第六話「思い出作り」
「は~い、はいはい!」
食卓に鳴り響いていた箸の音が、ぴたりと止んだ。
「え、あ・・・・・・どうぞ、お母さん」
他にいるはずもないから、私が言うしかない。一家四人で食卓を囲んでテレビを見つめるという無垢な時間を、唐突に突き上げた母の右手が破ったのだ。
「旅行! 旅行に、行きたいです! 行きましょー!」
テレビには熱海を巡る旅番組が流れていて、源泉かけ流しの湯に浸かりながら鼻歌を歌うおじさんの顔がアップで映し出されていた。
「良いよ。行ってきなよ。ごはんとか、掃除とか洗濯とか。少しくらいみんなでどうにかなるし」
口の中に白飯を転がしながら、腫れぼったい目でこぼす弟。その言葉に、対面の父も小さくうんうんと頷く。
「ち・が・う! みんなで。”家族旅行”に行くの。いいじゃない? せっかく家族になったんだし、思い出沢山作らなきゃ」
母がふくれっ面で眉をしかめる。私はいつもの笑顔を張り付けて心なく笑っているのだが、内心いつかはこの時が来るんじゃないかと思っていた。ここのところ毎日、わざとらしく旅番組にチャンネルを合わせては、いいなあ、とか。行ってみたいなあとか。アピールに余念がなかったからだ。
「だってさ~。みんなで暮らし始めて一か月以上たつのに、四人揃うのは晩御飯のときだけだし。今いちまとまりがないっていうか、もっと絆を深めなきゃって思ったの。ねえ、いいでしょう?」
母は何故か真っすぐ私の方を見ている。父と弟のガードが堅いと悟ったのか、私を味方につけて突破口を開こうとしているに違いない。とはいえ、私とて素直に賛同できない。天然美人なお母さん。不愛想頑固おやじ。意味不明自由人弟。誰がお守りをするのだ? 私だ。
「そこまで言うなら」
空気が変わる。みんなの注目が集まった先は、父だ。
「私が車を出す。古い知り合いに、旅館をやっている奴がいてな。つてで色々と負けてくれるだろうから、そこにすればいい」
お母さんが笑顔を咲かせて拍手喝采する。弟と私は目線を合わせてげんなりしているのだが、父が乗ったインパクトで情勢は決まった。テレビの中では、突然降りだした大雨に大慌てでレポーターが雨宿りをしていた。にわか雨とは、まさにこのことのようだ。
「そっちは裏側だ。こっちへ来なさい」
ピースサインを頬に寄せる母と私。ポケットに手を入れる弟。母のスマホを手渡された父は、シャッターを切る前にぶっきらぼうに言い放った。
「えー。私ずっとこっちが正面だと思ってたわ。思い込みって怖いわねえ」
熱海の海をバックに、世界最大の盆栽”鳳凰の松”が両手を広げている。樹齢推定二百年のこの松は、高さは約五メートル、幅は十三メートルもある。目いっぱい下がらないとフレームに納まりきらないほどのボリュームだ。
日本庭園”天翔”は、絵画の中に迷い込んだかのような慄然とした美を、そこはかとなく放つ。そこに足を踏み入れた私は、立ち止まって五感を開放する。木々のざわめき、空気の掠れる音、せせらぎと虫たちの喧騒。
知らない場所に来ると、細胞が活動を始める気がする。ココドコ? ココドコ? って。神経の深いところまでめいっぱい空気を吸い込んで、新しい景色を身体に上書きしていく。昨日までの少し朽ちかかった私が蘇って、目を開ける。ああ、奇麗だな。いい匂い。気持ちいいなって。
「盆栽とは、風景画のようなものだ。絵筆の代わりに、はさみと針金で大自然を出現させる。眺めていると、脳裏に蘇ってくるんだ。かつて経験した自然美や、大地の声が」
父はいつになく饒舌だ。ゆらゆらと身体をゆすりながら、水筒のコップに移したお茶をすすっている。
「おとうさん・・・・・・盆栽・・・・・・似合う。前世は盆栽だったってカミングアウトされても、そんなに驚かないよ、わたし」
くすくすと微笑みをなげるわたしに、少し口を歪ませながらぷいと顔をそむける父。なんだ。まんざらでもなさそうじゃん。隣を歩く私は思春期を過ぎた娘のようで、父は照れたように背中を丸めながら、歩調を早める。
「そういえばさ。前から気になってたんだけど・・・・・・鍵。あれ、なんで?」
少しきょとんとした父は、頭の中に思い当たる場所を見つけたらしく、ため息を発する。浅黒く焼けた指で顎を触りながら、ぽつぽつ呟いた。
「防犯・・・・・・というべきかな。なあに。そのうちお前も分かるだろう」
「え? なにそれ。治安でも悪いの? あの辺って」
それ以上は何も答えなかった。謎はさらに深まる結果となり、なんだかもやもやした。そうだ。こんなに簡単に、聞けるようになったのだ。今まで立ち入り禁止だった領域は、だんだんと小さくなって。父の部屋とて相変わらず厳重に鍵をかけたままだが、こころの領域は自由に解放されていて、私はそこをうろちょろするようになった。図々しいのは、娘の特権だ。
母ははじめから優しかったし、弟はうざいくらいに懐いてくるし。気づけば”家族”という垣根のない箱の中を、自由に泳ぐ私たち。共に暮らして、五十日が経った。
「良いお部屋じゃな~い。さすがパパのお友達ね」
来宮神社の大楠から始まり、熱海城から秘宝館まで。日が暮れるまで熱海の観光スポットを堪能した私たちは、父の友人の経営するホテルに到着。脚が棒と化した私は、すぐさまベットになだれ込んだ。母はああ言うが、建物は少し古臭い。壁全面をくりぬいた広大な窓からは相模湾を一望でき、雰囲気は悪くないのだが。宿泊費は驚きの価格にしていただいたらしいので、こんなものだろう。
「私とおとうさん、お湯を頂いてくるわ。優美ちゃんたちはどうする?」
隣には、既にベットにうつぶせになって寝息を立てる晶。移動の車の中でもずっと寝ていたし、熱海を歩いている間も欠伸を連発していたから、こうなるのは目に見えていた。
「いいよ。行ってきな。あたしは晶をみてるから」
唐突に訪れた、二人だけの空間。意識を覚醒させた私とは対照的に、夢の世界に肩まで浸かっているこの背中に、そっと毛布を掛けた。
弟は最近疲れている。部活の遠征、遠征、遠征の繰り返し。この日の小旅行も、一週間に渡る長期の遠征から帰ったばかりだった。そりゃこうなる。朝から大きなスーツケースとボストンバックを両手に抱えて出ていくのは最早日常の光景で、世の中の部活高校生とやらはそんなに忙しいのかと心配になった。
「頑張っているのは分かるんだけど、何を頑張っているのかな。教えてくれないかな?」
晶の無防備なほっぺを指先でつつく。弾力のある、果実みたい。少しかさついている唇は、水分を欲しているように微かに揺れている。
愛らしい。人が寝ている姿が愛らしいのは、何故だろう。普段こんなことをしたら怒られるけど、今なら大丈夫。そうだ。針がない。ハリネズミの様に全身を護っているのが通常なら、眠りに落ちたとたん、針が引っ込んで本来の姿かたちをさらけ出すのだ。こんなに無防備で、危なっかしいのだから、守ってあげなければ。愛でてあげなければ。
晶を見つめるこの気持ちの正体は、きっとそう。そのはずだ。そうでなければ、わたしはどうしようもないやつだ。
いつかは目が覚める。そのとき、わたしはわたしでいよう。そう思いながら、指先で唇に少しだけ触れた。
「ねえちゃん、きのう俺になんかした?」
ホットサンドが手からすり抜けて落ちそうになるのを、辛うじて誤魔化した。
「え? 気づいて・・・・・・いや、寝てたからって、そうそう、毛布をだね」
「そうじゃなくて、時計。買ったばかりなのに、見当たらないんだけど。知らない?」
いやいや、その言い方は紛らわしすぎるだろう。知らないよ、といったら、弟は訝し気に口を尖らせて、何もない手首を凝視した。
「くそー。気に入ってたのにな。高いんだぜ、あれ。姉ちゃん買ってよ。ありがとう!」
生意気なことをいうので、テーブル越しに弟の頭を鷲掴みにすると、ニットをひっぺがし、マスクを引っ張ってお顔をさらけ出してあげた。
「いつまでこれしてんの? ねえねえ」
「う~ん。肌が弱くてね。日光に当たると、どんどん溶けていくんだ。まじで」
家族旅行だというのに、弟の銀行強盗ルックは相変わらずだ。美術館に入るときに、警備員に呼び止められてて笑った。
「あんたも謎が多いよね。お姉ちゃん困っちゃう」
父と母はお土産屋さんを巡るというので、私たちはカフェでまったり待つことにした。古民家を利用したこのカフェは人気のスポットらしく、皆スマホを構えて笑顔をキープしている。味わい深い木製のテーブルや椅子に、アンティークな家具がセンス良く配置されていて、どこか祖父の家の匂いがした。
「そんなこと言って。一番謎だらけなの、姉ちゃんだよ」
スプーンでカフェロシアンを混ぜながら”何気なく”言い放ったであろう言葉に、私は驚いた。
「え? 嘘だよ。どこが?」
眉をしかめる私に、弟が身を乗り出して耳打ちする。吐息がかかって少し狼狽えたが、聞き取りやすい掠れた声がやや心地よく響く。
「笑顔が固い。最初の頃、ノーメンって呼んでたよ、俺。心の中では。だからつきほぐしてやろうと思ったんだよ。あれこれいじって。それでもねーちゃん手ごわかったけどな~」
弟がやたら私に絡んできたのは、そういう事だったのか。なんだ。懐いていたわけではないのか。そうか。どうやら勘違いしていたようだ。
「悪かったわね。可哀そうな私で。好きでやってるわけじゃないっつーの。無理してでも笑わなきゃいけないときもあるの。あんたも、これから分るよ」
少し意地になってしまった。叩きつけるように置いたグラスが、重くて甲高い音を店内に共鳴させる。
「面白くも無いのに、笑えるのか。すげーな、大人って。そんなら、俺はずっとコドモでいいや」
何だ。喧嘩売ってんのか。いらいらする。
「あんたには理解できないでしょ。人の気持ちとか考えないから。相手がどう思うとか、どうとるとかさ。少しは考えてから口にしなさいよ」
口が勝手に動く。頭が沸騰している。こうなったら、もう止まらない。
「分かってんだよ!」
静まり返る店内。立ち上がった弟の、震える唇と荒い息。私は驚いてしまって、どこかの栓がうっかり抜けてしまい、頬につらつらとあふれ出て。もうだめだ。どうかしてる、わたし。
「分かろうとしてんだよ。こっちだって。だったらそんなの気にしたってしょうがないだろう。こっちが本気できかなきゃ、本気で答えられないだろ。その覚悟があるから、俺はきくんだ」
俯いてしゃくりあげる私を、弟はどんな顔で見下ろしているんだろうか。みえないから、判らない。
「少しはきいてくれよ。俺の声を。でないと、俺だって・・・・・・」
えっ何? 最後の方はよく聞き取れなかった。少しずつ遠ざかる足音と、勢いよく閉まるドアの音。取り残されたわたしは、方向感覚を失って水槽のガラスにぶつかり、気を失っている魚のようだ。
「お客様、どうぞ・・・・・・」
店員さんが渡してくれたハンドタオルに、顔を埋めて気がつく。
ひょっとしたら――いや、私は卑怯者だ。自分が息継ぎするのに必死で、代わりに誰かを足蹴にして、狭くて暗くて、重苦しい所に閉じ込めようとしている。兄をあの部屋に。母を施設に。祖父を縁側に。そして弟を――。
「あたしがどうにかできたのにな」
誰にも聞こえない様に呟いた声は、カフェロシアンの湯気に紛れて消えっていった。