第八話「母と娘」
キッチンに構える四人掛けのテーブルに、今夜は空席がふたつ。
弟は、遠征で一週間出張中。父は、珍しく付き合いで遅くなるとのことらしい。
母と二人で過ごす夜。彼女はいつも通りの段取りで掃除洗濯を済ませ、いつも通りの気遣いで仕事終わりの私を迎え入れ、いつもより若干少なめの料理を、お風呂上りに振舞ってくれた。茄子がたっぷり入った、ひき肉のドライカレー。これが美味しくて。
「茄子はね、先端ほど”うま味”がたくさんあるから、ここを切落し過ぎないようにするの。あとは、すぐに油を吸っちゃうけど、慌てて継ぎ足しはせずにじっくり炒めることね。余分な水と油は後からジワジワと外に出てくるから。そうすると、全体に焼き色のついた、甘くて美味しい茄子の出来上がり。おとうさんが苦手だから今まで使えなかったけど、ようやく出番が来たなって思っちゃった」
してやったりという感じで、両こぶしを顔の前で握りしめる。その仕草はどことなく古臭いんだけど、年相応の可愛らしさというか、やはり母は可憐だ。うん。
思い出せば、昨夜の”あれ”は焼き茄子のような味だった。ちょっと苦味が滲むんだけど、ぎゅっと甘い。噛み締めるように、うま味が口の中に染み込む。なんていうとちょっと変態っぽい。
唇が触れた、あの瞬間。彼の心はどこにあったのだろう。体のどこにスイッチがあって、いつから動き始めたのか。押したのは誰? 私じゃないよね。だって、喧嘩していたし。私が上になっていたのだって・・・・・・それは、まあ。成り行きというか。そもそも神聖な私のベットの上でのうのうと寝ている方が悪いのだ。何されようと文句を言われる筋合いはない。何がレッドカードだ。その可愛い寝顔を仕舞ってから言え。
それから彼の腕が私の肩から解れると、何も語らず、何も残さずに。尖った背中は、そのままドアノブを捻って、ぱたりと閉じて。部屋には何もなかったかのように静寂が降りてきた。これにて一件落着。
って終わりかよ! と突っ込みを入れながら、私は暗闇を抱きしめて寝た。さっきまでそこに横たわっていた、抜け殻のような温もりを感じながら。
どんな顔をしていたのだろう。わたしの背中に目があるのなら、見てみたかった。弟の・・・・・・晶の心を。ねえ、どうなってんの。教えてよ。何も分からないまま居なくなりやがって。卑怯者だ。
「優美ちゃん、なんだか嬉しそうね。いい顔してる。どこかで良い彼氏見つけたの? 図星でしょ。まったく隅に置けないんだから~」
えっ。私、笑ってました? 脳内で文句を垂れ流していた筈なんですけど。左手で頬を触りながら狼狽える私を優しく見つめる母は、うっとり頬杖をついて遠い目で語り始めた。
「懐かしいわねえ。恋をすると、頭の中にお部屋ができて、そこに棲みついちゃうのよね。愛しいカレが。ドキドキさせるようなことを言わせたり、させてみたり。なんでもしてくれるの。聞き分けが良くって、ついついどこにでも連れて行っちゃう」
母が乙女チックなことを言い始めた。でも、ふしぎとかわいい。その歳でそれが許されるのは、一部の特権階級に違いない。
母が言うように、確かにわたしの頭の中には棲みついている。リトル晶が。聞き分けはないし、ちっともいう事はきかないけれど。しかし、不思議とさみしげな顔をしたやんちゃな弟が、何かを言いたげにこっちを見ている。求めているのは私であって、リトル晶ではない。
「なーんてね。優美ちゃん、ちっともそういう話しないから。もっと”母と娘”って感じのお話したいと思ってたのよね。せっかくこうして一緒に暮らしてるんだから」
お母さんに恋バナかましちゃうような仲良し母娘なんて世にも珍しいくらいだと思うのだけど、母にとっては自然なことらしい。
そうだ。前から気になっていたこと。今なら聞けるかもしれない。
「おかあさんは・・・・・・どうしてここに? この間おとうさんにも聞いたんだけどね」
限りなくグレーゾーンなこの質問。きっと誰の嫁に行っても素敵な家庭を築きそうなこの”母”が、どうしてこんな怪しげなイベントに紛れ込んでしまったのか。私はずっと引っかかっていたのだ。
「隣の芝生は赤い。燃えるように赤い。かしら」
小鼻に指をあてて、小憎らしく考えるようなそぶりをしながら、とんだ剛速球をぶち込んできた。
「説明。・・・・・・説明を。わたしには、その独特な表現をかいつまんで理解できるほどのおつむが足りない」
母は笑った。そっと口角をあげて、肖像画のように美しく嗤う姿は、どことなく過去の人のよう。
「隣の芝生は青いっていうでしょ。でもね。どうしてもお隣さんの芝生が青いからって羨ましいなあって思えない私にとって、隣の芝生は赤いの」
きょとんとしたわたしは、スプーンで唇を薄く延ばしながら、立体的な母の瞳に吸い込まれていた。
「なぜかというと、わたしは壊してしまったから。弱くて至らないこの両手が。せっかく頑張って青々とした芝生を生やしたのに。気が付いたら真っ赤に燃えて、炭になるまで焼け焦げて」
両手を見つめる母は、少し年老いたように眉間に皺を寄せて呟く。口元がやや緩んで、舌先から掠れる声を絞り出した。
「でも、誰だってそうなのよ。今は青々とした芝生を愛でてるお隣さんも。ひとたび火が付けば、そうなるのが分かっているから、わたしは羨ましくない。隣の芝生。誰かが火をつける。だから私はここへ来たの。なにもないお庭に花を植えて、芝生を育てて。季節が変わる頃にはさよなら出来る。青々とした芝生を残してね」
百日間限定の、母と娘。ずっと見つめて来た母の背中が、どこか遠い世界の幻のように霞んできた。
「わたし、お母さんの作った庭、好きだよ。レンガを浮かべたステップも、花壇のノースポール、プリメラ、ウィンターコスモスも。みんなねぼすけ夢うつつな私を、毎朝送り出してくれて。あと少しで見納めだけど、わたしはこの庭を忘れないと思う。もちろん、お母さんのことも。人生は永いようで短いんだから、それで充分なんじゃないかな」
母はうんうんと頷きながら、小さく微笑んだ。
「優美ちゃんは、素敵なお嫁さんになるわ。うん、なりなさい。あなたを幸せにできるのは、あなた自身だけよ。他人でも、親でも、きょうだいでもない。すべては心構えしだい、だから」
鏡。ひょっとしたら私は、母に似ているのかも知れない。幾度となく家族を失いながら生きてきた私は、真っ赤に染まった芝生の上で正座して、笑顔で誤魔化して。
そして、それを見抜いてくれた弟に、わたしは傾いている。本当のわたしは、弟の前にいる。だから苦しい。切ない。頭の中に部屋を作って、お人形のような弟を住まわせている。つくづくどうしようもない姉だ。
「晶ちゃん。今頃どうしてるのかしらね」
立ち上がって食器を片付けながら、母が私をちらちら見てくる。何が言いたいのだろうか。
「一応母として忠告しておこうかしら。男の子って、自己主張する女の人が、どうも苦手みたい。なんとなく寂しいときや、察してほしい瞬間に、何も言わずに膝を貸してくれる。それだけで十分なのよ。あんまり重たくなり過ぎないようにね」
ご忠告どうも。ときに突っ走りがちな私には、胸に刻んで置かなければいけないお言葉だ。
私は、正直自分が本当はどうしたいのか。彼が何を望んでいるのか、さっぱり分からない。
でもでも。せめて、彼にとっていい”姉”であろう。
そう肝に銘じたふたりだけのディーナーは、まもなく更けて行った。