序
図書室に入るなり、カウンターから声を掛けられた。
「あ、城島さん。部活終わるの早かったね。お疲れ」
「ああ、……うん。今日は顧問がいないから」
図書委員の、眼鏡の男子。同じ学年で、違うクラス。
「白井さん、いつもの場所にいるよ」
「ありがとう、……若林君」
名札を見て返し、奥へと急ぐ。
「仲がいいね」
続いた言葉へはおざなりに頷いて、窓際端の読書机に近付いた。
目的の彼女は、両腕を枕に寝ている。
冬のやわらかな陽射しで、彼女の周りがキラキラと輝いている。
……かわいいなぁ。
「ねぇ、アリ」
図書室だから、というのは言い訳で。
多分ボクは、もう少し彼女の穏やかな寝顔を見ていたい。
「……ねぇってば」
でも、そのくりくり丸くて大きな瞳で、こちらを見てほしいとも思う。
「起きてよ、アリ」
迷う私の指を、やわらかな頬の輪郭が光を弾いて誘った。から、そっとその頬をふにりと突いた。
ふふっと、笑いが漏れてしまう。
「アリー? あーりーさ?」
「ぅうん……」
身動ぎしたから、机の端に追いやられたお菓子辞典が落ちそうになる。
それを持って、思い出した。
「アリ、起きよ? 喫茶店行くんでしょ?
ジャムタルトがあるところ、行かないの?」
「ジャムタルト!」
がばりと身を起こして、ひょこひょことツインテールが揺れた。
「おはよ」
「おはよ。クロ。
……あのね、クロエちゃん。私たちが行くのはただの喫茶店じゃなくてティールームだからね?」
「えっと、紅茶の美味しいお店?」
「そう!!」
力強く頷いて、前髪を撫でて直して、パタパタと広げていたノートやペンケースをバッグにしまって。
「本借りてくるね!」
カウンターで貸出手続きをしながらさっきの男子と話している間、何となく周囲の椅子を整えたりして待っていた。
ボクの親友はーー白井ありさは、かわいい。
色素の薄いふわふわの髪はツインテール。その日の気分により編み込んで低い位置で結んでいたり、寝坊した時はハーフアップだったりするけれど、ツインテールが一番似合っていると思う。前にそう言ったら、ツインテールの日が多くなって嬉しい。
わざと大きなセーターを着て体型を隠しているというけれど、そんなこと気にしなくていいのにと思う。柔らかな女性らしい曲線はボクには無縁のもので、ふざけてくっついたりする度にふわんと幸せを感じる。そう、誰にでも明るく接せられて、人懐っこくて、無邪気な笑顔が人を惹きつける。
そんな親友が、ボクはかわいくて、大好きで、……どうしようもないのだ。
「うぅー……これおいしそう、いや絶対おいしい。でも、あー、捨てがたいっ」
「どれで迷ってるの?」
「このフォンダンショコラの柑橘ソース掛け、ソースが自家製なんだって。
オレンジを旬の時期から漬け込んで、煮詰めて、スパイス……何使ってるんだろ気になるよねぇ」
「スイーツにスパイス使うんだね? ……あ、シナモンとか?」
「うん、元々はカカオもスパイスみたいなものだし、ショコラトリーでは胡椒とかカルダモンとか、甘くない香りのスパイス使ってるのもよくあるの。
でね、食べてみたいなってのもあるんだけど」
「でもありさ、ジャムタルト好きでしょ?」
「そぉなのぉぉぉぉおおおおお」
メニューに突っ伏して呻くアリがかわいくて、よしよしと頭を撫でる。
「じゃあボクそのフォンダンショコラにするね」
「クロ……!」
「どれもよくわからないから、アリが一緒だと助かる」
「クロのイケメン詐欺ッ! 男の子なら結婚するのにぃ!」
「そうだね、ボクもキミと結婚したいと思うよ」
「ああああああ惜しすぎるぅぅぅ」
「はいはい」
恨めしそうに見上げてくるアリの頭をポンポン叩いてドリンクメニューを開けば、ガバリと顔を上げていい笑顔で指をさす。
「私これ! クロはこのお茶が合うと思う」
「じゃあそうする」
店員のお姉さんを呼ばい、注文を済ませて改めて店内を見回す。
「しかし、可愛いお店だね。アメリカじゃなくてヨーロッパ風なのかな。うちの近くにこんなお店があるなんて知らなかった」
「うん、イギリス。アリスのおうちをイメージしてるんだって。不思議の国じゃなくて、元になったアリス・リデルのお家
確かに近いけど、この辺だと学区違うんじゃない?」
「そうだね」
アリは不思議の国のアリスが好きだ。
勉強は好きじゃないというけれど物覚えがいいし、特にお菓子作りやアリスの関連することに関しての知識量は底なしだと思う。
女の子らしくて、可愛いものが大好きなアリ。
「かわいいね」
「でしょー!?」
「ボクが言ったのはアリのことなんだけど」
「もーーー、またそうやってイケメン力に磨きをかけて……。
クロだって可愛い女の子なんだよ?
女の子らしい格好だって似合うのにィ」
「ええ? どうかなぁ。
それにボクはアリがかわいい格好してるの見る方が好きだし」
「もぉぉぉおイケメン発言禁止ィ……」
「普通に話してるだけなんだけどなぁ」
「そういうとこだぞぉぉぉお」
「でもさ、イケメンかどうかは置いといて。
ボクはやっぱりフリフリヒラヒラしてるのは似合わないと思うよ、骨と筋ばっかりだしさ」
「フリヒラだけが女の子らしい服じゃないのに。
大体それじゃガリガリみたいじゃん。筋肉しっかりあって引き締まった身体って言うんだよ。……もぉぉ、何で食べてるのに太らないのぉ」
「運動してるからかな」
「知ってるぅぅぅ」
アリは太りやすいらしく、多少動いたとしても無駄な抵抗なのだという。
食べた物は食べた分だけ肉になるからと、基本的に市販のお菓子は買わない。
スイーツを食べるのは手作りのみ。自分で作るか、人と一緒の時にお店で食べるかだけで、それも一人前全ては食べない。
「やばー……すごいよタルト生地サクホロ!」
まず縁の部分だけに齧りついて、そのほんの一口からたくさんの感想が出てくるのがすごいなと思う。
「あったかいのが嬉しいよねぇ。パイ生地みたいに何層にもなってるけど、クッキーみたいにしっかり食べ応えもあるの。小麦粉の香りとバターの香りが強くて、……これもしかして普通のバターじゃないのかな。香りはしっかりあるのに全然重くないや。お砂糖はひかえめだから、本当に土台として作られてるんだね。でもちゃんとこれだけでもおいしいの」
興奮気味に捲し立てるアリがかわいいなとお茶を飲んで眺めていたら、アリもカップに手を伸ばしてこてりと首を傾げた。ふわんと髪が揺れる。
「フォンダンこそあったかいうちに食べよう?
いつも手を止めて聞いてくれるけど、私の感想なんて聞き流していいんだからね?
はゎ……お茶も最高に美味しい……!」
ピンクのお茶が似合うなあ。
緩んだ口元のまま身を捩って悶えているアリを微笑ましく見つつ、先の尖ったスプーンで丸いチョコケーキを三角形に切り出した。
中からとろりと流れ出すチョコレートは、そういうソースを仕込んでいるのだと思っていたけど、アリ曰く違うらしい。
「あっ、さすがいい焼き加減ー! 前に作った時は焼きすぎちゃって全然流れ出なかったもんね」
一つの生地からできていて、火が通って焼けた部分が外側のチョコケーキ、半生の状態が中のソース状の部分なんだそう。
「あれも美味しかったけど」
言いつつ口に運ぶと、しっとり濃厚な生地がとろりと熱く絡まった。甘さは随分控えめで、ほろ苦さが心地いい。鼻に抜けるチョコレートの香りに華やかさを感じるのが不思議だ。
お茶を飲むとあっさりした香りがチョコレートの香りをより引き立てて、気付けば「美味しい」と口に出していた。
「おお……クロにそんな風に言わせるなんて」
何それと笑いながら、今度は柑橘ソースを合わせて口に入れる。
ちゅるりと艶のあるソースの中で、刻まれたオレンジピールが小さく主張していた。ふわり広がる爽やかな酸味と香りの中に、ねっとり濃厚なチョコレート生地。多分アリはソースと一緒の方が好きだろう。
甘酸っぱいのに後味はビターで、チョコのまろやかさに隠された刺激的な香りが、最後に鼻腔へ抜けていく。何故か胸がキュゥと疼いた。
「おいし?」
「うん」
「ふふ、顔に書いてあるよ」
「多分これ、キミの好きな味だよ。ソースいっぱいつけて食べて」
スプーンの柄をアリに向けて置き、お皿を押して滑らせる。アリが期待に満ちた笑顔でお皿を引き寄せ、自分のお皿を持ち上げてこちらに寄越した。
ジャムタルトは直径六センチ程で、赤と黄と黒の三色が二枚ずつ載っていたのだろう。一枚になっていた黒を手に取り、アリの真似をして縁だけ齧ってみる。
サクり。小気味良い音を立てて崩れた欠片が、濃いバターの香りをふわりと広げる。確かに甘さ控えめで、これだけでも充分美味しい。
続けてもう一口。うん、甘い。のかと思ったら、
「んっ?」
ガツンと酸味が来る。
「はぁぁぁぁぁフォンダンもヤバいね激うまだね!
確かに私はソース付きが好きだけど、クロはこのフォンダンならクリームとの方がもっと美味しく食べられるんじゃない? あースパイスこれ何だっけなぁ……。
あ、タルト食べた? 黒いの甘酸っぱくて美味しいよね、めっちゃサッパリ!
ブルーベリーじゃなくてブラックベリーメインのジャムって日本ではそう見掛けないよね」
コクリと頷いて、お茶を一口。
「予想以上に酸っぱくてビックリした」
「んふふふ、ね、美味しい!」
ニコニコ。満面の笑みでお茶を飲むアリがあまりにも幸せそうで、こちらまで笑み崩れてしまう。
「うん。美味しくてよかった」
「本当だよー。大好きな親友と、美味しいお茶に大好物囲めるの幸せすぎるー」
お皿を再度交換して、アリのオススメ通りフォンダンショコラと生クリームも一緒に食べてみる。
クリームも甘さ控えめで、チョコの濃さを柔らかくしてくれるから随分と軽くなった。
ガタン! 突然カウンターの方から大きな物音と、コソコソ何かを言い合うような声が聞える。顔を上げると、店員さんがひとり増えていた。先程注文を取ってくれたお姉さんに、若い男性が小突かれている。
「えっ?」
声をあげたのはアリだ。身体を捻ってカウンターを向き、「えええええっ」と声を重ねる。
店員の男性……と言うより同じ年頃の男子が苦笑しながらポットを持って近付いてくる。……ん? 見覚えのある顔のような……?
「いらっしゃいませ。お茶のポットへ差し湯はいかがでしょう」
「えええええええ待って待って若林くんじゃん!
えっバイト? 今日普通に委員会してなかった?」
アリの知り合い?
「はは……バイトっていうか、ここウチなんだ。
母さんがやってる店で、この建物の裏側にウチの玄関があって。姉さんにうちの高校の同学年の子が来てるって言われて引っ張られてさ。さっき見た顔だしちょっと驚いたら、お湯持ってけってポット押し付けられて」
……あ。そうか、図書委員の男子だ。
「学年色かー。私のリボンだけなのにお姉さんよく気付いたね」
「本当。城島さんも驚いたよね」
「あ、うん。……制服じゃないから全然雰囲気違って最初わからなかったけど」
「ねー! 若林くんエプロン似合うー」
「はは……」
照れ臭そうに首を傾げたことで、ハイネックのカットソーから覗く首の面積が多くなって気付く。
「首……から、耳まで。赤くなってる」
「エッ」
慌てて右手で首を押さえたけど、今度は顔全体が真っ赤に染まっていく。
「っふ、ふふふふふ! 若林くん真っ赤じゃん、かわいー!」
ね、クロ? 振り返ったアリが楽しそうでボクも笑う。
「うん、可愛いね」
「っはーーー……勘弁して……」
片手で眼鏡を覆うようにして溜息を吐き、かぶりを振って気を取り直し、テーブル上のポットに手を伸ばす。壁際にあるアリのポットを手前に寄せて、蓋を開けて「ん」と唸った。
「白井さん酸っぱいの好きなの?」
「甘酸っぱいの好きだよー」
アリは果物等の甘酸っぱい物に目がない。
「なるほど。普通のジャムタルトならいいかもね。でもうちのジャムは相当酸っぱいからローズヒップ入ってるお茶だと全部酸っぱくなるでしょ。違うのにする?」
「あー……製菓グッズポチったばっかだからお小遣いが……」
ああ、クッキー生地に模様がつくのし棒かな。タイムセールになったら絶対買うって言ってたもんね。
「うん、じゃあ口止め料ってことで」
「口止め?」
「うちすごくファンシーでしょ。僕は慣れてるし嫌いじゃないけど、馬鹿なノリで冷やかしが来ると面倒だから」
「男子の世界も大変だねぇ。おっけ、黙っとく!」
「よろしく。城島さんは」
「何もなくても黙ってるよ。アリが選んでくれたお茶が美味しいから不満もないし」
「そう?」
ポットの蓋を開けてお湯を注ぐとふわりと良い香りの湯気が立ち上る。
「ヌワラエリヤ?」
呪文? いや、さっきアリが選んだ紅茶の名前……?
「おお、さすが店員さん!」
「確かに飲みやすいし何にでも合わせやすい。
ソースの邪魔もしないね。
でも、柑橘ソースはあんまりだった?」
フォンダンショコラは半分程食べていたけれど、ソースは多く残っている。そのソースの減った部分も、アリ側からの方が大きく削られていてボクの手前側がほとんど減っていないのは一目瞭然だった。
「いや、美味しかったんだけど」
「スパイスかな」
「甘さだよ。クロは甘みの許容量が決まってるの」
「え?」
「甘い物も美味しく食べてくれるけど、たくさんは食べられないのね? 今日はもうお昼のデザートに私のお菓子食べちゃったし」
今日のコーヒーゼリーも美味しかった。
「……なるほど? スパイスの味自体は問題なかったのかな」
「うん、美味しかったよ」
「よかった。
そのフォンダンはスパイス合わせる前提で作ってるから……そしたら、やっぱり城島さんにもドリンク作るよ。ミルクティー平気? すぐだからちょっと待ってて」
彼はお湯の入ったポットをくるくる揺らしてから置いて、アリのポットとカップは回収してカウンターに入って行った。
「すごいなあ若林くん。大人だってあんなに詳しくない店員さんも多いよ」
「おうちがお店だと詳しくなるのかな」
「多分若林くんが興味持ってやってるんじゃないかなぁ。お姉さんはジャムタルトとお茶の組み合わせ何にも言わなかったもの」
「そっか」
アリが男子を褒めていることで何となく居た堪れない気持ちになって、ポットからお茶を注ぐ。元々少し残っていて濃くなったお茶とお湯が合わさって、色は一杯目と同じくらいに戻っていた。
「……苦」
思わず呻いて、カップを置く。
「お茶も鮮度があるからねぇ。時間が経つともっと渋みが出るよ」
「うー……」
ぐいっと一気に煽ったカップの中身は、胃の深くまで沈んでいった。
「お待たせしました」
両側に持ち手が付いたトレーを片手で持って、彼は愛想良く笑った。
さっきと違う野苺柄のティーカップをアリの前に置いて、ポットをくるくる揺らしてからそこへ注ぐ。
「わ、いい香り! これ茶葉は?」
「うーん……色々」
「えっ?」
「僕特製ブレンドなんだ。二杯目はミルクでもどうぞ」
「ありがとう」
「どういたしまして。
城島さんはポット無しの分、大きいので持ってきたから」
ポットとティーカップを下げられて、代わりに置かれたのは浅くて小さめのどんぶりに持ち手が付いているものだった。大きいマグカップのようでもあるけど、よくある円筒形でもないし。
中身はさっき言ってたしミルクティーかな。
「えっ、カフェオレ?」
違ったみたい。
「いやカフェオレボウルだけど中身はチャイ」
「チャイ……」
聞き覚えがある気がするけど何だろう。アリに視線を送ったのに、頭上から答えが降ってくる。
「滅茶苦茶カンタンに言えば、スパイス入りのミルクティー。本来は砂糖もたっぷり使うんだけど、これは城島さんエディションなので砂糖無し。オレンジのフレーバードティーをベースに、ソースで使ってるスパイスと、他ちょっと入れたりして飲みやすくまとめたはず。飲んでみて」
ふたりで揃っていただきますと会釈して、ひとくち。
「んんっ! うまー!」
「……わ。おいしい」
「よかった」
随分嬉しそうに笑うんだなと思った。
そこに特別な気持ちが乗ってるなんて、ボクは考えもしなかったのだ。