鱧の血にはご注意 その②
鼓動は止まった。人間ならこうして立ち上がるはずもない。摂理として許されない。
シャルテは階段の中央、男は踊り場に佇んでいた。
「ハモはウナギ目・ハモ科の魚。その血には毒性がある。」
男に目を向けていると、途端にその景色が霞んで見えた。
「まさしくボクは鱧の能力者なんだ。その量だともう見えないね。それに、ハモの生命力は凄まじいんだ。」
霞んだ視界は角膜を貪ったのだ、耐え難い痛みである。まるで高濃度の塩水に目が灼かれているかのようだ。
男は散歩中の鼻歌のように揚々と話を続けた。
「鱧っていう魚、心臓が止まっても生命活動が止まず、頭だけでも1日は生きると言われている。もうボクの心臓は止まっているけど、それがどうしたって感じだね?」
シャルテは再び階段を駆け上がって、踊り場にある水道を目掛けた。
当然水で目を洗浄することが適切な処置であろう。しかしただでさえ足場の悪い階段を上がる必要がある状況。サバイバルナイフを持った超人を前にすれば容易でない。
シャルテの視界はもはや光の有無を捉えることができるのみ。
一瞬暗くなった気がした。男のサバイバルナイフが目の前を縦に通ったのだ。瀬戸際の判断でそれをなんとか躱すことができた。
しかし階段を踏み外してしまい、階段の中央ほどで前傾に倒れてしまう。
その隙に男は、サバイバルナイフを逆に握り振りそれを上から落とす。鈍く刺さる音がした。
なんとかシャルテはでそれを受け止めていた。刃の半分ほどが左の手のひらを貫いており、自身の流血が腕を伝う。
「んん!」
男は気合いの入った掛け声と共に、ナイフの持ち手に体重をかけた。
痛みと重さに耐えられず、シャルテはバランスを崩して階段から転落した。
転がるのを見る上から見る男、対してシャルテはほとんど完璧とも言える受け身で着地をした。
それでも転落の鈍い痛みは体の芯に響く。
手からの流血。両目の凄まじい痛み、さらに転落。それらのダメージを一切無視して彼女はすぐに立ち上がる。
彼女は走り出した。右手の廊下の角を曲がったあたり、鉤爪の装着された右手で指を鳴らす。
「<直近記憶削除>...。」
またしても男の記憶を5秒ほど消し飛ばした。最低限の行方のくらましと相手の状況の整理に思考を向けるためである。
その能力によって男はちょうどナイフを振り下ろした頃からの記憶を失っており、それでも床に滴る血のルートが彼をシャルテの方に導いた。
シャルテは視力を失い、霧中を走っていた。肌で覚えた方向感覚を頼りに進む。
ーーここか。
20mほど走っただろうか、涼しい風が扉の隙間を抜けるのだ。そう、ここが目的地。
扉に手を当てて取っ手を探す。それをスライドさせて、彼女は入場した。職員室である。
数秒遅れてゆったりと入ってきたのは鱧人間の男。
彼は職員室の端にいるシャルテを発見。彼の目に映る彼女は怯えている様子だった。
「先生に助けでも求めにきたのかい?残念ながら今は教職員不在だね。」
男は圧倒的有利な状況を血の香りで理解して嘲笑った。体の傷の痛みなど、無に等しい。
ここでいくつかの視線に男は気づいた。ふと天井に目をやると、監視カメラがこちらをじっと見つめているようだった。
擬人的なものでなく、生き物がこちらを見ているような“眼差し”を感じ取った。
周りを見渡すと、他にも2機の監視カメラがこちらをうかがっているではないか。
シャルテのもう一つの能力、彼女は監視カメラの景色を視界を通して見ることができる。
戦闘での使用経験はもちろん、皆無。




