第一話「空気」
日本語は難しい。
”空気を読む”という言葉は、私をいつもげんなりさせる。空気は飲むもんでも食べるもんでもなく、ましてや読むものでもない。確かにそこに存在するものではあるが、普段は意識すらしないものだ。
じゃあ、空気って何で出来ているのか。答えは理科の教科書を開くか、グーグル先生にでも聞けばいい。”ちっそ”が七割で、”さんそ”が二割。”あるごん”とかいう耳なじみのない成分が一割で、ほんのほんの気持ち程度に”にさんかたんそ”が混じっている。知ったところで私が息を吸う量は変わらないし、偉くもなれない。そんなことは分かっている。
でもでも。いまこの空間に渦を巻く感情とやらを可視化できるのなら。それならば是非知ってみたい気がする。
私と美樹はなかなか休憩がかぶらない。それ故、稀に作業割り当てが奇跡を起こしてくれたときは迷わずふたりは目配せをして、あのカフェに繰り出す。月にほんの一、二回くらいのささやかな贅沢であり、オアシス的な存在である。要するに、この職場はそれくらい忙しい。
額に汗を溜めたドライバーたちが忙しなく出入りする集荷場には、ときに怒号に似た叫び声がこだまし、空気が張り詰める。それは次々と持ち込まれる荷物と山のような伝票処理に忙殺される事務所内も同じで、ふたりが休憩から戻ったときにはすでにここ最近の恒例行事が始まっている。薄いため息を交わした私たちは、まるで空気のようにしれっと定位置につき、我関せずと作業を開始する。
「これで何回目? どうして同じミスを繰り返すの? 分からなかったら聞けばいいじゃない! 勝手に判断するからこういうことが起こるのよ。わかってる?!」
主任の声は甲高くて耳につく。四十代半ばにして独身の彼女は、思い通りに事がいかないと眼球が血走ってヒステリーを起こす。潤んだ目で力なく消え入りそうな返事を繰り返しているのは、二週間前に入ったばかりの新人アルバイトのケイちゃんだ。
そうだ。目を細めなくたって見えている。恐らくいまこの場の空気の八割を支配しているのは主任の”いらだち”であって、残りの二割はケイちゃんの”あせり”であろう。ほんのほんの気持ち程度に、美樹の”むかんしん”と、私の”へきえき”が混ざっている。
運送会社の受付の業務は、時給が高い。しかし、とにかく覚えることが多いわりに教える余裕が全くなくて、概ね新人は主任のいびりの対象になる。受付と言っても、単純な荷受けだけでない。お客さんやサービスセンターからの問い合わせや荷物の引き取りに対応したり、荷物の転送返品作業、パソコンへの情報入力と、業務内容は多岐に渡るからだ。
私もやられた。ケイちゃんを見ていると、一年前の私を見ているようで、胃がきりきり舞いする。
仕事は出来る。だが、とにかくドライでせっかち。そんな主任は、こっちが困っていてもとにかく聞ける雰囲気じゃないオーラを常に醸し出している。クレームや自分の荷受したものに問題が発生すると速やかに自己解決しなくてはならず、焦りが焦りを生んでパニックになること暫しであった。加えてテンパる私が目についたのか、”何やってんの? どいて! 私がやるから!”とお客さんの前で盛大にキレられることもたびたびあって、あの頃は仕事に行くのが憂鬱で仕方がなかった。
「あんなんだから独身こじらせるんだよ。ヒスばばあが」
事務所内での飲食は原則として禁止されているというのに、美樹は常に口の中に何かを転がしている。主任の目を盗むことにとにかく長けていて、忍者のように素早い身のこなしで机の下に忍ばせたスナック菓子を口に運ぶのを私は見た。
ひょうひょうとしていて、とにかくマイペース。美樹はいつもそんな感じだ。
伝票のミスを指摘されて主任に怒鳴り散らされることもあるのだが、美樹はとたんに魂が抜けたような顔になって、甲高い怒声を右から左へと華麗に受け流すのだ。打てども打てども響かない様子にさすがの主任も諦めたのか、ついには本人に直接指摘することすらもなくなり、何かあれば私を通じて言うようになった。
「私って、なんとも思わないんだよね。どれだけ詰られようが、怒鳴られようが。どこか大事な感情が欠落してんのかしら。まあ、まったく気にしてないけどね~」
ときにそんな美樹が羨ましくなることもある。しかし、彼女のようになりたいかといえば、そうは思わない。
遡ること一年半前。同期入社の私たちは、二か月間に及ぶ本部での新入社員研修を経て、この店舗に同じく配属された。当時からどことなく掴みどころのない彼女であったが、表裏の無さそうな態度に何だか心が解されて、すぐに気の置けない仲になった。半年たって、迎えた彼女の誕生日。私がプレゼントに選んだのは、彼女に似合いそうな可愛いピアス。仕事終わりに声を掛け、サプライズとばかりに手渡したのだが。
「私って、こういう感じのピアスつけない主義なのよね~。もうちょっと事前リサーチよろしく!」
悪びれも無い笑顔で突き返されたピアスは、行き場を失ってポケットの中に虚しく沈む羽目に。世の中にはこんな人間がいるのかと衝撃を受けた。
もちろんね。確かにきちんと調べない私も悪い。使いもしないものを贈られたところで処理に困るだけだから仕方がないとは思うよ。でもでもやっぱり。ピアス同様に行き場の失った私の”気持ち”はどうなるのか。渡したら喜ぶかなって、選んだ私の気持ち。彼女が言う、欠落した感情。
そう、それは”空気を読む”こと。私をいちばんうんざりさせるやつだ。
生きていくうえで避けては通れない”人間関係”という名の荒波。溺れないように、誰も傷つけないように、わたしは演じる。表面的だろうが、仲が良い”振り”をしたり。面白くも無いのに愛想笑いだって。
そうだ。先週だって、連絡ミスでトラブルが発生した日の帰り際。主任に言われたのだ。
「残業になるってことは、それだけ仕事が遅いってことだよね。能力がないってことだよね。そんなお荷物な人間にさ。時間内定時退社してる優秀な人よりもお金をあげるなんて、あり得ないよね~・・・・・・なんちゃって。大丈夫よ。きっっちりと残業代はお・出・し・ま・す・か・ら」
パワハラまがいの発言に私の頬は引きつりかけていたはずだが、すかさずニコリと笑顔を張り付けて、”はい! 今度は時間内に終わるように頑張ります!”なんて言っちゃうし。あんただって残業きっちりつけてるくせに、到底終わるわけもない仕事量振っておいて何でそんなことが言えるのか。そもそも連絡ミスは私のせいじゃねーし!
そんなことを考えながらパソコンに伝票を入力していると、憔悴しきった様子のケイちゃんが美樹のデスクに向かい、何かを聞いている。この時点でなんとなーく察したのだが、案の定美樹は気怠い表情で私の方を指さしながら何かを呟き、ケイちゃんは踵を返して私の方へとぼとぼと歩いてくる。
「あの~・・・・・・お忙しいところすいません。どうしても聞きたいことが・・・・・・」
手に持っている伝票を確認する。とたんに眉をしかめた私は、怯えない様に優しい口調でケイちゃんに問いかけた。
「これって・・・・・・美樹の担当だと思うんだけど。彼女には教えてもらえなかったの?」
ケイちゃんはやはり潤んだ目でちらちらと美樹の方を見ながら、消え入りそうな声で囁く。
「あの・・・・・・”わたし・・・・・・教えるの下手だから・・・・・・分かりにくいだろうから・・・・・・鞘さんに聞いてきな”って・・・・・・」
ああ、やっぱり。まるで川の流れかなにかであるかのように、どんぶらこと”作業”はやってくる。わたしという岸に漂着したケイちゃんは、不安げに視線を落としている。
「しょうがないなあ。分った。じっくり教えてあげるから、しっかりメモ取りなよ」
笑顔の貼り付け完了。漂流していたケイちゃんはやっと港を得るわけだが、わたしの美樹へのやぼったい感情は、処理されることも無く宙ぶらりんとなる。それでもいい。いや、それがいい。これ以上の面倒ごとは起きないし、あと腐れもない。わたしのこころが多少濁るのと引き換えに、川は穏やかな流れを取り戻すのだ。
「今日はごめんね~さやぴー。どうしても手が離せなくってさあ。今度マフィン奢るから~」
終業後のロッカー。少し縮こまった様子の美樹が、わざとらしく両手を合わせるジェスチャーをしながら話しかけてきた。純粋なケイちゃんはあなたに言われたままを私に報告してくれたぞ。まったく調子がいい。そんなことを頭の中に浮かべたとしても、言葉として形にすることはない。いつものちょっと呆れた感じの表情を張り付けて、
「もう。私だっていそがしいんだからね~」
そしてニコリ。これでいい。美樹は一瞬だけ丸めた背中をすぐさま元に戻すと、それでこそさやぴーだね! と私の背中を叩いた。いつもはそんな呼び方しない癖に。
「お兄さんのこと、早く解決すればいいね。私、応援してるから!」
そうだ、家に帰れば奴がいるのだ。思い出してしまった。
八時間。就業時間という拘束を解かれ、職場という箱から抜け出したわたしは、窓際で落ちかけた陽の残り火に照らされながら、電車という箱に揺られ十五分。疲れた靴音の響き渡る駅前の歩道を五分ほど泳いで、人の疎らな商店街の裏通りに入ってから二分。築十年。エレベーターも、オートロックも無い。二階建て安アパートの一〇三号室。
わたしにとって、”家族”という箱は厄介だ。
呼吸を整えて、静かに扉に手を掛ける。ただいまを言うことはない。兄というやつは、確かにそこに存在するものではあるが、普段は意識すらしないものだからだ。
真っ暗な玄関に電気をつけると、靴を脱ぐ前に、習慣的動作として郵便受けの中をまさぐる。おや。鷲掴みにした不揃いの紙類の中に、見慣れぬ雰囲気のチラシが目に留まり、それとなく手に取る。
”百日限定で、新しい家族と暮らしませんか?”
あ、怪しい。怪しすぎる。詳しく目を通す気になれなくて、仄かなため息交じりにくしゃりと丸めながらキッチンのごみ箱に突っ込む。着替えもせずソファーに寝転んで、時計をちらりと見る。午後六時半。お風呂に入って、休みの日に買い込んだ冷凍食品でも温めて、テレビを見ながらぼーっとしようかな。
がちゃりと寝室のドアがあく。奴だ。やっと自分の世界に浸ろうとしていたというのに。何とも間の悪いタイミングで、兄が自分のテリトリーを脱して侵入してきたのだ。
だぼだぼのトレーナーはだらしなく解れていて、ジャージは毛玉だらけ。背中を丸めて寝ぐせだらけの頭を掻きながら、漫然と冷蔵庫の前へと立つ。
音も無く扉を開け、中に常備されているコップに麦茶を注ぐと、コクリと飲み干す。そのコップ、私がついでに洗ってあげてるんだぞ。分ってんのだろうか。
この短い時間。彼は寝室という箱から、二人の共有空間である冷蔵庫という箱を開ける。私は何とも言えない苛立ちも混じって、いつもリビングから背中を追ってしまう。その視線を知ってか知らずか、兄はロボットのように歩き、飲み干し、還っていく。
もしもあの背中がいなくなれば。私は自由になれるのだろうか。
そうだな。ひと思いに背中を包丁でザクっと・・・・・・いや、返り血とか浴びるの嫌だし・・・・・・鈍器のようなもの・・・・・・いや、重たいし。
そうだ。アイスピック。これならスマートに背後から心臓を一突きして、あの忌々しい背中からおさらばできる。
妄想は自分勝手に行動する。そのあとどうなるのかなんて知ったこっちゃない。ひとしきり穴だらけにした背中を、あとはまた突き刺すような視線で見送るのみ。そのはずだった。
くるりと方向転換した兄は、何かに気づいたようにごみ箱を開けた。動きが止まる。手を突っ込んで、くしゃくしゃになった紙を広げた。まんじりともせず、視線を小さく振りかぶる。
私は口を開けていた。あ、ぜ、ん、というやつだ。その口に吸い込まれるように、兄はさらにテリトリーを振り切って、ついに私の横たわるソファーの前に立ったのだ。
「なんだこれ。意味わかんねーけど、行って来いよ。気晴らし。俺は構わねーから」
目の前に差し出されたのは、ついさっき葬ったはずのチラシ。私は動転した。兄が暗黙の了解で成り立っていた互いのテリトリーをぶっちぎって来たとか、インクの滲んだ紙切れを意味不明にひらひらさせているとか。そんなことはどうでもいい。
兄がしゃべったのだ。クララが立ったのだ。そんな歴史的大事件を目の当たりにして、開いた口は到底ふさがる気配がなかった。
同じ屋根の下で暮らして十九年。兄の声を聴いたのは、これが初めてだった。