第七話「あとの祭り」
「それって喧嘩・・・・・・ですよね。弟さんと」
ああ、優雅だ。いつもと違う。
細くてきれいな指が、ヘーゼルナッツ・ラテを優しくかき混ぜる。スプーンにたっぷりの泡を含ませると、小さな唇にすうっと滑り込ませ、ひと息ついた。
普段なら目の前には餌をむしゃぶり尽くす猛獣のような存在が居るのだが、今日は水面に浮かぶ白鳥だ。稲の落穂を突いては、ぴんと首を伸ばし、可憐に嘴を拭っている。
「喧嘩というか、まあ。お互いに言いたいことを言った結果、むかむかして感情的になったというか」
恐る恐る眉を寄せながら彼女は、最大限に私の顔色を窺って小さく言葉を置きに来る。
「それを、喧嘩というのでは」
うん。一理ある。というか、それが正解だ。
「でもいいなあ。わたし、ひとりっ子だし。今は喧嘩できる存在なんていないから。言いたいこと言えるってことは、それだけ信頼してるってことですよね」
今日の相方はケイちゃん。美樹はお腹が痛いから来れないそうだ。ひとりでは寂しいから、タイミングよく休憩が重なった彼女を拉致してきた。背が高くて細い彼女と歩くとなんだか注目を浴びるようで、どことなく余所余所しくなってしまう。何時ものごとく賑やかなお昼時を迎えたこのカフェは、周りのほとんどの客が期間限定の特製アップルタルトを食べている。美樹は惜しいことをしたと、後で後悔するだろう。
「いや。それは違うんだよ、お嬢さん。人間が言いたいことを言うっていうケースは、二種類あってだね」
小首を傾げてきょとんとしたかと思えば、慌てて身を乗り出して聞き耳を立てる。彼女は女子大生で、私は高卒の社会人だから一応私より年上なんだけど。素直なところが可愛らしくてよろしい。
「まず一つ目は、相手の為を思って言う場合。今言っておかないと後々恥をかいたり、他人に迷惑をかけて痛い目を見たりする前にね。子供の躾だとか、部下の教育ってのは本来こうあるべきかな。うんうん」
テンポよく頷く彼女は、きっと筋斗雲とかにも乗れるタイプの人種に違いない。逆に疑うことを知らなさ過ぎるというか、悪い奴に騙されそうで心配になるほどだ。
「二つ目は、自分の為に言う場合。ケイちゃんが言うように、相手に期待してるって部分もあるんだけど、おおむね感情的になるのはこっちの方。自分の気持ちが一番大事だから、相手を言い負かして都合よく変えようとしている。もしくはただ気に障っただけ。お互いがそうだと、なかなか見苦しいよね」
アイスコーヒーは、とっくに空になった。ときどき氷だけがカランと音を立てて、十二月の渇いた空気に響き渡る。
「あの・・・・・・先程の話の流れからいうと、何で鞘さんが感情的になったのか。いまいちよく分からなくて」
「えっ。いやいや、あいつが小馬鹿にしたようなこというからでしょ。で、こっちも皮肉言ったら怒ったの。向こうが」
ケイちゃんはやや目を逸らしながら、きゅっと口を結んでいる。ようやく考えがまとまったのか、言い淀むのをどうにか頑張って、堰を切ったように口を開いた。
「でもそれって・・・・・・いつものこと・・・・・・ですよね。何か、決定的なひとことがあったんじゃないでしょうか。鞘さんが珍しく感情的な皮肉を言いたくなるような」
意外と核心をついてくるなこの子。そうだよ。拗ねたんだよ。私は期待していたんだ。とびきり淡くて、恥ずかしいほどに無垢な期待を。
旅から帰ってからというもの、弟は部屋に来なくなった。すでに六日間ほど続いている平穏な夜は、無限の静けさとなって私を悩ませている。
「つまり、寂しいんですね。仲直りしたらいいじゃないですか」
ケイちゃんが微笑みながらそう言うと、私は縮こまってしまう。意地というものなのだろうか。今回に限っては、私はなかなか自分を折り曲げることが出来ないでいる。いつものやつをやればいいのに。サッとポケットから取り出して。ペタッと顔に張り付けて。
「あんなこと言われたから、出来ないんですね。うんうん」
そう。あいつには見抜かれているのだ。手の内を読まれたら、もはや打つ手がない。動こうにも、動けない。
「ケイちゃんなら、どうする? こういうとき。素直になれたりするもんなの?」
「私に聞いちゃいます? あはは」
思えばこんなにしっかりケイちゃんと話すのは初めてだ。ましてや相談事のようなものまで。集荷場で針のむしろになってる彼女しかなんとなく知らないから、口を押えて悪戯っぽく笑う仕草が新鮮に映った。
「私、いまは独り暮らししてるんですけど、お母さんとうまくいってなくて。些細なことで喧嘩して、丸三年ぐらいまともに口をきいてないんです。ほんの少しお互いの価値観というか、気持ちがズレただけだったんですけど、元に戻すきっかけを逃してずるずると来てしまって」
普段は指先で千切り倒すストローの紙が、掌の中に固く握りこまれている。静かに微笑む彼女の顔が、やけに寂しげに見えた。
「時間が解決してくれる・・・・・・なんて言葉。あれ、嘘ですよ。まあ、人間関係に関してはですけど。放っておいたら、ずっとそのまま。自分の意思で、強い力を加えて直さないと。私は、そうするべきだったなあって思います。それこそ早いうちに。人生長い目で見れば一緒に過ごせる時間なんて限られてますし、もっと早く何とかしておけばよかったと後悔しても”後の祭り”なんです」
意地になっている自分というのは、それこそ”はりねずみ”だ。自分の身を護ることしか考えていない。外敵の多い自然界であればそれも問題はないが、他人と共存して生きていかなければならない人間社会において、それでは埒が明かない。まずは自分の”はり”を仕舞って、そっと相手に歩み寄らなければ。
「ケイちゃんも、仲直りできたらいいね。お母さんと」
少しびっくりした顔になったケイちゃんは、そっと私の顔を覗き込むと、両手を膝の上に置いて、ほっとしたようにまた微笑んだ。ヘーゼルナッツ・ラテの、あまいあまい香り。今度私も飲んでみようかな。
「あれ。さっき、ケイちゃん”喧嘩できる存在がいない”って言ってたけど。お母さんと喧嘩してたんじゃないの?」
ふと湧いてきた疑問を、そっとケイちゃんに投げかける。少し目を瞑ったその姿を見て、そういえば先々週くらい、彼女が急に数日間の休みを申し出たことを思い出した。
「もう終わったんです。いまさら後悔しても、あとの祭りなんです」
「夜道は危ないから、気を付けるのよ」
母に口を酸っぱくして言われている言葉を、今まさに反芻している。あの主任のせいである。用事があるからあと頑張ってねと、めんどくさい業務を丸投げして帰ってくれたおかげで、すっかり日も暮れた。世のご家庭は、家族団らんでテレビを見ながら食卓を囲んでいる時間帯であろう。民家の前を通ると、じっくり煮込んだ野菜やお肉の美味しそうな匂いが漏れて、鼻が幸せそうにうごめく。
街灯は、無口に灯りの傘をさしている。すっかり擦り切れたスニーカーで影を踏みながら、時折すれ違う排気に濡れて、家路へと歩く。
この瞬間の”孤独”というやつが、私は嫌いじゃない。賑やかでけばけばしい町並みや、濁流のような人間関係から逸れて、排水溝の中。反響する自分の声が、ひときわよく聞こえるからだ。鼻歌を歌うほど陽気ではないけど、大きな闇に紛れた私は、少しだけ膨らんだこころを、静かに抱きしめながら歩く。歩く。
しかし。ここ数日で状況は変わった。気づいてしまったのだ。わたしだけの尊い闇の片隅で蠢く、何かの存在に。
そう。邪魔者が居る。つけられている気がする。
気配を残すだけで、私に触れてこようとはしない。ひたすら観察されている。それまでずっと闇に潜んでいたのかもしれないが、ここのところは敢えてなのか、その存在を感じさせるように仕向けている気がする。巧妙で手馴れた手口だ。何だか、ただのストーカーとは思えない。
「あーやだやだ。気持ち悪い」
結局奴は尻尾を出すことも無く、私は家へと辿り着いた。家族に迷惑をかけるのは嫌だな。そっとしておいてくれないかなと、願うような気持ちをぶら下げながら、私は”家族”の戸を開く。
食卓には、晶はいなかった。食欲がないからと、もう部屋で寝ているらしい。ここのところのすれ違いっぷりには母も気が付いているようで、それでも一緒に食べるように勧めたらしいが、無愛想に返事を投げて階段を上がっていったとのこと。
「自分の意思で、強い力を加えて。・・・・・・どうやるんだろうな」
食事や入浴を終えた私は、仕事で溜まった疲れを肩や腰に目いっぱい乗せて、微睡むように階段をあがる。弟の部屋の前を通ると、何だか静まり返っている。やはりもう寝ているのか。
「あーあ、今日も休戦か」
ドアを開けると、私は急停止した。心臓に羽が生えてしまったかのように、心拍数はメーターを振り切って急上昇して、うねる心をかき混ぜ始めた。
寝ている。晶が。そう、私のベットに。
「えー・・・・・・何でここに。ちょっと意味が・・・・・・」
ここのところ襲撃がご無沙汰になっていたからか、この部屋に晶がいるのが新鮮さを伴って目に映る。
でもでも。最近の尖りに尖った背中を見慣れていたせいか、はりのない無垢な晶の寝顔が、やけに愛おしくて、胸をぎゅっと掴む。そっと顔を近づけると、あたたかな寝息が頬にかかった。
そういえば、調べたんだ。あれから。結局どうしても意味が気になって。
「”据え膳食わぬは女の恥”・・・・・・ですか。そうですか」
一般的な状況とは全く真逆であるし、相手は意識がない状態だ。しかし、ここのところ疲れているであろう晶の唇が、やはり渇いていて、潤いを欲していて。
晶は明日からまた遠征。しかも一週間。また、しばらく会えない。
「ああ、だめなやつ。だめなやつ。うん。だめなんだから・・・・・・」
そう呟きながら、わたしは晶の上になる。微睡む心が、唐突に無意識を伴って、そっと顔を近づける。そう、あと一センチ・・・・・・。
ぱちり。目が開いた。そう、わたしではなく、下になっている男、晶さんのお目目が。
息がかかるほどの至近距離で、無言で見つめ合うふたり。ああ、どうしよう。引き返せない。ていうか、何で何も言わないの。っていうことは、このまま一気に・・・・・・。
「ぶーっ。レッドカード。退場だね、ねえちゃん」
やっと開いた口から出たのは、無情な宣告だった。頭がやかんのように沸騰し始めた私は、全身のばねをフルに使って、ベットから飛びのいた。顔が見れない。さっきの状況を何と説明すれば、ああ嫌だ。消えたい。この空間が怖い。どうしよう。
ベットの隅で小さくなって背中を丸め、肩を震わせたまま時間が過ぎる。カチコチと秒針。もうすぐ日付が変わる頃だろうか。このまま夜が明ける気がしない。長い長い夜が、私の中に延々と続いていそうで、意識が朦朧となった。
「ねえちゃんさ。キスとか・・・・・・したことあんの?」
晶が口を開いた。えっそれどういう意味? そんなのあるようで・・・・・・あるわけがないし。実は無いし。笑顔をびしばし張り付けていたから、学生時代は男子に告られて付き合っちゃったりしたけど、結局ボロが出るのが怖くてなにもなく別れちゃったり。ああ、結局そうなんだ。私はどきつい針を幾重にも重ねて並べてさ。自分で近づけない様にしてるんだ。そのくせいい人ぶって、優しいふりをしたり。いつもそう。でも私だって・・・・・・
「こうやるんだよ、ほら」
えっ。なになに。
剥き出しになったわたしの感情が、柔らかくほぐれて、混じりあうように。それは底がないほどに甘くて、少しの渇きを伴った感触。そして、一瞬で終わった。
肩に回された手が、少し筋肉質なんだと知る。
彼が弟であるという形式的なことなど、この瞬間、覚えているはずはなかった。