3 ダニエルからの手紙
サイラスとの婚約が破棄されたその日、アナスタシアは静かに自室へ戻った。
部屋の奥、机の引き出しには、隠すように一通の合格通知がしまわれている。
──王立リュクス・アカデミー、入学許可証。
隣国にある、近隣国の中でも屈指の名門校。
そこで、医学を学ぶのだ。
彼女は、密かに受験し、すでに合格を手にしていた。
まさか、こういう状況で出発することになるとは思わなかったけれど。
父の侯爵にはサイラスとの仲が上手くいっていないことは話していた。
だから、婚約破棄されたことには、特に驚かれもしなかった。
ただ、サイラスの父親である公爵は心臓の病気を患い、領地で静養中である。
彼がこの婚約破棄を聞いたとき、どんな思いをするだろうかと想像したら悲しかった。
子供のころから可愛がってくれた方である。二人目の父のように慕っていた。
このショックが病気に障らなければいいけれど。
(でも、心を切り替えなきゃね)
アナスタシアは、静かに微笑んだ。
涙は、一粒もこぼれなかった。
パーティー用のドレスを脱ぎ、柔らかな部屋着に着替える。
鏡に映った自分を見つめ、ふと、思う。
(私はまだ、終わってなんかいない。結婚だけが人生じゃないわ)
ここで立ち止まるわけにはいかない。
失ったものにすがるつもりもない。
「……さよなら、サイラス」
小さな声で、呟いた。
それきり、アナスタシアは一度も振り返らなかった。
数日後、馬車に乗り、静かに国境を越える。
新しい未来に向かって。
誰にも縛られず、誰にも媚びず、自分の足で立つために。
◇
一方、サイラスは、卒業後、忙しい毎日を送っていた。
彼の父親である公爵は長年領地で病気治療を行っていた。その病気が悪化したという知らせを受けた直後、あっという間に公爵は亡くなってしまった。
若き公爵の誕生である。
サイラスは父を弔い、爵位を引き継ぎ、仕事を覚え、あわただしく毎日が過ぎていった。
その大変な生活の中で彼を支えてくれたのは、ユリアだった。
公爵位を引きついだしばらく後、サイラスとユリアは結婚した。父親の喪中であるため、結婚式は喪中開けにすることにして、彼らは新婚生活を楽しんでいた。
ユリアは愛らしい妻だった。よく笑い、よくおしゃべりをした。
頻繁に外出するのは気になったが、サイラスも忙しく、いつも相手をしてやるわけにはいかない。ユリアは社交的な女性であり、一人で大人しくしているのが苦手だった。その為、外出するのは仕方がないことだと諦めていた。
サイラスはユリアを心から愛していた。
だが、ふとした時に、アナスタシアのことを思い出した。そんな時、サイラスの心は少し傷んだ。
あの日まで、確かにアナスタシアのことを愛していたのだ。
そう言えば、最近会っていないが、アルベルトはどうしているだろう。
公爵の仕事が忙しいだろうからと、アルベルトの側近候補から外された。
以前の予定では、アナスタシアと一緒に公爵家の仕事に従事する予定だった。
そのため、アルベルトの側近をする余裕があったのだ。
ユリアは机に向かう仕事には向いていない。外に出ていないと機嫌が悪くなるため、特に公爵家の仕事はさせていなかった。
アルベルトに悪いことをしたな。喪中が終わったら、王宮に会いに行こう。
そんなある日。その手紙は届いた。
◇
サイラスのもとに、一通の手紙が届けられた。
差出人は、かつての同級生、男爵令息ダニエル──あの忌まわしい騒動に関わった人物である。
だが、その名には「死の床より」と書き添えられていた。
神父立ち合いのもとで書かれているらしく、神父の署名もあった。
封を開くと、そこには震える筆跡でこう綴られていた。
『あの日、卒業パーティーの控室でした話は、すべてあなたの妻であるユリア夫人の考えた嘘でした。
自分たちは心が弱く、ユリア夫人のついた嘘に乗ってしまいました。
本当は、ユリア夫人に誘われるままあの部屋に行き、3人で性行為をしていました。
私たちはそれまで何度も、ユリア夫人と3人で、そのようにして快楽を貪っていたのです。
そんなふしだらなことをしていたため、私は罰が当たったのかもしれません。
今、私は病気で瀕死の状態です。
あの日、3人で淫行にふけっていた現場に、王太子殿下と公爵令息に踏み込まれてしまいました。
あなたたちの怒りの凄まじさに恐怖し、嘘をついてしまったのです。
私もアランも、アナスタシア様ともリリス様とも、話したことはなく、面識すらありません。
二人は正真正銘、無実なのです。
無実の令嬢に罪を着せるなど、私たちは酷いことをしてしまいました。
もう、私の命は長くありません。
神の御前に嘘のない身で立ちたいために、ここに真実を告白します。』
そんな内容が書かれてあった。
“追伸 この手紙は王太子アルベルト様、ヴァレンティア公爵サイラス様、エヴァレット公爵令嬢リリス様、セレヴラン侯爵令嬢アナスタシア様、以上4名の方に謹んで同じ内容の手紙を送ります。”
と締めくくられている。
読み進めるにつれ、サイラスの手がわずかに震えた。
(そんな、馬鹿な……)
今、隣の部屋では、ユリアが眠っている。
彼が心酔し、全てを捧げた女だ。
ユリアを想うと、ふわりと甘い香りが漂う。
あの奔放な笑顔も、無邪気な仕草も、いまだに彼の心をかき乱す。
愛しいユリア。
君はそんな嘘をついてまで、俺が欲しかったのか?
アナスタシアたちを貶めてまで?
アナスタシア……。
次にサイラスは、あの日のアナスタシアの記憶をたどった。
あの時、信じてやれなかったのは、それまでのアナスタシアの嫉妬があまりにも激しかったからだ。
お前は事あるごとに俺を引き留め、ユリアの悪口を吹き込もうとしていたな?
でも……。
思い出すのは、幼い頃から変わらぬ、あの真っすぐな瞳。
ただ静かにサイラスを信じ続けた、あの姿。
最後に見た彼女の横顔は、絶望に染まっていた。
何も言わず、ただ、すべてを受け入れ――あの、凍った表情。
サイラスは目を瞑った。
さすがに、身に覚えのない罪で責められればああいう顔になるか。
「……アナスタシア」
サイラスは、声にならない声で、かつての婚約者の名を呼んだ。
手にした手紙が、ぽとりと床に落ちる。
自分は、彼女を地獄に突き落とした。
無実の罪を着せ、未来の公爵夫人の座を奪い、何もかも壊してしまった。
「救ってやらねば」
今さらどうにかなる話ではない。
既に、自分はユリアを妻に迎えている。自分たちの未来は変わってしまっているのだから。
それでも――
まだ、すべてが終わったわけではない。
まずは謝罪したい。
そして、何より、伝えたい。
今でも、愛していると。
サイラスは、隣国へ行く覚悟を決めた。
◇
隣国の王都にある名門アカデミー。
広々とした中庭を囲むように、重厚な石造りの学舎が並んでいる。
アナスタシアはその医学部に所属し、白衣姿で朝から晩まで実習と講義に明け暮れていた。
最初は戸惑いもあった。
消毒薬の匂い、血の気配、人体の解剖図。
それでもアナスタシアは逃げなかった。いや、逃げるわけにはいかなかった。
「私は、ただの貴族令嬢じゃない。誰かの飾り物の妻でもない。自分の力で生きてみせるわ」
そんな決意の言葉を胸に、彼女は学び続けた。
だが、アナスタシアの日々は決して孤独ではなかった。
「アナ、今日は病理解剖の実習、助け合おうね!」
「このあとカフェ行かない? あそこのハーブティー、疲れに効くんだよ」
「放課後、みんなで討論会をしないか?」
気さくで活気のある同級生たちが、彼女を自然と輪に引き入れてくれていた。
その中には少数だが女学生もいた。彼女たちも自分の足で立って生きていこうという志を持った仲間だ。
講義が終わった夕方、校舎の裏手にある小さな薬草園で、仲間たちと語らう時間が、彼女にとって何よりの癒しだった。
「君の元婚約者って、どんな人だったの? 君みたいな才色兼備な女性を振るなんて信じられないよ」と聞いてくる男子生徒に、アナスタシアは微笑んで首を振る。
「もう過ぎたことよ。あの人のことは忘れたわ。私は今の生活が気に入っているの」
「そうよ! 今更、昔の婚約者の話なんて出さないでよ! アナは私たちのアナなんだから。私たちは将来、国をしょって立つ名医になるのよ?」
「それはそうだ。元婚約者が病気になって泣きついてきても、診てやるなよ? 俺たちは世界有数の名医なんだからな」
弾けるように笑い合った。
共に学んで、励まし合う。
新しい世界。新しい人間関係。
サイラスのことは、ほとんど思い出すこともなかった。
ごくたまに、彼とのデート中に聞いた音楽が店で流れている時などに、記憶を触発されることはあった。
だが、思い出しても特に懐かしさ以上の何の感情も湧かなかった。
自分の意思で選び取った未来。
アナスタシアの思い描く未来は輝いていた。
その夜、寮に帰ったアナスタシアのもとに、実家の侯爵家から手紙が届いていた。
開けてみると、中には3通の封筒が入っている。
差出人は――
一通目は、ダニエル・スペンサー
二通目は、リリス・エヴァレット
三通目は、サイラス・ヴァレンティア
アナスタシアはしばらく封を見つめたのち、静かに封を切った。
彼女が捨てた過去が迫って来ていた。