破
翌朝。
いつも通りに起きて、ジャージに着替える。
「行くよ、ブラン」
わふわふ興奮していても、頭を撫でてあげれば大人しく首輪の付け替えを待てる。我が家の愛犬は優秀だ。いいこ。
散歩は一日二回。朝はボクが必ず行く。
コースも決まっていて、家を出て公園に入ってから川沿いのサイクリングロードをダッシュ。ブランやボクのコンディション次第で何度か川沿いを往復し、行きとは違う道で帰る。今日は何往復できるだろうかと考えつつ軽く走っていると、公園にいつもは見かけない車が停まっているのに気が付いた。
車……で、いいのだろうか。
軽トラックのようだけれど、前輪が真ん中に一つあるだけだ。チョコレートのようなミルキーカラーの茶色が主体の塗装で、ボンネットの中央には白いラインと、カリグラフィーで「バレンタインズショップ」の英字が踊る。
「バレンタイン……」
そうか、だから限定プレートがフォンダンショコラだったのか。二月のイベントといえば節分しか思い当たらないので、最近アリがチョコ菓子に思いを巡らせていても「今はチョコが来てるんだな」としか思っていなかった。来月何をお返ししよう。
ぼんやり眺めていたから、ジョギングからまさしく散歩になっていた。
男性が車の影から出てきて、荷台の縁をいじっている。そうして棒を上の角に引っ掛けて手元で回すと、荷台の覆いが少しずつ持ち上がって幌になった。
ブランが鼻先を上げ、わふっとひとつ鳴く。
遅れて、ボクの鼻にもふわりとチョコレートの香りが届いた。
「やあ、おはようございます!」
ブランの声に振り向いた男性は、離れている距離のためにやや声を張ってそう言った。
「今日からここでチョコ菓子を販売するバレンタインズ・ショップです。よかったらお友達とお誘い合わせの上どうぞ!」
アリが来たがるだろうな。
「行く行く!!」とはしゃぐ様子が脳裏に浮かんで、少し笑いながら会釈した。
ブンブン尻尾を振ってショップに向かおうとするブランはリードを軽く引っ張って止めて、足を早める。
すぐに走ってついてくるブランに声を掛け、ボクは川沿いへ向かった。
昼休み。図書室すぐ近くの中庭が、ボクとアリのランチスペースだ。
アリのお弁当はボクのお弁当箱の半分の大きさで、ご飯とおかずが彩りよく入っている。それから、別容器で必ず付くデザート。果物の日、ヨーグルトの日、アリの手作りお菓子の日。いろんなパターンがあって、横で見るだけで楽しい。
ボクのお弁当は兄がいる影響で肉が多めの茶色弁当だ。アリみたいな可愛いお弁当だと部活中に空腹で倒れそうだし、全然構わないのだけど。
ご飯の上の海苔をお箸で破けばおかかが覗く。その茶色とご飯の白を見て、今朝のことを思い出した。
「ねえアリ、うちの近くの公園わかる?」
「川の横のとこ? ブランくんのお散歩コースだっけ」
「そう。そこに、チョコレート屋さんが来てた」
「移動販売ってこと?」
「うん。朝、開店準備してるとこに通ってさ。
今日からです、お友達とどうぞって声掛けられた」「行く」
ほら即答だ。
言い終わるか終わらないかのうちに答えたアリは、ご飯を咀嚼しつつも口角がぐっと上がっている。楽しそうで何よりだ。
「ねーーー何それ楽しそう行く行く行く!」
アリの動きに合わせてツインテールが左右に揺れる。
もう、かわいいなあ。
「今日?」
「もち!」
「じゃあいつも通り「図書室で」」
ハモってくすくす笑い合って、お弁当を食べて。
放課後の約束にふくふくとあたたかさが広がって、二月の寒風も笑って流してしまえた。
部活終わりの時間、図書室に図書委員以外の生徒は数える程しかいない。それも大体決まったメンツで、黙々と勉強をする二人組の同学年と、いつも本棚の間に座り込んで読書している後輩と、部活帰りに一瞬寄って返して借りていく後輩と、それから、一番端のキャレルでお菓子の研究をしているアリ。
ボクが図書館に顔を出すのも日常のことで、図書委員は学年に関わらずボクを時報扱いしている節がある。
「城島さん、お疲れ」
「お疲れクロー」
「うん、お待たせ」
珍しくカウンターにいたアリは、若林くんと話していたようだ。彼はカウンターを立って、本棚の間に消える。
部活が終わるのは完全下校時刻の三十分前で、そこから片付けて汗を拭って着替えて来れば、図書室に着くのは完全下校時刻直前になる。
図書委員はボクが来るのと同時に生徒達に声をかけ、図書室の施錠をするのだ。
「行こうか」
「あ、待ってクロ。
あのね、若林くんに今日のこと言ったら、行ってみたいって」
「え……」
ボクが人見知りなのを、アリはよく知っているのに。
「ほら、おうちがお店だからそういうの気になるんだって。昨日お茶ご馳走してもらったし、お礼に道案内してあげたいんだけどどうかな?」
「そっか……」
そういう理由なら、嫌だとは言えない。
お茶をご馳走してもらったのはボクもなのだし、ボクが拒否してアリひとりで若林くんを案内する方が嫌だ。
「あのねっそのお店が参考になって新商品できたら、試食させてくれるって」
「アリ……それはお菓子ルール的にいいの?」
「手作りお菓子だからね! 大丈夫!!」
「お菓子ルールって何?」
戻ってきた若林くんが、ちょっと楽しそうに訊いてくる。
「ゆるゆるダイエットなの」
「アリはお菓子大好きだから、食べすぎないように食べる時にルール決めてるんだよね」
「うん、市販品厳禁なんだ」
「なるほど。俺の手作りお菓子なら市販品カウントにはならないわけね」
「そういうこと! って待って、若林くん作なの⁉︎ お母さんとかじゃなく?」
「ああ、ほら、お菓子作りって体力いるでしょ。
昔からちょっとずつ、泡立てとか生地の捏ねとか手伝いが増えてってさ。今では母さんの担当はレシピとカットと仕上げのみなんて商品もあるよ」
「えええええええ、すごっ!」
「はは、もっと言って」
「えー! プロってことでしょ⁉︎」
「なるほど、そう言うこともできるね」
「かっこいいいいいいい!」
え、何。すごい楽しそう。
アリはこの放課後、ずっと若林くんと話していたのかも知れない。随分と距離が縮まっている。
話しているうちにカウンター内をまとめ終えた若林くんが、コートの上からリュックを背負った。それを見てアリが慌ててコートを着込む。
「閉めますよー!」
本棚の間に声が掛かって、最後の一人が慌てて図書室を出た。
「じゃ、僕は職員室行ってくるけど。
駐輪場で合流できるかな」
「待ってるよー」
アリが答えて、それでも若林くんはこちらを見たのでボクも頷いておく。
「うん」
「ありがと。急ぐ」
職員室は図書室前の階段を登ってすぐだ。その階段を二段飛ばしで駆け上がるのを横目に、玄関へ向かう。
「何か……仲良くなったね?」
「あ、若林くん? 話してみると面白いんだよ。
お菓子作り好きだって言ってたし、好みも合うし」
「……そう」
「なーにーなーにーヤキモチかー?」
ふわんふわん、ツインテールが楽しげに跳ねる様子から目を逸らした。
「……別に」
「っあーーーー私の親友がこんなに可愛い」
「可愛くないよ」
「可愛いよーーー誰がなんと言おうと私の親友は可愛いって!」
横から伸びた腕が柔らかく絡んでくる。されるがままに見せかけて、ちょっとだけアリによった。
「はーーーー。クロエちゃん本当癒し。」
「意味が解らない」
「いいよもう解らなくてもー可愛いー」
靴を履き替えて戯れ合いながら歩いていれば、駐輪場に着く前に大きな足音が後ろから響いた。
「追いついた」
「えっ、わざわざ走ってくれたの?」
「女子二人、寒空の下長時間待たせるわけにはいかないでしょ」
「紳士ーーー」
「うち女ばっかりだからね……」
「ばっかりってことは、お姉さん一人だけじゃないの?」
「妹がいるんだ」
「お兄ちゃん! あーでもわかる、いいお兄ちゃんやってそう」
「最近いいお兄ちゃんやらされてるんじゃないかと思うことがあるんだけど」
「あー、女の子はねー、そういうもんだよね。ね、クロ?」
「え」
「クロだってお兄ちゃんいるじゃん」
「あー……兄さんは。でも。そんなに口数多くないから兄さんもボクも」
「っふふ、あのね、クロのお兄ちゃん、クロと中身そっくりなのよ。外見はお母さんよりでアイドルとかもできそうなのに、言動がまんまクロで!」
「へぇ」
それぞれ自転車に跨って、ボクが先導して進んでいく。
後ろで話が盛り上がってるのを、聞くとはなしに聞きながら、風を切って自転車を漕ぐ。
「っあ?」
指に痛みが走って、見れば赤い筋ができていた。
乾いた風の反撃で、ボクの皮膚が切られたらしい。
……痛いな。もう。
「わあ、本当、可愛い!」
「アリが好きだと思って」
「へえ、オート三輪なんて珍しい」
「バレンタインズ・ショップへようこそ!
ああ、朝のお嬢さんですね、こんなにお友達を連れてきてくれて!」
にこやかに大股で近付いてきた男の人に、思わず後退る。ボクと店員さんの間へ割り込むように、アリと若林くんが前に出た。
「お兄さんちょぉーっと近付きすぎですよーこの子が可愛いのはわかるけど」
「男性ってだけで女性に恐怖を感じさせるんだから、急に近づくのは頂けないと思いませんか」
男性でも女性でも、あんまり関係ないけど。
「おっと、これは大変失礼しました。
お約束通り、しかもこんなに早く来て頂けると思っていなかったもので、嬉しさのあまり……。申し訳ございません」
「いえ、その、……驚いただけなので」
アリがボクの顔を見たので頷く。アリもひとつ頷いて、肩の力を抜いた。
「でも、本当可愛いお店。屋根のとこもチョコがとろけてるみたいだし。
これ、全部チョコ菓子ですか?」
「ええ、チョコレート専門でやらせてもらってます。どうぞ、買わずとも見てってください」
「へぇ、買わなくてもいいんですか?」
「もちろん買ってもらえた方が嬉しいですよぉナイトくん。
でもね、頑張って作った子達、見てって欲しいじゃないですか」
「わかるー」「わかります」
「おや、おふたりとも何か作られるんですか」
そこから花が咲く三人のお菓子談義。
ボクはもちろん解らないので、荷台に詰め込まれたお菓子を眺める。
奥にあるカラメルソースみたいな色の木製棚に、焼き菓子入りでラッピングされた籠や、いろんなお菓子用の化粧箱が収まっている。その手前はひと抱えほどのショーケースと、ひな壇に並ぶたくさんの鉄製の籠。籠ひとつひとつに違うお菓子が入っていて、それぞれ名前の書かれた値札が付いている。
ショーケース内にはクリームを使ったケーキや、デパ地下の高級な一粒売りのようなものが綺麗に整列している。箱入りの生チョコに、よくわからないお菓子もいくつか。
幌を支える支柱からもバケツ型の籠がいくつか吊られていて、棒付きのチョコやリボンが顔を覗かせていた。
一体何種類のお菓子があるのだろう。名前を見ても知らない物が多い。
この全てにチョコが入っているというのだから驚いてしまう。
ああ、でも、板チョコもあるんだ。ホッとするな。ビター、ミルク、苺に抹茶。ホワイトチョコもある……アリがトッピングでたまに使ってるから味はわかるけど、そう言えばそれ単体では食べたことがないな。
「魔法、ですか?」
アリの言葉に振り返る。店員さんが、誇らしそうに頷いた。
「ええ、この中にいくつか、魔法のチョコレイトが潜んでいます。必要な方が手に取ってくださるんですよ」
「じゃあ、お兄さんは魔法使い?」
若林くんの言葉に、ボクは納得した。だって、これ全部、店員さんが作ってるらしい。
「こんなにたくさんの種類のお菓子を作れるのだってすごいのに、その全てにチョコを使ってるんだもの。確かにボクからしたら魔法使いだ」
アリが目を大きく開けて、それから細めてきゅうっと口角を上げた。足を踏ん張る。
「クロ〜〜〜! クロ、すきっ」
「どうしたの急に」
何だかよく解らないけど、アリはたまにこうやって暴走する。予兆があったから横から飛び付いてきても大丈夫な様にしていたけど。
「はあああああ、私の親友がこんなにも可愛い」
「だから何が、ねえ聞いてる?」
「うんうん、クロはそのままでいてね」
「ねえだから何なの」
ぎゅうぎゅうされても、柔らかいから痛くないしあったかい。ちょっと嬉しいけどそんなことは表に出さず、ポンポンと背中を叩いて落ち着ける。
「仲良きことは美しきかな、ですねぇ」
「はは、そうですね。美しいというか、可愛い」
若林くんの言葉に、視線が鋭くなったのを自覚した。やっぱり、下心があってアリに近付いたんだ!
「ですねぇ。それで、ナイトくんはどちらのお姫様からチョコをもらいたいんです?」
「僕は貰えるなら誰からだってありがたく頂きますよ」
「あっ、ずるいなぁ」
「若者で遊ぶ年長者よりは」
「これは手強い」
店員さんは逃げるようにこちらへ寄り、ボクへ向かってニコリと笑った。
「認めて頂けて嬉しいです。本当に魔法のチョコレイトがあるので、選んでみてくださいね。気になった物が、きっとそうですよ」
「魔法……特別美味しい、とか?」
「っはは、欲がない! いいえお嬢さん。魔法の効果は〝私を見て〟」
「……私を、見て?」
「さすがバレンタインズ・ショップ! 告白にピッタリですねー」
「ああ、よく言われます。だからって訳でもないんですがね……不器用なもので」
アリに愛想良く頷いて、苦笑した。
「いやいや、これだけ多彩に作っておいて不器用はないですよー」
アリがボクから手を離して、パタパタと振った。
「ラッピングも可愛いし」
「ありがとうございます」
「で、お兄さんのオススメは?」
「それはもちろん魔法のーーいえ、そうですね。
二つ縛りのお嬢さんには、ベリーソースの入ったショコラマドレーヌはいかがでしょう?
ナイトくんにはカヌレを。基本的なレシピはお手本通りで、チョコレートリキュールを使用したものです」
ふたりはそれぞれ喜んだり驚いたりしながら品物を見る。いくつかある中から、選ばせてもらえるらしい。
「先入後出とか関係ないんですか?」
と、若林くん。
「ああ、なくなったら作る形なので、関係ないんですよねぇ」
「なるほど。じゃあ、僕はその二番目のを。あと、……」
「私これで」
若林くんがショーケースからいくつか選んで取ってもらっている間に、アリは個包装されたショコラマドレーヌを二つ手にしていた。もちろん二人とも、板チョコには手を伸ばさない。
「そのままと、焼いてからとで食べ比べ?」
「そう! 半分こは父さんが喜ぶからね」
お父さんのお腹を気にしてるお母さんに、見つからないようこっそり食べるのだろう。こんなかわいい娘とお菓子を半分こして嬉しくないお父さんはいないはず。
ボクは決めきれなくて、また今度と約束をした。
少し離れてから、若林くんがおもむろに口を開く。
「よかったらうち来る? お茶出すよ」
「えっ、いいの? でも悪いよ」
「見返りは欲しいな。お父さんには悪いかもだけど」
若林くんはアリの紙袋を指差して笑う。
……。ボクは、出せる見返りがない。
「城島さんは、」「ボク帰るね」
「えっ」「えーっ!?」
どうしてアリだけじゃなく、若林くんも驚くんだろう。
お邪魔だろうに。
……邪魔は、していたいけど。
何だかもう、お腹いっぱいの気分で。
「ブランの散歩、今日は当番だから」
「そっか、そしたら遅くなれないもんね」
しょんぼりしてしまったアリに、すごく心苦しく思うけど。
でも、もう、このふたりを見ていたくないんだ。
すごく楽しそうで。
ボクは、どうしていいか解らなくなるから。
「じゃあ」
「気を付けてね!」
「うちもうすぐそこじゃん。
アリこそ気を付けてね、かわいいんだから」
若林くんには軽く会釈して、さっさと自転車を漕ぎ出した。
この後、アリは若林くんの家に行くんだろうか。
行かないといいな。
……行かないでなんて、言える訳ないけど。
家にはすぐ着いて、ブランに声を掛けてから着替える。いつも通りの散歩セットを持って……ふと思い至って財布も持った。
朝と同じコースで走り公園に至ると、やっぱりもう二人の姿はなかった。例のお店には小さな子供連れの母親らしきお客さんがいたので、そのまま公園を突っ切って川沿いを走りに向かう。
朝は二セットしか走れなかったので、今回は五セット目標。と思ったらまだ行けそうだったからもう一セットおまけで走って、公園に戻ればすっかり人影もなく、ただバレンタインズ・ショップだけが変わらない場所でぼんやり浮かび上がっていた。
「おや。お疲れ様です!」
リードの長さを気にしながらゆっくりと近寄って会釈する。店員さんは破顔して、運転席に上半身を突っ込み何かし始めた。
「よければ運動後の水分補給いかがですか」
「えっ?」
「あ、ワンちゃんにはお水で」
小さなボウルにジャバジャバとペットボトルのお水をあけて、そっと下に置いてくれた。ブランは目の前に来たそれをフンフンと嗅いで、こちらを見上げる。
「すみません、ありがとうございます。……よし」
パシャパシャ派手に撒き散らしながら水を美味しそうに飲んでいる。ブランから顔を上げると、プラスチックか何かのカップ二つに、ステンレス製のポットから茶色い液体を注いでいるところだった。
「今日寒かったでしょう?
お茶、途中で作り足したら多過ぎちゃって。手伝ってもらえると大変助かるんですよ」
透き通った茶色から、ふんわりと白い湯気が上っている。
荷台の中は、いくつかカゴがひっくり返っていた。その上に木製の小さなまな板を置いて、カップを二つ並べられる。
「お好きな方どうぞ。量がちょっと違うだけですけど……あ、お砂糖とかミルクとかいります?」
店員さんはまた運転席に上半身を突っ込んで、今度は両手に円筒形の容器と牛乳パックを持ってニコリと笑う。
ボクは困惑しつつも、お茶をひとつストレートのまま頂いた。
ボクも、ブラン同様に喉は乾いていたから。
「では僕も失礼して。乾杯」
翌朝。
ブランの散歩で公園を通りかかると、例のお店の前に人が立っていた。まだ七時過ぎなのに、こんなに早くチョコレートが必要なことなんてあるんだろうか。幌だってまだ上がっていないのに。
……あ、小さい女の子もいる。車の影で見えなかったけれど、小学生くらいの女の子が、店員さんとお話していた。じゃあ一緒にいる人はお父さん……いや。
店員さんがこちらに気付いて手を振ったので会釈した。ら、振り返った人も手を振る。……若林くんだった。妹さんがいるって言ってたっけ。
逃げよう。
ブランを急かして川辺に急ぐ。今日はどれだけ走れるだろうか。
一セット走ったところで、ブランがぐずりだした。昨日は夜も走ったからだろう。どうしようかな、もう二セットは走らないと気持ち悪いんだけど。
「ルゥは先帰ってな」
「えー!」
覚えのある声が聞えて振り返る。自転車から降りた若林くんが、自転車に乗ったままの女の子の背中を押すところだった。
わ、こっち来る。
「ブラン、ブラン、いい子だから走ろうよ、ねっ?」
「おはよ、城島さん」
ほら来た。来た!
もう、ボクは話すことなんて何にもないのに!
「……おはよ、若林くん。早いね」
「妹が夜中に、今朝店で使う分のチョコ使っちゃったんだ」
「……板チョコ?」
「ああ、クーベルチュールって、板チョコより純度が高くて大きい製菓用のがあって。もうすぐバレンタインだから、自分でも作りたかったってのは解るんだけど」
苦笑して振り返って小さな後ろ姿を見る彼は、アリが言っていた通りいいお兄ちゃんの顔なんだと思う。ボクは興味ないけど。
「そう。じゃあボク、走るから」
「預かってようか」
「え?」
「わんこ。疲れちゃってるんでしょ」
ボクのスニーカーに乗っかるように脚にもたれかかっているブランを見て、笑う。
「え、……何で」
「何でって。困ってるのかと」
「……いや、……帰らなくていいの?」
「朝の仕込み、僕の分は終わったからね。
いや嘘。本当はもうちょっとあったけど、妹の道案内で免除されたんだ」
たまにはサボったっていいよなー。ブランに向かってそう言いながら、両手でわしゃわしゃと耳周りを撫でる。ブランは尻尾を千切れて飛んでっちゃうんじゃないかと思う程振って、彼の手の中にぐいぐい頭を突っ込んだ。
ああ……もう、いいや。時間ないし!
「そう。じゃあ、ブランをよろしく。何往復か走るつもりだから、帰りたい時は言って」
リードを渡すと、何故か嬉しそうに笑って頷かれた。そんなに犬が好きなんだろうか。
「ありがとう」
「……? こちらこそ」
よくわからないけど、犬が好きなんだな。
ボクはさっさと走ろう。ちゃんと走れば五セットくらいいけるだろうか。
スタート地点に決めた橋まで軽く走って向かい、クラウチングで呼吸を整え、走る。
公園の角までで大体五十メートルだと、地図アプリで確認したのだ。
ボクの種目は中距離だけど、スタートの練習にはわかりやすくて丁度いい。
ブランはボクを目で追ってはいるけれど、走る気はないようだ。良いんだか悪いんだか。
公園の角を通り過ぎて力を抜き、呼吸を整えて角からまたクラウンチングスタート。ここで走る時は、兄さんがいなければ常にスタンディングスタートだから少し不思議な感じだ。
橋まで戻って、これで百メートル一セット。
一セットが終わったら軽く身体を揺らして力を抜いて、深呼吸してもう一セット。公園の角まで行って、また戻る。橋まで行ったところで、声がかかった。
「七秒九!」
振り返ると、若林くんがスマホを振って笑っている。待って。嘘だ。そんなに遅い⁉︎
「戻ってくる時だけ測るよ!」
正確じゃないし、部活より緩く走ってるし、仕方ない……なんて思いたくないな。
「ありがとう!」
往路では意識して少しゆっくり走り、身体のリズムを整える。
復路の前に大きく深呼吸。クラウチングで若林くんを睨むと、真っ直ぐ前に伸ばした腕が、ーー上がる!
「すげぇ、七秒三二!」
まだ。七秒二は切る。
うっかり六セット走ったら、流石に疲れてしまった。いつもこんなに遅く走ってたんだな……。
「お疲れ。朝からすごいね」
「……ううん。いつもは、こんなに、走らないんだけど」
「城島さんもブランも疲れちゃうもんね。どうぞ」
差し出されたのはスポーツドリンク。
公園内のすぐ近くに自販機があるから、多分そこの。
「ありがとう」
受け取ろうとしたら目の前で蓋を開けてくれた。……お兄さんやってる人って、みんなこうなの?
一口飲んで、スマホを出して、これじゃお金を返せないことに気がついた。いつもスマホで決済していたから。
「ごめん、今現金持ってない」
「いいよ! そんなの。それよりさっきのタイム送ろうか」
その場で連絡先を交換しながら、続ける。
「学校で払うよ」
「いや、いいって。僕がタイム測ったから煽って無理させちゃったんだろ。お詫びお詫び」
「ええ……」
「好きな子にジュースくらい奢るの普通でしょ。……あ」
「……は?」
「あー……ヤベ」
彼が片手で眼鏡を覆うように目元を隠した。
「…………は? アリじゃなくて?」
「いやそれはない。ってのも失礼だけど。
……好きだよ。城島さんが。
あぁ、格好つかないけどっ」
「………………えぇ」
待って。
何。
何で。
「あ。城島さん、時間大丈夫?」
「え? あっ」
時計を見て、慌てて散歩セットを拾い上げる。
「あ、ありがとう。帰る」
「うん。また学校で」
「ブラン」
今度はちゃんと走ってついて来てくれた。
いつもの道なのに、何度も間違えそうになってブランに吠えられる。
待って。
何で。
どういうこと。
「クロエー? さっさとシャワー浴びちゃいなさーい?
ってちょっと何してんの片付けておくから早く行ってらっしゃい」
ブランに餌をやろうとして餌を床に落としてしまった。母に怪訝そうな顔をされながら、浴室に入る。
入って、ジャージを着たままなのに気付いて慌てて脱いでシャワーを浴びる。
何なの。
一体、どういうことなの……⁉︎