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番外編① アルベルトとリリスの場合(元サヤ注意)

番外編は②まであります


春の終わり、王都にまだ冷たい風が吹く夕暮れ時。

王太子アルベルトは、己の足で馬車を降りた。

見上げるのは、かつて幾度となく訪れた公爵家の館。今では、敷居が妙に高く感じられる。


「――王太子殿下がお見えとのことです」


執事が奥へと通告すると、しばらくして戻ってきた。表情は穏やかだったが、どこか堅さを含んでいる。


「リリスお嬢様より、応接間へお通しするようにとのことでございます」


アルベルトは短く頷き、応接間へと通された。あの頃と変わらぬ室内。変わったのは、迎える彼女の視線の温度だけだった。


「久しぶりね、殿下。まさか、直接いらっしゃるとは思いませんでしたわ」


遅れて部屋に入ってきたリリスは、にこりともせずに椅子に座った。その態度に、かつての愛情はもう見えない。


「……リリス、少し話がしたい。突然すまなかった」


「何の御用かしら? 噂では、新しい婚約者がなかなか見つからないそうですわね」


アルベルトは苦笑した。事実だった。打診すれば、誰もが一様に丁寧に断ってくる。理由を訊ねても答えは曖昧。まるで腫れ物にでも触るようだった。


「そうだ。誰も理由をはっきり言わない。だが……リリス、君は何か知っているんじゃないかと思って来た」


「私が?」


「君なら……正直に話してくれると思った。あの時のことも……謝りたくて来た。そして、もう一度、婚約してもらえないだろうかと頼みに来た。別に婚約者が決まらないからとか、そういう理由からではない」


リリスはしばし黙って彼を見つめた後、少しだけ視線をそらした。


「『お前みたいな性根の腐った女は王妃に出来ない』……そう仰いましたね。さすがに、今でも覚えていますよ?」


「……本当に、すまなかった。ユリアの言葉を鵜呑みにして……君を、信じてやれなかった。

あの後、よく考えてみたんだ。あの時の部屋の様子や、2人の男子生徒に対するユリアの態度。君が今まで俺に嘘をついたことはなかったこととか。

そして、ユリアの言うことはかなりおかしいことに気がついた。謝罪が遅くなってすまない」


リリスの表情は崩れない。だが、その目の奥には何かが揺れている。


「まあ、それに気づかれたのは、少し救いがありますわね。では、教えて差し上げましょう。……なぜ皆があなたの婚約を断っているのか。まあ、本人に言えるはずがないでしょうけど」


「やはり、……何か、あるのか?」


アルベルトは不安げにリリスを見た。少しだけ、リリスは唇の端を持ち上げた。微笑とも冷笑ともつかない顔。


「ユリアさんって、本人は気づいていないようですけど、性病にかかっていらっしゃるのよ。そして、性にだらしない女性だから、今も、それをまき散らしていますわ。本当は隔離した方がいいんですけど」


「……っ、なんだと?」


「在学中に聞きましたの。ユリアさんの元交際相手が性病だったって。どちらがうつしたかはわからないけど、彼女には近寄らない方がいいって、ある女生徒が教えてくれたんです」


「……なぜ、教えてくれなかった……」


「ええ。私は何度も言おうとしました。でも、あなたは、私が嫉妬しているだけだと思って、いつも怒鳴りつけていたでしょう? 『醜いぞっ! 嫉妬するなっ!』って。

あなたは、私の言うことなんて聞いてくださらなかった。あなたは、ユリアさんの言葉だけを信じていた。私のことも、アナスタシア様の忠告も、何一つ聞こうとしなかった」


「…………」


何か言おうとして、アルベルトは言葉が、喉に詰まった。

知らなかった。聞くべき声を、自分は踏みにじっていたのか。


「……俺は、なんて愚かだったんだ……」


「女生徒たちの間では、ユリアさんの病気のことは噂になっていたんです。

当時は、真偽を確かめる方法がわからなかった。でも、聞いた話によると、最近ダニエル様が発病したらしくて。それで、確定ですよね。

あっ、殿下たちは、ユリアさんのでっち上げた“与太話”を信じてらしたけど、ユリアさんと彼ら二人は、しょっちゅう三人でああいう不健全な遊びをしていらしたのよ? 

だから、ダニエル様は、ユリアさんから病気をうつされたのでしょうね。アラン様は大丈夫かしら?」


その瞬間、アルベルトの背筋が冷たくなる。


「――もしや、俺は疑われているのか……」


「ユリアさんといつも一緒にいた殿下たちは、女生徒たちに囁かれていましたわね。『殿下たちも、“あの”ユリアさんと密かに三人で“してる”のかしら』って」



アルベルトは衝撃で一瞬何を言われたのかわからなかった。

リリスは立ち上がり、最後にもう一度アルベルトを見下ろす。



「ご機嫌よう、殿下。次の王妃が見つかるといいですね」


アルベルトはリリスに向けて手を伸ばした。


「座ってくれないか、リリス。俺は、ユリアと肉体関係なんてなかった。手を握ったことすらない。誓って言える」



リリスは冷ややかな視線を返したが、無言で座った。

アルベルトは短く息を吐いた。



「……あれは、学生時代の、ほんの戯れのつもりだったんだ。今となっては、なぜ、あんなにユリアに惹かれたのか、どうしてユリアのあんな言葉を信じたのか、自分でも不思議なくらいだ」


「今はユリアさんとは会っていないんですか?」


「卒業後は一度も会っていない。何度か手紙をもらったが、全て文官に処理させている。まさか、学生時代の遊びを卒業後まで引きずらない。……もう一度、婚約者に戻ってくれないか、リリス。愚かな真似は二度としない。神に誓う」


リリスは黙っていた。

それが、アルベルトには信じるには足りない――そう言われた気がした。

アルベルトの目の奥に、悔いの色がにじんだ。


「信用できないのは、わかってる」


アルベルトは、静かに言葉を重ねた。


「だから……医師の診断を受ける。診断書を取ってくる。俺の身体に、何の問題もないってことを、正式に証明するよ。口先だけで済ませるつもりはない」


彼は真っ直ぐにリリスを見た。

その瞳には、久しく見なかったまっすぐさが宿っていた。



部屋に戻ってドアを閉めた瞬間、リリスは深く息を吐いた。

背中が壁に触れると、ようやく膝の力が抜ける。


「……バカみたい」


呟いた声は、どこか震えていた。


あんなに、見下して、信じてくれなかったくせに。

私の話なんて一度も聞こうとしなかったくせに。

それなのに今さら、“もう一度話を聞いてほしい”だなんて――


「なにが、“診断書を持ってくる”よ……。馬鹿正直すぎて、笑っちゃう……」


リリスは笑おうとしたけれど、頬は引きつり、胸の奥に残る痛みがそれを許さなかった。

思い出すのは、かつての婚約破棄の言葉。

あの冷たい目。

「性根の腐った女」と吐き捨てられた日のこと。


(許せるわけ、ないじゃない)


でも――


あのプライドの高い王太子が、身に覚えのない性病の検査を受けに行くなど、どれほどの屈辱なのか。


以前のアルベルトとは何か違っていた。

どこか、少しだけ……あの傲慢な王太子の仮面を脱ぎ捨てて、"一人の男"として謝ってきたような、そんな気がした。


(……変わったのかな、ほんの少しだけ)


それでもまだ、受け入れるには早い。

リリスはベッドの上に腰を下ろし、窓の外を見つめた。


「私は、もうあなたに振り回されない。簡単には許さないわ。だけど……」


その先の言葉は、口には出さなかった。

心の中では、ほんのわずかに温もりが灯っていた。





2週間後。

アルベルトは持参した封筒を、公爵家のテーブルの上に置いた。医師の診断書だ。

リリスはそれを手に取り中を見た。


冷たい表情を崩さなかったリリスだが、読み終わるとその瞳から、涙が1粒こぼれ落ちた。


「よかった。……アルベルト様は潔癖症だから、本当は疑っていなかったの。だけど、こうやって書面で見ると……正直、ほっとしたわ」


リリスの口調が他人行儀なものから、砕けたものに戻った。しかも涙まで流してくれている。

アルベルトの心には、安堵とほんの少しの照れくささが浮かんでいた。



「ありがとう。潔癖症か……まあ、そうだな。確かに、決まった人間以外は触れたくない。

でも、まあ、王族や高位貴族の男はその辺は弁えてるよ。婚約者以外の女性に簡単に手を出したりしないさ。どんな面倒ごとが起こるかわからないからね」



ふと、リリスは視線を落とし、低い声で言った。



「それがそうでもないのよ。ねえ、アルベルト様。サイラス様とユリアさんのこと……ご存じ?」


「なにを?」


「サイラス様は在学中、何度もユリアさんと肉体関係を持っていたのよ。寮の中でね。

そのことは、ユリアさん本人が、アナスタシア様に誇らしげに報告していたのを見たから事実よ。

だから、たぶん、サイラス様はもう遅いと思う。感染している可能性は高いわね」


アルベルトの表情が一瞬でこわばった。


「なんだって? サイラスが? そんなことは一度も!」


「性病って、発症までに時間がかかることもあるから。今は症状が出ていないだけで、感染している可能性はあるのよね」


しばらく沈黙が流れた。アルベルトは目を伏せて、低く息を吐く。


「じゃあ、サイラスとユリアの交際を止めても、もう遅いのか。逆にその二人を結婚させて、これ以上犠牲者を出さないようにした方がいいかもしれないな」


リリスは目を細めて、静かに言う。


「ええ。その方がいいわね」


「そういうことなら、サイラスを俺の側近候補からも外そう。

……公爵が生きていたら、あいつの行動を諫めていただろうに。

もともと、サイラスはそんな不誠実な男じゃなかったんだ。公爵と夫人が病気で領地に移ってから、叱れるものがいなくなってタガが外れたのかな。どちらにしろ、ユリアのことは交友関係を含め、調査してみるよ。このまま放置はできないからな」



アルベルトの声は悔しさと寂しさを滲ませていた。


それを見ながら、リリスはアナスタシアのことを想った。


アナスタシアは、隣国に渡り医師を目指してがんばっている。

私も、過去を清算して、前に進もう、とリリスは決意した。



「アルベルト様のおっしゃるとおりよ。病気が広がりを見せると深刻な事態になるわ。アルベルト様、きちんとこの件を処理してね。そうすることで、あなたの汚名は雪がれると思うわ。その上で、二度と私に酷いことを言わないと約束してくださるなら、求婚をお受けします」



アルベルトは弾かれたように顔を上げ、リリスが今まで見たこともないほどの嬉しそうな表情を浮かべた。





その数か月後、ダニエル・スペンサーから二人の元に、懺悔の手紙が届いた。


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