003:異なる世界へ
「では、始めよう。お前の精神を、まずはお前が生きている中で一番近い世界に送る。それと、もう少しだけ手助けをしてやろう」
そう言ってアカはさも当然のように宙に浮くと入弦の額に手を当てる。瞬間、入弦の脳に何かが入り込んでくる。
奇妙な感覚だった。今まで知らなかったことが、知る必要すらなかったことが、知ることなどできるはずがないことが、まるで既知であったかのように、常識の一部であったかのようにすんなりと頭の中に入ってくる。
「これ……何を……?」
「所謂念話ができるようにしてやった。もし別の世界で困ったことがあったなら私を呼ぶといい。助言くらいはしてやろう」
念話、所謂テレパシーのようなものだろう。入弦はそのやり方を何度か試して脳内でアカと会話をしてみる。
『これ、聞こえてるのか?』
『上手いものだ、教えた甲斐もあるというもの。活用するのだぞ』
耳ではなく、頭の中に直接響くアカの声にほんの少し動揺しながら少しだけ複雑そうな表情をする。
これだけのことをしてくれるその理由を考え、不安になる。
「……そこまでしてくれるのは、その実験のためなのか?」
「もちろんだ。お前が結果を出せなければ、私は骨折り損というものだ。結果を出してよい報告ができるようにしてくれ」
結局は自分の利益のため。そう言いたいのだろう。言っていることは理解できるし、何より入弦からすればありがたいことだった。
自分の何も知らない世界に放り出されて、どうすればいいのか何もわからない状況で、このような人知を超えた存在に助言をもらえるだけ感謝しなければならないだろう。
「なぁアカさん、俺が助かるのに、どれくらいの世界に行けばいいと思う?」
「こればかりはやってみなければわからないな。一つ終えてみて、それによる変化量を見れば、大まか把握できるというものだが、なにせ一度もやったことがないことだ。出たとこ勝負でしかない」
「空は飛べるのに……全知全能とはいかないもんだな」
目の前にいる少女が空を飛ぶ。それはそれでショッキングな映像のはずなのに、周りのすべてが停止している世界で、そして今にも死にそうになっているという事実が目の前にあるせいで、どうにも感覚がマヒしてしまっているのかそこまで驚くことはなかった。
アカはそんな入弦の言葉に手をひらひらさせながら苦笑いをする。
「全知全能などあるものか。そんなものは童話か詐欺師のうたい文句の中にしか出てこない。それに、そんなものつまらないじゃないか。全てを知っていて、全てを行える。困難などなく、努力もない。達成感もなければ感動もない。全て知っているのだから。全てできてしまうのだから。そんなもの絶望でしかないよ」
きっと、本物の神様が、全知全能の神様がいたのなら、それはとにかく退屈なのだろう。当たり前すぎて、何も苦しくなくて何も楽しくないのだろう。アカはそういった。
知らないからこそ驚きがある。できないからこそできるようになる達成感がある。
知らないからこそ感動があり、できないからこそ苦悩がある。
それらがないなどと、確かに絶望でしかないのかもしれない。
「っと、どうでもいい話をした。ではイヅル、健闘を祈る。だが忘れるな、お前がこれから行く世界は、お前の知る常識とは異なる世界だ。自らの常識を疑え。自らの知識を疑え。自らの過去を疑え。そして、まずは情報を集め、状況を理解することに努めろ」
「わかった。とにかく気を付けるよ。何が起きても不思議じゃないってことだな」
「そうだ。太陽が西から登っても、空が紫色でも、空中を飛べるようになっていたとしても不思議ではない。何がある世界か、それを把握してから動くのだ。良いな?」
異なる世界とはそういうことだ。何かが少しずれたことによってできた世界。今いる世界とは根本から異なる世界。
そんな世界にこれから向かうという事実に、入弦は僅かに身震いしていた。
そして、自分の少し先を歩いていた友人、吉野の方を見て覚悟を決めたように小さくうなずく。
必ず戻ってくる。今度は生きていてもいいような、そんな運命に変えてから。
「心の準備はいいか?」
「あぁ。頼むよ、アカさん」
「よろしい。それでは行くぞ。自分の命を救ってこい」
アカがそう言いながら入弦の額に触れる。
ゆっくりと、意識が沈んでいくのを入弦は感じていた。
目の前が暗くなっていく。見えるのは目の前にいるアカの美しい髪と、その髪の切れ目から覗く金色の瞳。
体の感覚が手足のしびれと共に曖昧になっていく。手先から、指先から、徐々に体の中心めがけて痺れは強く、冷水の中に浸っていくかのように強い刺激を伴って、麻痺していく。
やがて体の感覚はなくなっていき、意識だけがぬるま湯の中に浮かんでいるような感覚に陥っていた。
心地よい、微睡の中にいるかのような感覚に、入弦は意識を失いかける。
目も耳も何も感じていない。だが、だというのに入弦の意識は光を感じていた。
どこかに通じている光だ。その光をたどるように、意識が引っ張られていく。水の中を流れていくかのように、吸い寄せられるように、その方向へと向かっていく。
世界を超えている。今起きているこの感覚が、そういうものであると入弦は確信していた。
光に導かれ、入弦は世界を超える。異なる世界の自分を助けるため、自分の命をつなぐために、交わることのなかった、別の世界へと旅立つ。
次の瞬間、入弦の目に、光が飛び込んできた。