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逃げても逃げても影はそこにある


 ムースの看病のために立ち寄った東屋にて、ムースのお悩み相談は始まった。


「逃げたいなら逃げたら?」

「ちょっと、何言ってるのゾフィア!?」


 しかし、突如として発されたゾフィアの結論だけのセリフに、クラリアがびっくりしたように声を上げたのだ。しかし、落ち着いた調子でゾフィアはクラリアの言葉に反応する。


「クラリアこそ、逃げ出したい人間を抑えつけて苦しい道を走らせるなんて非道なことを容認するつもりなのかしら?」

「そ、それは……」


 彼女の悩みを切り捨てるように、ゾフィアは言葉を口にしたのだ。あまりの文句に冗談かと思いムースが顔を上げてみれば、ゾフィアの目はまっすぐとムースを見つめていた。


 人を笑いものにする瞳じゃない。そういうことがあってもいいと、許し容認するようなまじめな瞳だった。だからこそ、ムースはその言葉に嫌悪の感情が湧かなかった。


「貴方に何があったのかは知らないけど、逃げ出したい時があってもいいのよ。苦しいことだけが努力じゃないし、苦しいことだけが人生じゃないのだから」

「ゾフィアは達観してるねぇ……と、ともかく! えと、順序が逆になっちゃったけど、何があったのかな? あ、私はクラリア。で、この子がゾフィアって言うの」

「あ、はい……」


 道端の東屋にて、少しばかりの沈黙が訪れる。言っていいのか、悪いのか。自分の情けないことを話したがる人間なんていないだろう。だからこそ、ムースは口を噤んでいたが……先ほどのゾフィアの言葉を思い出した。


 逃げたいなら逃げていい。そういってくれる彼女なら……そんな思いが口をついて、いつの間にかムースは言葉を零していた。


「村で、精霊武器を使えるようになって、お父さんとお母さんから褒められて……それまで何やっても駄目だったから、自分にも何かできることがあるんだって嬉しかった。だけど、ここに来てからうまくいかないこと続きで……それに、訓練とか、勉強とか……やることがいっぱいで、頭がこんがらがっちゃって……」


 紡ぐ言葉に、次第に涙が流れて来た。


「私、そんなにすごい人間じゃないから。皆みたいに、前を向いて頑張るなんてできなくて……」

「そう」

「だから……だから、思い切って寮を飛び出したら、すっきりするかと思って……でも、全然そんなことなくて……」


 精霊武器に選ばれたことで、ダメダメな自分に自信がついた。祝われながら、故郷を出てムースは騎士学校に来たのだ。でも、実際に騎士学校に来てみれば、押されたのは落ちこぼれの烙印一つだけ。それを覆すための努力は、何度吐いても足りないような地獄のそれ。苦しくて苦しくて、だからその地獄から飛び出した。だけど、気分は全く晴れない。


 できない自分を隠して、隠して、隠して。それでも、ムースを押しつぶしてしまうような後悔が尾を引いて、彼女に言うのだ。


 そんなこともできないなんて情けない、と。


 だからこそ、彼女は――


「逃げたこと、後悔してるんでしょ?」

「えっ……」


 ぽろぽろと涙をこぼすムースを笑うことなく、ゾフィアはそう言った。


「いいじゃない。後悔。逃げ出したことを後悔で来てる今の内なら、その後悔を拭うことはできるわ。まだ、あなたは戻ることができる場所にいるんだから」


 ゾフィアの言う通り、確かにまだ彼女は戻ることができる。

 いや、早朝から始まる訓練から逃げ出したと知られれば、ヴァルサーノ先生がどんなことを言うかわからない。もう、自分の椅子はないかもしれない。だから、もうこの後悔を拭う方法なんて……。


「戻れるなら戻るべきだよ!」


 ずるずると落ち込んでいくムースの手を取ったのは、活力あふれるクラリアの言葉であった。


「貴方の大変さを私は理解することはできないけど……後悔が、どれほど苦しいことなのかは少しだけならわかる……かも? とにかく、やりたいことがあるなら戻るべきだよ! もし、何かあって戻ることができなかったのだとしても、退学になりかけてるのだとしても、必死にしがみ付いて、やりたいことをやるべきだよ!」

「そ、そうなの……?」

「私の幼馴染の受け売りだけどね、今の言葉。だけど……おかげで、私は外に出れたから」


 クラリアが思い浮かべる顔。ムースもゾフィアも、それがどんな人物なのかは知らないが、彼女が浮かべる顔を見れば、相当な恋慕を抱いていることだけはわかる。


「その人も、すごい見栄っ張りだったんだ。できないことできるって言って、じゃあ見せてみろって言われてさ。でも、だからできませんって謝るわけじゃなくて、やってやるって息巻いて挑戦するんだ。失敗することも結構あったけど……それでも、かっこいい所を見せるために、できないことにも挑戦する姿はかっこよかったんだ」


 かつての郷愁に浸る彼女は、自分を見る二人の視線に気づいて赤面した。それもそのはずで、今はムースの相談事を聞いている時間だというのに、何自分語りに思いを馳せているのかと、クラリアは頬を叩くのだった。


「と、とにかく! それが悲惨な結果だとしても、やってきたことを見てくれる人はいるんだよ! 苦しくても、恥ずかしくても、みっともなくても……それを評価してくれる人はいるし、すべてが無駄になるわけじゃない。だから、やらないよりも、やって後悔した方がいいんだよ!」


 ジンと、クラリアの言葉がムースの心を静かに揺らした。

 みっともなくていい。恥ずかしくてもいい。ただ、前に進めるのならば進むべきだと、彼女は言うのだ。


 戻るというのは、この先に続く苦しみをすべて味わわなければいけないということかもしれない。でも、ムースにとって――


「……あ、ありがとう……私、もうちょっとだけ、頑張ってみる」


 ムースにとって、騎士学校で立派になると言い残した故郷の期待を裏切ることの方が、ずっと苦しいことだと気づけた。


 ここで逃げだしたら、その苦しみが後悔となって自分を縛る。ここで故郷に戻って「駄目でしたと」両親に行っても、きっと彼らは文句は言わない。でも、自分が――どれだけ周りが許しても、自分だけは自分のことを許さない。


 だから、だから、だから。


「苦しくなったら、またここにきて……いい、かな?」

「もちろんだよ!」

「また、運よくここで会えるといいわね」


 ムースは、戻ることを決めた。


 覚悟したムースの行動は早く、再びゾフィアとクラリアに感謝を告げてから、急いで教室の方に走り出した。もうすでに太陽は完全に顔を出し切っており、訓練は始まっている。少しでも遅れれば、自分の居場所はないかもしれない。


 だからこそ、だからこそ。自分の覚悟を無駄にしないために彼女は走り――


「こんなところにいたかよムース。おい、大丈夫かよ」

「……ウィルさん? え、どうしてここに……」


 教室まで限りなく遠い道のりの半ばで、彼女を探すウィルを出会うのだった。


「お前を探してたんだよ。エトワーズが言ってたぞ、あの子が心配だって。しかも、寮に荷物も全部置いて来ちまって、どうやって故郷に帰るつもりなんだよ。ああ、もちろんだけど俺はムースに残ってほしいとは思ってるぞ。なんたってお前、頭いいからな。今度勉強教えてくれよ、そろそろ小テストがきついんだ。……ただ、無理なら逃げてもいいと思うぞ。俺は否定しない」


 何でもないかのように、彼は授業をサボってここまで来ていた。自分を……苦しいからと言って、逃げ出してしまった自分を探すために。


 だからこそ、ムースはクラリアの言葉を思い出した。

 きっと、自分を見てくれている人はいると。


「……ごめん」

「謝んな。せめて感謝にしろ」

「う、うん。ありがとう。私、苦しくて逃げちゃった」

「そりゃそうだ。俺だって、そろそろ音を上げそうなぐらい苦しいからな」

「そう、だよね……でも、頑張る。今から戻って、椅子がないって言われても、居座る」

「いい意気だな。ってか、訓練に遅刻して退学なら、俺も一緒に退学になっちまうな」

「え!? そ、それは……」

「だから、戻るなら急いで戻るぞ。ほら、辛いなら手を繋いでやる。苦しい時ほど、助け合うのが人間だからな」

「……うん、ありがとう。ウィルさん」


 そうして、ムースはウィルの手を取った。急いで教室に向かう彼らの未来に、遅刻を咎める特別授業が待っていたのは省くとしよう。


 ただ、ムースの逃走を咎めるものなど誰一人としていなかったことだけは、ここに記しておく。


 そして、彼らは特訓する。ヴァルサーノ先生に尻を蹴り上げられながら、前に向かって走るのだ。へとへとになりながら、血反吐を吐きながら


 前に、前に、前に。


 ――そして、三か月が経過した。

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