第四話「冗談でしょ」
「”据え膳食わぬは女の恥”って知ってる? 鞘さんよ」
たっぷりのメープルシロップがかかった数量限定の特製スフレパンケーキがテーブルに運ばれてくると、美樹は鼻息荒く囁いた。
「あたし、馬鹿だからね。日本語苦手なの」
相変わらず目の前にアイスコーヒーだけがぽつんと佇む私を尻目に、メレンゲをたっぷり時間かけて泡立てたであろうフワフワな生地に、躊躇なくフォークを突き刺してかぶりつく。
「おいひぃ、ちょうやヴぁいこれえー」
食べながら喋るのはご遠慮願いたいのだが、あんまり幸せそうにしてるので野暮なことは言うまいと思った。
「イケメンでしょ、イ・ケ・メ・ン。女ひとりの夜更けにそんな良い匂いをしたピチピチ男子が突然やってきて耳元であれよこれよって。それはそれは。辛抱たまりませんなあ」
口の中のふわふわ触感を平らげた美樹は、悪代官のように眼光を光らせる。
「う~ん。イケメンっていうより、小動物っぽいというか。尻尾振りながらまとわりつくみたいな。なでなではしたいけど、取って食おうだなんて思わないねえ」
やや残念そうに眉を寄せると、美樹は掃除機のようにシェイクを吸い込んだ。
「まあ、弟だもんね。そう思いたいわな」
「だからないって。そういうの」
窓際の席で小石を投げ合うように言葉を交わす二人は、やはり作業着姿で浮いている。貴重なランチタイムもあと少し。窓の外には木枯らしと共に落ち葉がぱらぱらと舞っていて、長い長い冬の訪れを感じさせた。
「あーあ、今日はやだなあ。お腹痛いなあー。帰ろっかなー」
いつも隙あらばサボろうとする美樹が、ことさら憂鬱なのも分かる気がする。そう、今日はやってくるのだ。午後二時半の男が。
「お世話になりまっすー。集荷お願いしやっすー」
坊主頭に太い眉毛のいかつい中年男性の声が、集荷場にこだまする。筋肉質な二の腕には重そうな段ボールをひょいと肩に担いでいて、さわやかに八重歯を光らせている。
「あ、はあ~い。今行きますぅー」
甘い匂いに誘われた虫の様に、主任の甲高い声が飛んでくる。いつもは深々と眉間に皺を刻んでいる表情が、このときだけはひらすら緩みっぱなしだ。
「麗子さん・・・・・・匂い変えました? 俺、そういうのも好きっすよ」
「あらやだ。気づいちゃった? まったく鼻が利くんだから」
「ああ、やだ。見たくない。もうやめて」
美樹は自分のデスクに突っ伏して耳を塞いでいる。私だって溜まらない。こんなドロドロの昼ドラのような光景をライブ感たっぷりに見せつけられるのは。
もう十分にお分かりになったであろうが、主任はこの週に一度だけやってくるドライバーにハマっている。土曜日の男、哲さん。三十九歳、妻子アリ。男もまんざらでもない様子で、うんざりするほどのねっとりとした中年同士の逢引きを散々見せつけて帰っていくのだ。
「ねえ、去った? 終わった? ねえねえねえ」
美樹が机に向かって喋っている。ケイちゃんでさえも眉を寄せながらハンカチで口元を抑え、現場から頑なに目を逸らしていて、私はさっき呑んだばかりのアイスコーヒーが胃の中で逆流しそうになっていた。
「据え膳食わねば・・・・・・って言ってたのよね。ああいうこと?」
ロッカールームで美樹に聞いた。苦虫を噛み潰したような顔をして、首を横に振る。
「その光景を想像するだけでおぞましいから、もう言わないで」
なんだろう。さっぱり分かんないけど、家に帰って辞書を引くのはやめにした。知らない方がいいってことくらい、世の中にはたくさんあるだろう。
”新しい家族”との生活は、十日目を迎えていた。
相変わらず母は可愛く笑顔を振りまいているし、父は不機嫌だし、弟は・・・・・・
「ねえちゃん。あーそーぼ」
夜な夜なノックもせずに私の部屋に飛び込んでくる。いつもすっぴんで且つベットにあられもない格好で横たわってスマホをいじっている私は、そのたびに口から内臓が飛び出そうなほど驚くのだが、弟はその様子を見ると指さしてけたけた笑っている。
「いい加減にしなさい! 怒るよ!」
そう叫ぶと一瞬だけ小動物の様に縮こまるのだが、すぐにニヤリと口角を上げてこう言うのだ。
「またまたあ。冗談でしょ。本気にしないからね」
世の中の”弟”ってみんなこんなんなのだろうか。誰か教えてほしい。私は”懐かれる”という状況に慣れていない。だから、さっぱり分からない。弟との接し方が。
弟の襲撃は毎晩のように続いていて、私が疲れて眠るまでひたすら喋ったり、スマホをいじる横で茶々を入れたり。見た目は高校生なのだが、まるで子供みたいに無邪気で人懐っこい。しつこいので不愛想な感じで適当にあしらっているのだが、そんなことはお構いなし。私はあっという間に困り果てた。
「私にはそんな感じじゃないのにね。どうしてかなあ。晶くんったら」
お玉で肉じゃがの味見をしながら、にこやかに母は言う。食事中やリビングでみんなといる時は普通というか、割とすました顔をしているのだが、私が部屋に戻ったのを皮切りに、弟は豹変する。
「いいじゃない。相手してあげなさいよ。そういう愛情に飢えているのかもしれないわよ」
いやいや、そういうのってお母さんの役目でしょ。そう思いながら、私はスマホをポケットにしまう。今晩は部活の合宿で奴はいないらしいから、久々に平穏な夜を送れそうだ。
すくっと立ち上がって階段を上りかけた私の背中越しに、スマホのバイブ音が響きわたる。
「優美ちゃん。携帯忘れてるわよ、はい」
うっかり”家族用”のスマホをテーブルに置き忘れていた。このスマホは”家族”としかやりとりができないはずだから、電話を掛けた主は一人しかいない。
「もしもし、ねーちゃん? ちょっと今から出てこれる?」
合宿に行ったはずではなかったのか。どうやら最寄りの駅前にいるらしい。いそいそと身支度と軽く化粧を済ませて、パンプスを履いて駆けて行った。
終電近く、喧騒の幕が引いた駅前通り。コンクリートに月の明かりが張り付いて、私の足音が囁くように水平に響いている。改札の前に立って辺りを見渡すと、マックの二階から手を振る影が目に入る。
もしやと思って階段を駆け上がると、窓際の席でいつもの不敵な笑みを浮かべた弟がこっちを見ている。
「あなたねえ・・・・・・どうしたのよ。忘れ物でもしたの?」
テーブルには食べ残したチーズバーガーと、コーラ。上下ジャージ姿の弟は少しやつれたみたいで、いつもの猛烈なスキンシップは影を潜めていた。
「ホームシック・・・・・・ってやつかな。ねーちゃんに会いたくなってさ」
またそんな事を言う。おおかた合宿が辛くて抜け出してきたんだろう。こういうときって、優しくなだめてあげるべきなのか、厳しく叱咤すべきなのか、正直私にはわからない。だから、敢えて触れない様にして、何となく言いたいことを言ってみようと思った。
「なんでかなあ。私って、そんなに甘えやすい? 母性? 母性が滲み出てるの?」
少しおどけて言うと、弟は手を口に当てて笑い始めた。
「何よ。そんなに面白かった?」
「いやいや、それ・・・・・・」
弟が指さすので、私は肩に手をやった。しまった。すっかり忘れていた。
「あはは。走ってくる姉ちゃん、まるで灯台みたいだったよ。ひときわ光り輝いてさあ。遠くからでも分かりやすいのなんの」
夜道は車が危ないからと言って、母が無理やり私の肩に掛けた蛍光の安全ベスト。出る時は焦っていたので深くは考えなかったが、これは少し恥ずかしい。いやいや、そもそもこんな時間に急に呼び出す方がどうなの。いくら家族とは言え・・・・・・
「ねえちゃんって、不思議だよね」
「はあ。なに。不思議ちゃんって言いたいわけ?」
眉間にきゅっと軽い苛立ちを寄せて晶を睨むと、とっくに空になったであろうコーラをずるずると啜りながら奴は視線を逸らす。
「いやまあ、それもあるんだけど」
おかしい。私じゃなくて、こいつが。急にしおらしくなって、何かを言いたげに視線を泳がせている。調子が狂うったらない。
「なに。言いたいことがあるんでしょ。わざわざ呼び出して。用がないなら帰るよ」
ちょっと帰る素振りでも見せてやろうかと机に置いた右手が、あっという間に柔らかく包まれる。驚いて向き直った先には、奇麗に整った顔立ちの、透き通るような瞳が揺れていた。
「迷惑そうにしてても、どっかで俺を受け入れてくれているっていうか・・・・・・安心感、というかまあ」
いやいや、実際迷惑だから。どこまでポジティブなのこの子は。確かに邪険にしたり追い出したりはしないけど、どれほど私が困っているかビシッとこいつに言ってやらねば・・・・・・
「そういうとこ、好きかもしんない。いや、なんていうか・・・・・・好きなんだな。うん。好き」
ん? 何だ今のは。弟の口から出た言葉が、駅のホームで見送る快速列車のように猛然と通り過ぎていった。ええと。聞き間違い? さっき走りすぎてまだ頭がくらくらしているから、そうかもしれない。うん。そうだ、いつものやつでしょ、よくわからないノリの。だったらこう言うべきかな。
「またまたあ。冗談でしょ。本気にしないからね」
瞳の揺れが止まる。口元が少しだけ開いて、すぐに閉じた。一瞬だけ真顔になった気がした表情を塗りつぶして、弟は私の額を無邪気に小突く。
「焦ってんじゃん。あはは。まーいいや。そろそろ帰らないとバレるから、またね」
軽口を叩いた弟はポケットに手を入れて、後ろ手を振りながらあっという間に去っていった。あれ。私って結局何しに来たんだろう。何故呼ばれた。結局何が言いたかった? 分からないままに去っていった奴が残したのは、食べかけのチーズバーガー。もう、とため息をつきながら一口だけ齧り、再び夜道を下っていった。
しんと静まり返った夜の帳の中を歩きながら俯くと、街灯に縁取られた私の影が伸びていくのが見える。薄く長く。本当はこんなにちっぽけなのに、ぐんぐんと勝手に背伸びをしては、ふつと消えていく。
あの家で暮らす私は、本当の私ではない。そんな気がする。母の事を手伝ったり父に気を遣ったり、弟の相手をしたり。他人だから、ちゃんと接している。失礼にならないように、円滑に生活が送れるように。まるで職場での私だ。空気を読むことに一生懸命で、どこかやり場のない不安が胸の中で鳴り続けている。
でも、ひょっとしたらそれはみんな同じかもしれない。父だって母だって、ましてや弟だって。それぞれ絶対に踏み込めないというか、きつく仕舞い込んだ領域を隠し持っていて、何となくお互いに触れない様にしている。本当の姿をさらす程に、皆家族ではないのだ。
でも、それは知らない方がいいのかもしれない。気になるけれど、触れてはいけない。隠しているのだから。もやもやするけど、それがいい。世の中にはたくさんあるだろう、そのぐらいのことは。
でもでも。直感。これは何となくだけど、さっきの晶は違う。そんな殻を破ろうとしていた風に見えた。本当に、何故だか分からないんだけど、そう感じたのだ。
共に暮らし始めてから、十日が過ぎた。
そういえば、晶って何の部活してるんだろう。それすらも知らないな、私。
あいつ、私は受け入れてくれるって言っていたけど、私は彼に目を向けていただろうか。家族。いまは家族なんだから、もっと知ってゆくべきなのではないか。せっかく彼が扉から顔をひょっこり出して手招きしていたのに、私は気づきもしないでいつも携帯の画面に夢中だったのかと思うと、なんだか申し訳ない気持ちになった。
ぼんやりと灯りの浮かぶ玄関で出迎えるのは、弟のいない家。冷たい空気に、ふっと息を吐く。
やっと訪れた平穏な空間。でも少し恋しい。そう感じ始めた、十一月の夜だった。