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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

竜舞う空にさよならの鐘が鳴る

作者: まるかい

「ララ、俺と結婚してくれ。二人で幸せな家庭を築こう」


 柔らかく照らす月明かりの下、アランが緊張した声で言う。

 向き合ったララの両肩に置かれた手から、彼の熱情が伝わってくるようだった。


 ――ついに、この時が来ちゃったなぁ。


 嫌ではない。むしろ、跳び上がりそうなほど嬉しかった。

 アランは大好きな恋人だ。

 だけれど……。


「ごめんねアラン。あなたと一緒にはなれないわ」


「なっ、何でだ? 俺に嫌いな所があるなら直すから言ってくれ!」


 こちらを映す緑色の瞳が、不安げに揺れている。

 自分は今、どんな表情かおをしているだろう。


「アラン、私ね、あなたのことが好きよ。でもそれって、夢を追うあなたなのよね」


「……」


 アランの夢は、行商をしながら世界を旅して巡ること。


 子供のころから、人に聞いたり本で知った遠い地のことを、彼は面白おかしく教えてくれた。

 高い山の頂きからの眺望パノラマ、果てなく続く海の広さ、国ごと地域ごとまるで異なる文化や風俗。

 そうして大人になったなら、己の足でそこへ赴き、自らの五感でそれを感じたいと熱く語ったのだった。


 旅は、本当に危険なものである。

 商才を発揮し読みや目利きを誤らなくても、野生動物や賊の襲撃、長い移動で頼りにしていた水場が枯れていただけで、たちまち困窮してしまうのだという。


 だから、その夢の中にララはいない。

 それでも、そんな話を憧憬と共に語るアランのことが、ララはとても好きだったから――夢を諦める理由にはなりたくなかった。


 数歩下がり、アランの手から逃れる。


「所帯をもって小さく収まるあなたなんて嫌いよ。男ならどこまで通じるか、外の世界で自分を試してみなさい」


 突き放すようにそう告げると、アランは放心したようにポカンと口を半分開けていた。

 そんな理由で求婚を断られるとは思っていなかったのかもしれない。


 ララには、人生を丸ごとかけられるような夢はない。

 せいぜい好き合った相手と結婚し、子を生んで、いずれ孫を抱ければそれで十分だと思う。

 その間に、小さな幸せをなるべく多く拾えたなら、なによりだ。


 けれど、男は違うのだと聞いた。

 一度は外に出て、自分がどこまでやれるか挑戦したいものなのだとか。

 それを押し込め結婚し、すっかり白髪になったころ、「あの時、やっぱり夢を追っていれば」なんて言われたら最悪である。


 だから、求婚されたら一度は断ろうと決めていた。

 夢に向かって背中を押して、ついでに尻を蹴とばしてやるのだ。


 もちろん、無理強いするつもりもない。

 アランの夢は果たして現実的なものなのか、勝機はどの程度あるのか。

 それは、村娘のララには分からない。

 成長するにつれ、子供のころとは見えるものも違ってくるのだろう。


 別に諦めたって良いのだ。

 現実の壁の高さを知り、地に足を着けたとしても、それで嫌いになったりはしない。

 それでも、結婚を決める前に、改めてきちんと向き合って欲しかった。


 もし夢を追うことを決めた彼が遠くへ旅立ってしまったら、自分はしばらく泣き濡れてしまうだろうけれど。

 これまでの思い出を大切にして、それを寄辺に生きていこう。


 まだ十八の若い身空で世の半分は男性なのだ。他にいい出会いだってあるのかもしれない。


「あなたの人生の岐路きろよ。良く考えてね」


 声は上ずって、目の奥が熱くなる。

 吸い込まれるように、互いの顔が重なって。


 最後かもしれない口付けは、涙の温度と味がした。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 明くる日の早朝。

 村から町への帰り道、荷馬車の御者席でアランは深い溜息をついた。


 正直、求婚を断られるとは思っていなかった。

 喜んで受け入れてもらい、二人にとって思い出の夜になる予定だった。

 悪い意味で、忘れられない夜にはなったけれども。


 ズボンのポケットを探り、指輪を取り出す。

 朝の日差しにかざすと、石は緑色の光を反射した。

 今頃はララの指に納まり、自分の目と同じ色で輝くはずだったエメラルド。

 石は貴族が身につけるものと比べれば小ぶりだけれど、純度や色味など、納得できるものを長く探しやっと見つけたもので。


 情けなさに、脇の木立へ投げ捨てたくなる衝動に駆られるけれど、それさえできずに首を垂れる。


「くそっ、なかなか上手くはいかないもんだ……」


 ピュー、と自嘲を乗せた口笛は、尻すぼみに森の木々へと吸われていった。




 小さな頃から月に一度ほど、商人の父に連れられて、町から村へ泊まりで商いに向かうのが常だった。

 村は、ほぼ自給自足で回っている。

 だから持って行く商品は、村では採れない必需品の塩を除けば、胡椒や砂糖、煙草といった嗜好品の他、鮮やかに染色した糸や布など。


 代わりに村から仕入れるのは、上手く扱えば高値がつく薬の材料になる野草や、森で狩った獣の毛皮など自然の恩恵。

 村は背後を山脈、残りの三方を山麓さんろくの森に囲まれており、町へと通じる唯一の林道を除けば、深い自然に閉ざされている。


 何度か通っているうちに、アランは村の子供たちと仲良くなった。

 町で流行っていた木製パズルを見せると周りをぐるりと囲まれたし、連れて行ってもらった川遊びはずっと大笑いしているほど楽しかった。

 そうしてそんな子供たちの中に、ララがいた。


 年はアランのひとつ下。

 くすんだ赤髪を三つ編みにして、くりっとした茶の瞳とそばかす顔の可愛らしい少女だった。


 ともすれば、次の瞬間にはその辺を村の犬と走り回っている他の子供たちとは違い、少し落ち着いて、小さな子が転べばすぐ駆けつける。そんな子だった。


「アランって、子供なのに色々なことを知ってるのね。すごいわ」


 真っ直ぐな目でそう言われたから、胸の真ん中を貫かれ、すぐ好きになるしかなかった。


 それからは村へ行くたび、ララの気を引こうと懸命に努力した。

 リボンや人形など、女の子が喜びそうなプレゼントはあまり効果なし。

 町で評判の菓子は皆で分けられて。

 生齧りで知っている遠くの世界のことを話すと思いのほか喜ばれたから、つい、いつか自分もそこに行くのだと付け足した。


 そうして、子供ながらの自尊心や達成感が満たされる。


 語った夢は、人生を賭けて真に叶えたかったものではなく、彼女の歓心を得るためのハリボテだ。

 それが巡って、求婚を断られる原因になるとは、なんとも滑稽な話だと思う。


 自分は覚悟を試されたのか、それとも機会チャンスを与えられたのか。


 町に帰って日々どこかぼんやりと働きながら、それでも考える。


 これからどうしようか。

 少なくとも、ララに嫌われてはいないはずだ。


 しばらく時間をおいて、もう一度求婚の機会を待つか。

 それとも、いっそ本当に夢を追ってみるか。


 そんなことを考えていたある日、思いもかけない話が入ってきた。


 ――曰く、「村へ続く道に、竜が巣を作った」と。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 村と町をつなぐ唯一の道に、竜が巣を作ったのだそうだ。


 正確には、村からそう離れていない、道脇に建つ今は朽ちた教会堂。

 その建物の屋根と壁が一部崩れており、そこから身ごもった竜が入り、今は巣を作って卵を温めているとのこと。


 第一発見者である、森での狩りを生業にしている村の小父さんの鬼気迫る声を聞きながら、それでもララにはあまり現実味がなかった。


 ――竜っていわれてもなあ。


 絵本や物語に出てくる、あの竜だろうか。

 屈強な騎士が束になっても敵わず、時には城から姫を攫っていったりもする、あの竜なのだろうか。


 恐さよりも、せっかくなら一目でも見てみたいという好奇心が勝った。


 の竜は、翼を広げ巨大な体躯で空を飛ぶのだろうか。

 鋭い牙を並べた口から、炎を吐くのだろうか。


 わくわくとしたララを置き去りにして、村内の寄り合いで道の封鎖が迅速に決まる。

 そうして村は、孤立無援の断絶状態となったのだった。




 それからひと月ほどが経ち。

 人の出入りが途絶えた村へ、久しぶりに外から人がやってきた。


 ララが振ったアランその人である。

 いつもの荷馬車ではなく、徒歩で村に入って来た彼は、以前より若干やつれたように見える。


「やあ、久しぶりだララ。相変わらず綺麗だ。君に会えただけでも来た甲斐がある」


「アラン……あなた、どうやってここまで来たの? 竜は?」


「途中で馬車を置いて、森の中を歩いてきた。馬はどうしても竜を怖がってしまうから」


 そう言いながら、アランは背中の荷物をどさりと下ろす。


「馬車にまだ荷物が残っているから、あと何往復かするよ」


「それなら、村の男たちにも手伝ってもらいましょう」


「え、でも……大丈夫なのか?」


「あなたが来れたんだから、同じようにすれば大丈夫なんじゃない?」


 アランを村長のもとに連れていき、指名を受けた数人の男衆が集合する。

 困惑するアランを先導に、数刻後には全ての荷が村へ運び込まれた。


 夕暮れ、アランをねぎらい、村の集会場で小さな宴が開かれる。

 贅沢などできない状況のため、ご馳走が出るわけでもないけれど、それでも皆で集って酒を飲めば憂さ晴らしにはなるだろう。

 そうして、互いの情報を交換するのだった。


 アランによると、この地の領主には、すでに町からの報告がいっているのだそうだ。

 返答としては、小竜の巣立ちまで村は備蓄で耐えよ。

 巣は後であらためるので手出しをするな。とのことだった。

 竜は光るものを貯め込むことを好むため、残った巣には金銀や宝石が転がっている場合があるのだとか。

 剥がれた鱗などにも、高い値がつくのだそうだ。


 村は、割と問題なかった。

 母竜は巣から長く離れることもなく、今のところ村にやってきて人を襲うなど直接的な被害はない。

 元々、自給自足を旨としていたため、外から商人が来なくともすぐに生活が立ち行かなくなることはなかった。

 それでも、特に調味料や香辛料など、村にはないものもある。

 日を追うごとに薄くなっていく食事の味付けは、村人たちの表情をわかりやすく暗くさせた。


「子供の頃から通ってるんだ。今の村に必要なものを持ってきたよ」


 アランが運び込んだ木箱の蓋を開ける度、村人たちから歓声があがる。


「混じりのない塩だ!」

「砂糖と胡椒よ!」

「やった、強い酒と煙草だ!」


 喜びに沸く村人たちを横目に、村長が揉み手をしながら媚びた声でアランへ尋ねる。


「そ、それでアランよ……今回の品はこれまでと比べ、どのくらい割高になるのだろうか?」


「そうですね、なにせこんな状況ですので……」


 揉み手を止め、固唾かたずを呑む村長。


「困った時はお互い様、お得意様には誠実にがうちの信条モットーです。これまでと同じで結構ですよ」


 アランはにっと口端を上げて、悪戯いたずらが成功した子供のような顔をした。

 ドキリと胸が跳ねる。

 時折見せる、彼のこんな表情が好きだった。


「おお、アランよ、感謝する!」


 喜色を浮かべた村長が、アランの杯に酌をする。

 村娘のララにだって、さすがに取引の天秤が釣り合っていないくらいのことはわかる。


 ――私がいるから、特別扱いなのかしら?


「ちょっとアラン、大丈夫なの?」


 隣にいるアランにだけ聞こえるよう、小さな声で聞いてみる。


「仕入れ値は変わってないんだから、商売としては問題ないよ。あとは俺の命とか安全をどう見積もるか次第だけど、まあ、いいんじゃないか。こんな非常事態だし、たまには自分をまるごと賭けるのも悪くない」


「私のために無理していない?」


「うーん、そんなことはないよ。親父の許しも貰っているし、店の方針に従ってるだけさ。この村には子供のころから通っているんだ。恋人に求婚して振られたからって、足元を見たりはしないよ」


 アランが眉を下げ困ったような顔をするから、それ以上は何も言えず、手の甲をそっと彼の手に掠らせる。

 今夜は眠りに落ちるまで、もらったこの刹那の温もりを大事にしよう。




 それからもアランは荷を担ぎ、以前とそう変わらない頻度で村を訪れた。

 その度に村からは熱烈な歓迎を受け、今や救世主のような扱いである。


 ララは労いの言葉と共に、アランの好物料理を作ってやる。

 玉子の炒りつけ。

 ふんわりと焼いた玉子。具材は肉や野菜にキノコなど、その時に使えるもの。

 嬉しそうにかっこむアランを見ていると、胸が満たされる気がした。

 

 温めていた唯一の卵は無事にかえり、母竜は獲物を探して空をうろつくようになった。

 アランが町で調べたところ、竜というものは基本、人間を襲うことはないのだそうだ。

 いよいよ子供が腹を空かせたら、どうなるかはわからないけれど。


 村からも、初めの頃は決死隊のような様子で男衆が偵察に出ていたけれど、最近はかなり緩んでいる。

 やれ雛の目がまだ開いてなくて可愛いかっただの、うんぬんかんぬん。

 毎日、少しずつ巣との距離を詰めて行くものの、母竜は人にあまり興味を寄せず、小竜に危害をくわえない限りは静観しているそうだ。


 竜という生き物は、本来はもっと北の寒い地で生きるのだという。

 小竜が飛べるようになれば、そこへと渡っていくのだろう。


 村人たちは各々、勝手に小竜に名前を付け、いつ巣立つのか賭けをしている。

 ララもまた、まだ見ぬ小竜に『エイドリアン』と名付け、なけなしのへそくりを張ったのだった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 孵って半年が過ぎ、そろそろ小竜が飛べる時期がやってくる。


 アランが感じる村の総意は、『いなくなるのは寂しいけれど、やっぱりすごく迷惑だから早く巣立って欲しい』である。

 竜の親子が去る、もうすぐに訪れるだろう非日常の終わりを、村人たちはどこか惜しむようにして待っている。


 いつものように村へ運ぶ商材の手配をしていると、店の外がにわかに騒がしくなった。

 店の木戸がやや乱暴に開けられて、入ってきたのは三人の男性。


 先頭はまだ成人前、十五歳ほどといった青年。

 貴族らしい豪奢な装束を纏っている。


 後ろの二人はがたいの良い壮年の男性。

 青年の護衛なのだろう。マントの下には革製の鎧が見えた。


「アランというのはお前か?」


 貴族然とした青年が、居丈高に訊ねてくる。


「はい、私がアランでございますが……」


 頭を下げてそう答えながら、なんだか、とても悪い予感がする。


「竜の巣へ案内をしろ。お前は何度も通っていると聞いて来た」


 青年はここの領主の嫡男で、竜を討って泊をつけたいのだそうだ。


「悪竜を退治したなら、父上も褒めてくださるだろう。剥製にして王に献上すれば、褒美に新たな爵位や領地を頂けるかもしれない」


 青年は都合の良い未来をうたっているけれど、後ろに控える護衛たちは、困ったような顔をしている。

 気を吐く青年の輪郭は全体的に丸く、日々武の鍛錬をしているようには見えなかった。


「一本道ですので、案内は不要と存じますが……」


「それでも、あとどれくらい距離があるか等、わかる事もあるだろう。勘違いするな。私は頼んでいるのではなく、命じているのだ」


「はい……拝命いたします」


 平民が貴族にこのようにいわれたら、断れるわけもない。

 気づかれないように、細く長いため息を吐いた。

 このバカ息子は、本当に竜を殺せるなどと思っているのだろうか。


 見たことがないから、そう思えるのだろう。

 一度でも実物を見たならば、あれが人の手には余る存在なのだとすぐに分かるはずだ。


 翌日の出発時刻などを一方的に告げ、一行が店を出ていく。

 その夜、アランは久しぶりに強い酒をあおった。




 明くる日、げんなりしながら、村へ続く森の中の道を行く。

 徒歩のアランが先導し、騎乗した貴族息子と護衛が続いた。


 やがて馬たちの足が止まった。

 軽く立ったり、地面を蹴ったりして、明らかに落ち着かない様子である。


「どうした? なぜ進まん?」


「出発前にご説明差し上げた通りです。馬は竜の気配に怖がってしまい、近くまでは進めません」


「それはお前たちが使うような駄馬の話だろう。この馬は訓練を受けた――」


 いななきと共に、馬が高く前足を上げた。

 悲鳴をあげ振り落とされた貴族息子を、アランは間一髪で受け止める。


「ぐ……クソっ。お前ら、ここからは馬を置いて歩くぞ」


 そう言って、貴族息子はアランの手をぞんざいにはねのけた。

 護衛も馬を下り、それぞれに木につなぐ。

 そうしてしばらく歩いて進むと、古い教会堂が見えてきた。


 崩れた壁の中を覗くと、母竜が丸くなっている。


 ――小竜は?


 アランが辺りを見回すと、少し離れて拓けた場所に、小竜と赤髪の娘がいた。


「ララ!」


 驚いて、何かを考える前に彼女へと駆け寄った。

 ララはきょとんとした顔をしている。


「アラン、あなた次に来るのはもう少し先じゃなかった?」


「ララ、なんでここにいるんだ!?」


「今日は私が小竜の様子見番なのよ。志望者がたくさんで、やっと私の順番が来たの」


 ララが腰の袋から取り出した果実を小竜の前に転がす。

 ピスピスと匂いを嗅いでから、ぱくりと食べた小竜は以前に見た時よりもひと回り大きくなっており、翼の形も発達しているように見えた。


 咀嚼した果実を飲み込み、「キュエッ」と鳴く仕草はとても可愛らしいけれど、それどころではなかった。


「よく聞いてくれ。今、領主様のご子息がここに来てる。竜を退治したいんだそうだ。どうなるか分からないが、とにかくここは危険だ。すぐ村に戻って――」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 アランが言い終える前に、地の底から響くように低く、それでいて布を引き裂くように鋭い咆哮が教会堂の方から聞こえた。

 地面を揺らす振動と、空気を震わす圧に、ララは足の力が抜けて尻もちをつきそうになった。


 のそりと気だるげに、母竜が建物の外へと姿を現す。

 ララには竜の顔色など読めないけれど、それでも機嫌は悪そうに見える。


 相対するのは、三人の男性。

 うちひとりはまだ体が出来上がっておらず、大人になる前の青年といった風情だ。

 おそらく彼が、アランの言っていた貴族のご子息なのだろう。


 それぞれ果敢に弓を引き、放たれた矢は母竜に当たってはいるけれど、それだけ。

 とても硬い鱗を貫けるようなものではなかった。


「クソッ、もっと矢を射よっ」


 貴族息子の焦りの声が響く。

 母竜は飛び交う矢をものともせず、まるで伸びをするように、翼を一度広げ畳んだ。


「キュー」


 母竜と貴族息子たちに目を奪われているうちに、いつの間にか、小竜が母親の足元まで移動していた。

 狙ったわけではないのだろう、けれど、矢の一本が小竜の前足を傷つけた。


 小竜が驚きと苦痛の声を上げ、母親の影に隠れる。


 母竜の在りようが、劇的に、切り替わった。

 寛容な母親から、無慈悲な女王へと。


 母竜がぐるりと巨体を巡らせると、数瞬遅れて太く長い尻尾が薙いだ。

 突風を起こし、木を何本もなぎ倒しながら尾が廻りきると、そこに貴族息子たちの姿はもうなかった。


 母竜はまだ怒りが収まらないといった様子で、地面を何度も叩いている。

 その度に足元が揺れる中、ララはアランと抱き合って震えていた。


 ゆっくりと母竜の首が巡って……。

 縦長の瞳孔が真っ直ぐにこちらを捉えている。


「なあ、ララ。このまま二人で一緒に死ぬのも悪くないけど、どちらかは助かるかもしれない方に賭けてみないか? 別々の方向に逃げよう。レディファーストだ。先に選べ」


 そう言ったアランの顔は引きつっているけれど、目には恐怖だけではない――腹を決めた覚悟の色。


「ふ、ふふっ」


 それに引っ張られたのか、勝手に口から笑いが零れる。

 限度をとっくに越えた状況に、頭がおかしくなったのかもしれない。


 己の命を賭物にした、一世一代の勝負だ。

 どうせなら小さく萎縮せず、できるだけ堂々としたかった。

 足はまだガクガクと震えているけれど、少しだけ力が戻ってきた気がする。


 ――足っ、動け。


 四つ足のような低い姿勢、実際たまに両手をつけながら、目標まで駆ける。

 ララが動くと、アランもすぐに逆の方向へ走り出した。


 足がもつれて、勢い良く地面に倒れ込む。


蜥蜴とかげ野郎ッ! こっちだ、こっちに来い!」


 アランが叫びながら、母竜に向け大きく腕を振っている。

 宝石だろうか、その手には、緑色に光るなにか。

 めすだから、野郎は違うのではないか。


 外の世界をほとんど知らないララにだって解る。

 どうやら自分は人を見る目があったようだ。


 ――私の男は、最高だ。


 母竜は真っ直ぐにアランの方へ突っ込んで行く。

 ララは半ば這うようにして崩れかけた鐘塔の石階段を登り、ようやく目的の場所へたどり着く。


 そうして、体全てをぶつけるように、全身全霊で鐘楼の鐘をついた。


 ゴーン……


 塔から下を覗くと、鐘の音に驚いた小竜が、不器用に走り出した。

 背中の小さな翼が、風を掴もうと目一杯に広がる。


 ゴーン、ゴーン……


 何度も落ちてはまた地を蹴ってを繰り返しながら、少しづつ宙にいる時間が長くなる。

 そして感覚を掴んだのか、小竜はついに空を自分のものにした。


 アランを追い詰め大きくあぎとを開けていた母竜が、上空の小竜に気付き、はたと止まる。

 辺りを圧倒する怒気が引っ込み、子の成長を喜ぶ母親の顔が戻った気がした。


 母竜が大きな翼をバサリと展開し、緩慢な動作で身を屈める。

 そうして地を蹴り、フワリと浮き上がった。


 空中で母竜が小竜と鼻先をすり合わせながら、行くべき方角を示す。

 やがて大小二匹の竜は、泳ぐように遠くの空へ溶けていった。


「エイドリアン、元気でねー!」


 そんなララの声は、鐘塔のてっぺんで、鐘に負けない位に響いたのだった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 去っていく竜の親子をぼんやり見ながら、アランはヘナヘナと、力なく地面に膝をついた。

 どうやら幸いに、ララと一緒に自身の命も拾えたようだ。


 ――本当にヤバかった。


 改めて、思い知らされた。

 人の命など、時には吹けば飛ぶように軽いものだ。


 ――けれど、いや、だからこそ、か。


 人生観というと大げさだろうか。

 すぐ近くまで迫った死により、自身の根底が大きく揺さぶられた結果、本質でないものは剥げ落ちて。

 そうして最後まで残ったものは――




 それから数日後。

 少し落ち着いたところで、アランは久しぶりにララと二人きりになった。


「ララ、俺さ、やっぱり夢を追ってみようと思うんだ。商売しながら大陸を旅して巡るよ」


「そう……あなたはとても優秀だし、度胸だってあるもの。きっと良い風が吹くでしょう」


 理不尽で残酷なこの世界。

 恐らくは奇跡のような確率で生を受け、数日前にも九死に一生を得た。

 ならば手堅く守りに入らず、さらに上乗せで全て賭けてしまうのも悪くないのではないか。

 平凡な日々を投げうって、誰も見たことのないような境地か、泥にまみれる終わりのどちらか。


 例え後者になったとしても、納得ができればそれでいいのだ。

 悪くない勝負に乗って、残念ながら届かなかったけれど、良い夢が見れたのだと。


 ちなみに、貴族息子たちは全身に傷や骨折を負いながら、それでも全員なんとか生きていた。

 移動に耐えられるようになるまでは村で養生することになり、初めの頃は食事などに文句を付けていたけれど、少し様子が変わってきたのだという。

 辺境の村での生活がどんなものか、まるで知らなかったのだろう。

 最近は畑の様子を気にして質問などをしているそうだ。

 案外、将来は良い領主になったりするのかもしれない。




 アランが村を発つ朝、見送りの中にララの姿はなかった。

 そして、集まった人々の表情もなんだか微妙である。

 怒っているような、それとも悲しんでいるような。

 ララの父親には、横腹に謎のパンチを入れられた。


 いつもと違う様子に困惑してしまうけれど、背中を押されているような気もする。


「それでは皆さん、どうかお元気で。次からは別の者が参りますので」


 御者台に座り馬に出発を促せば、荷馬車がゆっくりと動き始める。


 この村を訪れるのもこれが最後だろう。


 荷台には、村からの餞別として中身の分からない木樽が積まれていた。


 木樽からは車輪が石を踏んだりする度に、「わっ」とか「痛っ」とかの声が聞こえてくる。


 ゴーン、ゴーン……


 背後から、鐘の音が響く。

 あの後、鐘は今回の事件を解決した縁起物として村に持ち込まれたのだった。

 時刻を告げるためなどに使うのだという。

 今は半端な時間だ。おそらく、アランの先行きを願ってくれているのだろう。


 ククッ、と思わず喉から笑いが出て、肩を揺らす。

 そうして、大きく息を吸い込んだ。


「竜が出たぞ!」


「えっ、また!?」


 木樽からはっきりそんな声が聞こえ、ガタリと揺れる。

 もちろん嘘である。


 これまで何度も見てきた景色が、今はなんだか別物に見える。

 彼女が隣にいてくれるなら、未知に飛び込むのだって怖くはない。

 成功しても、失敗しても、二人で笑えれば言うことなしだ。


 ゴーン……


 最後の鐘が鳴り、やがてその余韻も終わる。


 木樽がガタガタ揺れる音を聞きながら、気分よく空を仰いだ。

 雲もない空は、どこまでも青く澄んでいて。


 アランはにっと口端を上げながら、後ろを振り返った。


読んでいただきありがとうございました。

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