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1 ユリアとの出会い

深夜の公爵邸。ヴァレンティア公爵サイラスは、執事に渡された一通の手紙を読みふけっていた。


その手紙の文字は涙に滲んでいて、ところどころ判読できない代物だった。


手紙の主は、かつての同級生、男爵令息ダニエル。

病に倒れ、死を目前にした彼が、最後の良心に突き動かされて綴った告白だった。


手紙の内容は恐るべきものだった。



──あの時、私たちは嘘をつきました。

──ユリア嬢に頼まれて、貴方の婚約者を陥れるために偽りの証言をしました。

──彼女は、何も悪くありませんでした。



そのようなことが手紙には書かれていた。


アナスタシアは、潔白だった。


サイラスの胸の奥が、冷たく凍りついていくのを感じた。



あの日のことを思い出す。

強い眼差して無実を訴えたアナスタシア。

すがるでも、責めるでもなく、ただ静かに己の潔白を主張していた。


(俺は……)


何を、してしまったのだろう。


頭を抱え、サイラスはうずくまるようにして椅子に座った。

彼女との関係は終わったはずなのに、心のどこかにはまだ消えない想いがあった。



──アナスタシアは、俺を許すだろうか。


許してほしい。



そしてまた、彼女をこの手に取り戻したい。


そんな、あさましい欲望が、胸の奥で疼いている。


(行かなければ)


震える手で立ち上がる。


たとえ、以前のような婚約者には戻れないとしても。

たとえ、もうあの日々は取り戻せないとわかっていても。

あの日、凛と背を向けた彼女に、もう一度だけ伝えたい。

今でも、愛していると。



(アナスタシア……)



サイラスは、彼女のいる隣国へ行く覚悟を決めた。


彼は決意に満ちた顔つきで、寝室に向かった。

寝台には、愛しい妻のユリアが眠っていた。





数年前、学生時代に話は遡る。


秋の陽が差し込む貴族学園の中庭で、公爵令息のサイラスと王太子アルベルトは、剣を合わせながら談笑していた。


そのすぐそばでは、サイラスの婚約者アナスタシアと王太子の婚約者リリスが、白いクローバーを編んで遊んでいる。


4人は幼馴染で、幼いころから婚約を交わしていた。

アナスタシアは侯爵家の令嬢、リリスは公爵家の令嬢である。



いつもの、静かで穏やかな午後。

学園での彼らの日常は、こうして互いを信頼し、支え合うものだった。


そのとき――



「まあ! こんなところに素敵な方たちの集まりが!」



軽やかな声が、彼らの輪に飛び込んできた。


振り返れば、明るい栗色の髪と薄茶色の瞳を持つ、見慣れぬ少女が立っていた。

ふわふわとした髪、眩しい笑顔、可憐な仕草。

それが、男爵家の令嬢ユリア・グレイだった。



「すみません、私もお邪魔してもいいかしら? 

リリス様、アナスタシア様とは、前からご挨拶したいと思っていたの。

だって、すごく素敵なんですもの!」



にっこりと微笑み、屈託なく言う。

リリスとアナスタシアは一瞬戸惑ったが、互いに視線を交わし、にこやかにうなずいた。


「もちろん、ユリア様。ご一緒しましょう」


それが、すべての始まりだった。





ユリアは、最初こそ礼儀正しく、控えめだった。

授業中も、休み時間も、完璧な態度で二人に接し、時には控えめな冗談で笑いを誘った。


男子生徒に対しても、礼儀をわきまえていた。

だから、サイラスもアルベルトも、特に警戒はしなかった。


だが、日が経つにつれ、少しずつ、ユリアの振る舞いは変わっていった。


たとえば、アルベルトが本を読んでいれば、隣にぴたりと寄り添い、自然なふりで手が触れる距離に立つ。

サイラスが剣の手入れをしていれば、無邪気に声をかけ、しゃがみ込んで至近距離から彼の顔を覗き込む。



「まあ、アルベルト様の手って、こんなに綺麗だったのね」

「サイラス様って、剣の手入れをする時、すごく真剣なお顔をされるのね?」



そんな時、彼らの婚約者たちの心の中に、小さな違和感が降り積もっていく。


最初に声を上げたのは、アナスタシアだった。

リリスも、遅れてそれを察し、そっと注意を促そうとした。



「ユリア様、少し距離を――」


「婚約者がいる男性に触れてはいけません」


「アナスタシア様とリリス様ったら! お二人とも、何をむきになってらっしゃるの? おかしいわ」



ユリアは、可憐な笑顔のまま、やんわりと二人をたしなめた。

そしてサイラスの袖を、無邪気なふりをして引っ張った。


「ねっ! そう思うでしょう? サイラス様!」


サイラスは、口の端に微笑を浮かべ、何も言わなかった。


それが、亀裂の第一歩だった。





日が経つにつれ、ユリアは、4人の間にさらに違和感を持ち込んでいった。


最初は些細なことだった。

サイラスとアルベルトに、ほんの少しだけ身体に触れる。

笑いながら肩を叩く、髪が乱れていると言って髪に触る。

そんな仕草に、リリスもアナスタシアも、眉をひそめるようになった。


「サイラス様……」


ある日の放課後、アナスタシアは思い切って声をかけた。


中庭のベンチに座りアルベルトを待っていたサイラスが顔を向ける。

その隣では、またユリアが無邪気に笑っていた。


「……ユリア様と、あまり、親しくしすぎないほうが……」


アナスタシアの声は震えていた。

でも、それは怒りではなく、心からの不安だった。


だが、サイラスは眉をひそめ、不機嫌そうに立ち上がった。


「君は俺の友達付き合いにまで口を出すのか?……婚約者とはいえ、そこまで干渉されるのは不愉快だ」


その言葉に、アナスタシアは絶句した。

そんなつもりではなかった。

ただ、大切な彼らを守りたかっただけなのに。




一方、リリスも、王太子アルベルトに同じように諫めた。

だが――


「リリス、お前は気にしすぎだ」

「身分の低い令嬢に嫉妬するなんて、みっともない」


アルベルトの言葉は冷たかった。


リリスは、拳をぎゅっと握りしめた。

その光景を見たアナスタシアは心の中でため息をついた。

これまでの、暖かい日々はどこへ行ってしまったのか。





そして、学園生活が、彼女たちにとって冷たいものへと変わっていった。


ティータイムでは、ユリアがいつも中心になった。

話題は最近王都で流行っている遊びの話ばかり。

そして、下品な冗談を言う。

サイラスもアルベルトも、なぜか機嫌よく聞き入り、ユリアの冗談に付き合っていた。


アナスタシアとリリスが言葉を挟もうとすると、

「今、ユリアが話しているだろう」

と、軽く注意される。



4人で並んでいたはずの学園の廊下も、今では、サイラスとアルベルト、その間にユリアがいる。

ユリアはぶら下がるように二人の腕をとって歩いている。まるで、彼らの婚約者であるアナスタシアとリリスに、彼らとの親しさを見せつけるように。

その三人の後ろに、少し距離を置いてリリスとアナスタシアが歩く、そんな構図になっていた。



アナスタシアは、そっとリリスの手を握った。


リリスも、ぎゅっと握り返してくれた。


――そろそろ潮時かもしれないわね。

――そうね。一緒に泥船に乗るのは嫌よ。


互いに、そんなふうに言い合いながらも、二人の少女の胸には、言葉にできない寂しさと、薄い恐怖が広がっていった。


 

気づけば、婚約者の心は離れていた。


まるで、最初から「愛情」などなかったかのように。





~サイラス視点~


サイラスは、図書室で、貸出禁止の本をノートに写しながら、思案にくれていた。


アナスタシアは、今日もまた、ユリアに対して過剰な反応を示した。

リリスも同様だ。アルベルトも、内心うんざりしている様子だった。


――なぜ、あの子たちはあんなに余裕がないのだろう。


サイラスには、理解できなかった。

ユリアは、たしかに明るく、多少砕けた態度をとることもあるが、それは彼女の背景ゆえだ。


彼女の実家の男爵家は、最近男爵位を金で買ったばかりなのだ。

したがって、最近までユリアは裕福な家の娘だったとはいえ、平民だった。そんな娘に、過度な礼儀を求めるのも酷というものだろう。


それに、彼女は悪意を持って距離が近いのではない。

ただ、人懐こい性格のため、誰とも親しくなりたいだけなのだ。

サイラスは、そう信じていた。



ノートを眺めながら、サイラスは静かにため息をついた。


――アナスタシアも、リリスも、もう少し大人にならなければならない。

特に、アナスタシア。あの嫉妬深い婚約者には、教え諭す必要がある。


無理に押さえつけるのではない。

言葉を選んで、忍耐強い態度で導けば、きっと彼女も理解するだろう。


婚約者として、彼女を躾ける責任が、俺にはあるのだ。



ふと、視線を上げて窓の外を見る。

中庭のベンチでは、ユリアがアルベルトと談笑している。

つややかな栗色の髪が、午後の陽光を反射してきらめいていた。


サイラスは微笑んだ。


ユリアは自由で、可憐だ。一緒にいると、気が軽くなる。

彼女のような振舞いを、アナスタシアにも少しは見習わせたい。


じっと二人を眺めていると、ユリアを他の男に渡したくないという独占欲が湧き上がってくる。

ふとしたときに、婚約者がユリアだったならよかったのに、と感じてしまうこともあった。

それについては、アルベルトも同じ意見のようだった。




だが、そのとき――奇妙な視線を感じた。


遠巻きにアルベルトたち二人を眺める女生徒たちが数人いた。

何事か囁き合い、眉を顰め、すぐに二人から目をそらす。


何を噂しているのか、わからない。

けれど、ほんの少し、胸の奥に、ひっかかりが生まれる。


 

サイラスは首を小さく振った。



――気にすることではない。


あれはきっと、王太子殿下に対する畏怖と羨望だ。

あるいは、自分たちの間にいるユリアの快活さに、嫉妬しているだけだ。


そう、何も問題はない。

俺たちは、正しい。

間違っているのは、狭量な心にとらわれた、彼女たちのほうだ。


胸中で静かに言い聞かせながら、サイラスはノートを閉じた。




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