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4 因果応報 最終回


午後のカフェは、ちょうど陽光が差し込む穏やかな時間だった。


アナスタシアはカウンター越しに紅茶を頼み、奥の窓際の席へと歩いていった。すでにそこには、ひとりの男が座っていた。サイラス・ヴァレンティア。かつての婚約者。


彼女が椅子に腰を下ろすと、サイラスは口を開いた。



「……ダニエルから手紙が来た。君のところにも届いたのだろう?」


「ええ、読みました。彼は死ぬ間際にようやく真実を語ってくれたのね」


「まずは……謝罪したい。君の潔白を信じてやれなかった。許してくれ」



アナスタシアはカップを手に取って微笑んだ。

その笑みは、どこまでも穏やかで、けれど遠い。



「許すも何も、私、自分が潔白であることはずっと知ってたわ。

あなたにどう思われていたかなんて……今となってはどうでもいいことよ」



思いもよらぬ反応に、サイラスの眉がわずかに動く。

彼の中で、彼女をまだ"自分の婚約者"扱いしてしまう部分があるのかもしれない。



「アナスタシア。……今さらだが、君とよりを戻したい。俺たちは遠回りしてしまったが結婚しよう」



アナスタシアは紅茶を一口含み、ゆっくりとカップを置いた。



「ごめんなさい、そんなつもりはないわ。それに、あなた、ユリアさんと結婚なさったと聞きましたけど?」


「……ああ、だから、君を第1夫人というわけにはいかないが、第2夫人として迎えることにした。

アナスタシア、そんな手に職なんてつけなくてもいい。

もう、あんな汚れ仕事はやめていいんだ。僕が君に公爵夫人の地位を与えてあげよう」


「ふふっ」



アナスタシアは、サイラスの言葉をさえぎるように小さく笑った。

それは呆れとも、悲しみとも違う、何か吹っ切れたような笑みだった。



「あなた、知らないのね。ダニエル様の死因……ご存じ?」



サイラスが怪訝な顔をする。



「性病よ。彼、ユリアさんからうつされたの。

誰が最初に発病するのかと思っていたら、ダニエルが発症したのね

在学中から彼女にその噂はあった。私も、リリス様も……あなたたちに伝えようとしたけど、あなたたちは話を聞いてくれなかった」


「……なんだと?」


「私たち、心配だったのよ。あなたたちが彼女に病気をうつされることが。

でも、もうどうでもいいの。私は私の道を歩んでる。

医師になるために勉強して、ちゃんと進んでるの。

あなたもユリアさんを選んだんでしょう?」


アナスタシアは立ち上がった。

紅茶の香りがまだ、カップの上にふんわりと残っている。


「サイラス様。……あなたは、自分がまだ妻を選べる立場にいると思っているみたいだけど、性病の男の妻になりたい人なんていないわ」



立ち上がろうとしたアナスタシアの腕を、サイラスは掴んだ。



「ちょっと待ってくれ……」



腰を浮かしたサイラスの声は、さっきまでの余裕を失っていた。



「性病って……どういうことだ?  ダニエルの死因が、それだと? ユリアも性病にかかっているのか?」



アナスタシアは彼の目を真っすぐに見つめた。すがるような彼の目とは対照的に、彼女の目は静かだった。怒りも、悲しみも、そこにはなかった。

アナスタシアはもう一度椅子に腰を下ろした。



「知らなかったの? そうよね……知っていたらユリアさんと結婚なんてしないわよね。

在学中に聞いたのよ。ユリアさんの元恋人が、性病を患っていたって。

その人がユリアさんにうつしたのか、ユリアさんがその人にうつしたのか、それは分からないけれど……」



彼女は一呼吸置いて、続けた。



「危険だから近寄らない方がいいって、とある女生徒から忠告されたの。

私もリリス様も、あなたたちにそれを伝えようとした。けれど……あなたたちは聞こうとしなかったわ」


「……そんな馬鹿な……」



サイラスは手で額を押さえた。乾いた唇が震える。



「そんな話だとは知らなかった。君たちは……ただの嫉妬でユリアの悪口を言いたいのだと、思っていた。だから……ユリアを……!」


「その噂が本当かどうか、確かめる術はなかった。けれど――」


アナスタシアの声が、ほんの少しだけ強くなる。


「ダニエル様が発病した。しかもそれは治療法もない病気で、まだ若いのに彼は死んでしまった。

……それが答えよ。あの噂が嘘だったなら、彼はまだ生きていたでしょう。

あなたたちは知らなかったようだけど、ユリアさんって性的にだらしなくて、あちこちで男性と交わっていたのよ。今は落ち着いているの?」



サイラスの顔から血の気が引いていく。

毎日、着飾って出かけていく妻。女友達とのお茶会と聞いていたが、まさかあれは。


ふと彼の脳裏に、過去の情景がよみがえった――

そう言えば、あの日。卒業パーティーの控室で見た、ユリアの足の裏には赤い斑点があった。

あれは、まさか……。



「まさか……まさか、俺も……!」



アナスタシアは彼の苦悶の表情を見ながらも、声を落ち着かせて言った。



「検査を受けた方がいいわ。感染がわかったとしても、まだ特効薬は出来ていないけどね」



事も無げに言うアナスタシア。サイラスは自分が震えているのに気が付いた。



「……アルベルトはそのことを知っているのか?」


「アルベルト様は初めは知らなかったわ。だけど、同級生の家に婚約を打診した時、よくわからない理由で辞退されて、彼も何かおかしいと気付いたみたいよ。

あなたたちがユリアさんに執心していたのは有名な話だったから、どの家も感染を恐れて断っていたのね。そりゃあ相手が王太子殿下だとしても、性病持ちの男に娘を嫁がせたくないわよね」


「……」


「結局、アルベルト様はリリス様に頭を下げて婚約者に戻ってもらおうとした。そこで、彼はユリアさんの性病のことを知らされたの。

アルベルト様はすぐに検査を受けたそうよ。幸運なことに彼はユリアさんと肉体関係がなかったから、感染してはいなかったみたいね」



唇を噛んだサイラスをアナスタシアはじっと見た。



「あなたはアルベルト様と違って、学生時代にすでにユリアさんと肉体関係を持っていたでしょう?」


「それは……」


「あ、そのことはユリアさんから聞いて知っていたから隠さなくていいわ。彼女、あなたと関係を持った日は、それは勝ち誇った顔をして私に報告してきたのよ。

だから、あなたは既に感染しているのではないかと私たちは疑っていたの。それで、アルベルト様も、あなたとユリアさんの結婚を止めなかったんだと思う。あなた、彼の側近候補から外されたでしょう? 空気感染はしないけど、やっぱり一緒にいるのは怖いわよね」



続けて気の毒そうにアナスタシアは言った。



「潜伏期間は人によって様々で、その人が何年たって発症するかはわからないの。死ぬまで潜伏状態のままで終わる人もいるらしいわ。あなたもそうだったらいいわね」



サイラスは何か言いかけたが、声にならなかった。

彼の見ていた世界が、ゆっくりと崩れていく音がした。



カップの中の紅茶は、もう冷めていた。

アナスタシアは静かに椅子を引いて立ち上がると、扉の外へ出た。

春の終わりの風が、白衣の裾をふわりと揺らした。



end





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