映像記憶を持った少女 - 亜樹
亜樹は7歳の時、自分が「普通」ではないことに気づいた。
教室で見た蝶の標本の羽の模様、図鑑のページに並んだ恐竜の骨格、友達が描いた絵の細部まで、興味を持ったものなら、まるで写真を撮ったかのように鮮明に記憶できた。脳裏に焼き付いた映像は、何年経っても色褪せることがなかった。
しかし、その能力は諸刃の剣だった。
毎夜、亜樹はカラーで鮮明な悪夢に襲われた。昼間に見た不愉快な光景、テレビで流れた事故のニュース、医学書で見た病気の写真、それらすべてが寝ている間に蘇り、彼女を苛んだ。忘れたくても忘れられない記憶が、夜ごと彼女を責め立てた。
中学生になると、亜樹の成績は学年トップになった。だが、それは新たな孤独の始まりでもあった。
「勉強ができれば妬まれるだけだ・・・」
クラスメイトからの冷たい視線と陰口を完璧に記憶してしまう自分に、亜樹は絶望した。
高校時代、彼女は音楽に救いを求めた。楽譜を一度見ただけで暗譜できる能力を活かし、ピアノとギターを習得した。
「ミュージシャンになって、みんなを幸せにしよう」
そう願いながら演奏する亜樹の音色は美しかった。しかし、観客の顔に浮かぶ微細な表情まで記憶してしまう彼女は、人々の心の奥にある暗い感情まで見抜いてしまった。
早稲田大学では生命科学を専攻した。顕微鏡で見た細胞の形状、DNAの構造、複雑な分子式に至るまで、すべてを完璧に記憶する能力は、研究において絶大な力を発揮した。指導教授からは「君は天才だ」と称賛されたが、亜樹の心は次第に荒んでいった。
研究室で見る実験動物たちの苦痛に満ちた表情、病理標本に刻まれた死の痕跡、すべてが鮮明に記憶され、夜な夜な彼女を襲った。
二十代半ばを過ぎた頃、亜樹は抗不安薬と睡眠導入剤に手を出した。薬物の作用で記憶が曖昧になることを願ったが、それは一時的な逃避に過ぎなかった。薬が切れれば、また鮮明な映像記憶が戻ってくる。
周囲の人々は彼女の苦しみを理解できなかった。「才能があっていいじゃない」「羨ましい」——そんな言葉が、かえって亜樹を追い詰めた。
誰にも理解されない孤独の中で、亜樹は静かに壊れていった。
二十九歳の春、桜が満開に咲いた朝、亜樹はマンションの屋上から街を見下ろしていた。風に舞う花びらの一枚一枚、通りを歩く人々の表情、青い空に浮かぶ雲の形。すべてが最後の映像記憶として、彼女の脳裏に刻まれた。
「やっと、忘れることができる」
亜樹は静かにつぶやき、永遠の眠りについた。彼女の完璧な記憶と共に。