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百日家族  作者: 高梨愉人
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第二話「いなくなった」

 わたしの記憶という名のプール。


 息を吸い込み、めいっぱい腕を伸ばして触れた底。そこは、極限までさかのぼることのできる記憶の限界点。


 アスファルトが溶かされそうな、暑い日だった。

 透き通るような碧さが広がる空に、砂を巻き込んだ排気が煙っている。わたしは口を結んで、ぼんやりと目を薄く開けながら窓の外を見ていた。門の前から、重そうな段ボールや衣装ケースを積み込んだトラックが、けたたましく空気を振動させながら遠ざかっていく。


 四歳の私と、七歳の兄。ふたりはこの日、父親を失った。


 父について覚えていることは、一切無いに等しい。物心がついてから、母と離婚して親権を放棄し、去っていったという歴然とした事実のみを知った。この日兄と並んで見送ったトラック。助手席に乗っていたであろう父が、私の中に残る唯一にして最後の姿である。


 母に関しては、よく覚えている。忘れもしない。


三人で暮らし始めてからというもの、近所のスーパーに働きに出て、女手一つで私たちを育ててくれた。母の性格は、とにかく几帳面で奇麗好き。いつもにこにこ笑っているけど、片づけや姿勢、特にマナーは普段からよく注意された。でも感情的にがみがみというのではなく、いつも私の手を握って、目を見て寄り添うように諭してくれた。その暖かさにいつもよじれた結び目がほころんで、優しい母の胸元で安心して泣いたのを覚えている。


 兄は不思議な子供だった。

 

 話しかけても視線を逸らしてぷいとどこかへ行ってしまうし、自分から感情を表現しようとしない。よくみたのは、声を発しない兄が母のズボンの裾を引っ張って、何かを訴えている光景だ。困ったように笑う母は、もの言わぬ兄の心に寄り添おうと必死に見えた。兄に対して叱ることも、喋るように唆すこともない。

 

 やがて小学校に上がった兄は、集団生活のなかで明らか浮いてしまう。周囲からは誰とも関わろうとも接しようともしない”問題児”と陰口を叩かれ、保護者である母は職員室に通い詰めた。


 病気なんじゃないか。病院に連れて行った方がいいんじゃないか。カウンセリングを・・・・・・


 先生たちには口を酸っぱくして言われていたようだが、母は頑なに兄を病院へと連れて行こうとしなかった。


「うちの子は普通です。病気じゃありません。ただ、少し物静かなだけで・・・・・・そのうち・・・・・・」


 母は常にそう繰り返していたが、状況は依然として変わることはなく。兄が中学校に上がったとき。母が壊れた。


 小学校四年生だった私は、リビングでのんびりとソファに腰かけてテレビを見ていた。キッチンから小気味よく俎板を叩くリズムや、シンクに水が伝う音がBGMのように鳴っている。


 当時は運動会の練習に明け暮れる毎日。おひさまの陽気に長いこと当てられた私は、心地よい疲れをシャワーで洗い流したあとということもあって、ぼんやりと眠気に誘われていた。


 大好きなアニメ。でも、ストーリーが頭に入ってこない。


 何とか意識を食い止めようと、唇を軽くかんだ瞬間。背後から足音が迫ってくる。無機質に、スリッパが床を擦る音。なぜだか分からないけど、その調子は異質に感じた。きっと母なんだけど、母じゃないみたい。


 気配が背中の真後ろで止まる。目を擦らせながらゆっくりと振り返ると、鬼のような形相で私を見下ろす母がいた。手には包丁が固く握られていた。


「私の悪口・・・・・・言ってたでしょ・・・・・・聞こえてるんだから・・・・・・」


 驚いた私は、恐怖のあまり泣き叫びながら裸足で家を飛び出した。ばらばらになりそうな手足を必死で動かしながら、呼吸をかき乱し走る。疲れ切った私は、隣町の知らない通りで我に返った。往く当てもなくとぼとぼと車の行き交う路肩を歩き続け、公園のトイレで野宿をして、夜回りをしていたお巡りさんに見つかった。


「ごめんね。私ったら勘違いしちゃって・・・・・・」


 迎えに来た母親の様子はいたって普通で、あの瞬間見せた鬼の姿は消え失せていた。それ以来怖くなって、私は母の目を真っすぐに見れなくなった。どんな顔をしていても、ぜんぶ嘘に見えるからだ。あの日見た鬼の姿が本当の母で、普段は作り物のような喜怒哀楽を張り付けているんだ。そう思うようになってからは、母を母として見れなくなった。


 母はどんどんおかしくなっていった。


 些細なことで声を荒げて怒ったり、トイレの中で独りでずっとぶつぶつなにか言っていたり。挙句の果てには、家に盗聴器が仕掛けられていると騒ぎ出してコンセントを全てトンカチで破壊した。買い物帰りの電車の中で突然大声で笑い出した時は、さすがに母を置き去りにしてその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。


 それから半年後、決定的な事件が起こる。

 週末に家族三人で訪れたのは、近所のファミレス。お昼時の店内は家族連れやカップルで満員。大好きなハンバーグセットを注文した私は、熱々のポテトに苦戦しつつも、中からチーズが零れだすボリュームたっぷりの極太ハンバーグを頬一杯に詰めて味わっていた。隣で兄は蕎麦を物静かに啜っている。


 母はリゾットを行儀よく口に運びつつ、穏やかに微笑んでいた。今日は大丈夫そうだなと、少し緊張が緩む。


 その時だ。しまった。足元にフォークを落としてしまい、慌ててテーブルの下に潜り込む。届きそうで届かない場所に引っかかっていて、眉間にぎゅっと力を入れて手を伸ばす。


 やっと指に絡まったフォークを握りしめ、地上に身体を起こして腰を落ちつかせた私は、ぎょっとして再びフォークが掌から零れ落ちた。


 震える唇。酸素を失ったかのように、血走った目。ぎょろぎょろとうごめく視線。ぶつぶつと何かを呟いたかと思えば、突然スプーンをテーブルに叩きつけながら立ち上がった。ずんずんと向かった先は、窓際の席にいた無関係な若いカップル。持っていたグラスを投げつけ、掴みかかったのだ。


「お前なんかに・・・・・・お前なんかにやられてたまるか! 殺す! 殺してやるからな!」


 支離滅裂なことを叫びながら大暴れした母は、周囲にいた人や店員さんに取り押さえられて。すぐさま駆けつけた警察官に連行され、そのまま自立支援施設へと入所することになった。


 私と兄は、母を失った。いや、母から逃れられたのだと、当時の私は素直に思った。


 祖父の家に身を寄せることになった私たち兄妹であったが、そこでの暮らしは私の人生でいちばん穏やかな日々であった。祖父の家は、本土からフェリーで三十分ほどの、都市から最も近い島にあった。


 海の匂い。鼻先をつんとくすぐる様な潮の香りが、海風に乗って漂っていた。早くに祖母を亡くした祖父が、ずっと独りで暮らしてきた古民家。柱や壁、天井なども継ぎはぎだらけで隙間風が吹き込み、ネズミの巣が至る所にあってうんざりしたこともあったが、母のいない毎日は解放感に満ち満ちていた。


 兄は相変わらず何も語らなかったが、祖父も負けじと何も語らない人だった。似た者同士でシンパシーを感じたのか、兄は祖父の書斎に上がり込み、本棚にあった小説を何冊か拝借しては、時間を忘れるように縁側で読みふけっていた。祖父に勧められたのか、ノルウェイの森や微熱少年、ぼくらの七日間戦争などもお気に入りのようで、夜は枕元に積んでは灯りが消えるまで没頭していたのだ。


 夕食は祖父が海で釣ってきた魚を毎日振舞ってくれた。メバルにサバにイワシ。たまにチヌ、グレなどの上物もあった。私も祖父の隣に並んでお手伝いをしたから、小学生にして、魚のさばき方はかなりのものだったに違いない。


 魚を水洗いして、鱗を取り、はらわたを抜く。頭を切落したら、三枚におろして、腹骨を取る。切り身は南蛮漬けや生姜煮にしていただいた。さばくときに出た頭や内臓や骨等のアラは、冷凍庫で保管して溜まったらアラ汁にした。これがほっぺたが落ちるほど美味しかった。


 今でも包丁を持つたびに思い出す。横に並んだ祖父の太い指。色黒で肌はガサガサ。ゴツゴツしているけど、てきぱきと器用に動く指。漁師でならした祖父は、私を高校にまで通わせてくれた。けれど、卒業式の晴れの日に、祖父の姿はなかった。


 粉雪がちらほらと漂う夜。祖父は縁側に腰かけ、朽ち果てるように冷たくなっていた。


 こんな真冬に、蛍でも見つけて灯りにつられたのだろうか。まるでじっくりと庭を覗き込むような姿勢のまま、穏やかに止まった祖父の時間。


 私と兄は、祖父を失った。これで家族を失うのは三度目だった。


 本土の企業に内定をもらった私は、祖父と暮らした島に別れを告げた。

 これからどう生きるのか。選択肢はいくつかあったのだが、私が選んだのは、兄との二人暮らしだった。


 母の一件以来、人との接触を拒むように部屋に籠りきりになった兄。祖父が亡くなるまで、とうとう学校にも通うことはなかった。それでも私にとって、最後の家族。そう、もう兄しかいなかったのだ。




「行って来いよ。気晴らし。俺は構わねーから」


 くしゃくしゃになったチラシを差し出しながら、兄は視線を逸らしていた。かさかさに乾いた唇はひび割れていて、あごには無精ひげが張り付く。あっけにとられた私の口が何かを発する前に、兄はいつもの背中を揺らしながら静かに巣へと還っていった。

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