっぱいになる。
「リュシーリュシー! ホントだ! もっと美味しくなった!!」
「ふふふ! 良かったわね。まだまだ沢山あるからお腹いっぱい食べてね」
「こんなに美味しいトウモロコシをリュシーと一緒にいっぱい食べられるなんて、オレってすっごい幸せだな!」
「えぇ、そうね。私もすごく幸せよ」
心の底から笑顔を浮かべて、ガスパールの頭を人差し指でクルクルと撫でた。
本当にすごく可愛くて、大好きで、愛おしい。
――穏やかで幸せな一日のはじまり。
何の色も無かった私の世界は、今日も鼠色の幸福で鮮やかに彩られている。
お読み頂きありがとうございました!
◆人物紹介
・リュシー
陰のある儚げな美人だが本人にその自覚はない。
ガスパールが大好きでその他のことに全く興味がなかったけれど、家を出てからは少し変わってきたらしい。
長年虐げられていたせいか、じっとりと湿度の高いヤンデレが垣間見えることがあり、ちょっとネズミくんが心配…と魔法使いは思っている。
・ガスパール
元気で明るく素直、勇敢で賢い、ちょっと魔力がある珍しいネズミさん。生まれて六年のため、人間から見ると言動が子供っぽい。美味しそうな葉っぱ(上質な薬草)を見つけるのが得意。
大好きなリュシーのお願いを叶えられるように、近くの林で猫や蛇や梟と死闘を繰り広げながら薬草を集めて魔法使いに納品し、引き換えに得た代金をコツコツと貯金していた。
人間の姿は体がでっかいので気に入っているが、食べ物がちっちゃいのだけは嫌。
・魔法使い/薬師
医療を営む侯爵家の三男。薬品の研究をしつつ薬屋を営んでいる。
ガスパールのことは可愛い従業員だと思っているので、恩返しがしたいと一生懸命な姿を見て、給与を美味しいパンではなく金銭で支払うことに決めた。
リュシーを舞踏会に連れて行きたいと相談された時は、「もっと早く言え!!」とブチ切れながらも一日中ガスパールと一緒に各所へ駆け回ってくれた。
どんな相手でも平等かつ冷静に、を心掛けているが結局お人好しが出てしまう人。
・第一王子様
リュシーを助けるヒーロー…になれるはずだった人。
長年の友人に「詳細は伏せるがとにかく踊って欲しい令嬢がいる」と言われて渋々了承したが現れたのがとんでもない美人で、性格に似つかわしくなく一目惚れしてしまった。
訳あり感は察していたので、せめてもう一度だけ話をと彼女を探すも、彼女は伯爵家に居ないし、長年酷い目にあっていたと知って激怒。叔父一家に出来る限りの罰を与えてくれた。
その後彼女の無事と想い人が居ることを知り、幸せを願って身を引いた…が、それはそれとしてもう一度会いたいと思っている。