002:運命に抗え
このままだと死ぬ。それは入弦も何となく理解していることではあった。暴走した車が襲い掛かってくるとなれば、ただの人間の入弦がどうにかできるはずもない。
とっさに後方に飛び、その衝撃を逃がすような器用なことができるとも思えなかった。何より、もう車と入弦の間の距離は五メートルとないのだ。
このまま時間が動き出せば、猛烈な勢いで襲い掛かる車は間違いなく入弦の体を跳ね飛ばすだろう。
当たり所が悪ければ即死。運が良ければ骨折程度で済むかもわからないが、入弦自身がそんな都合の良いことになるとは思えなかった。
否、もはや確信に近いものがある。どういう理由なのかはわからない。だが入弦は自分はここで死ぬと、はっきりと理解できてしまった。
「そんなの……だって……でも」
「まぁ待て話を最後まで聞け。私がこうして現れている意味を教えてやろう。私はお前が死ぬという事実に興味を持ったのだ」
「……さっきから、何を……?」
状況が理解できない。何より、目の前にいる少女がいったい何者なのかがわからない。
だが、少女は笑いながら入弦に目を向け、言葉を続ける。
「そうだな、せっかくだ。人間のお前にも理解しやすいように言葉を選ぶとしよう。私は、お前たちがいうところの神のようなものだ。正確にはその使い走りのようなものだがな」
「……天使、みたいな感じ?」
簡単に神みたいなものと言われても信じられるはずがない。だがどういうわけか止まってしまった時間の中で、こうして動き回ることができ、なおかつこれほど威圧感を与える少女を、他にどう表現したらいいのかわからないのも事実だった。
天使か、あるいは悪魔か。どちらにせよ、入弦のこれまでの人生で出会ったことのないタイプの存在であるのは間違いなかった。
「はっはっは、そうだな、お前たちの言葉で表せば、天使や使徒とでもいう言葉が最も適切なのかもしれない。私は……そうか、発音が難しいな……うん、では『アカ』でいい。私のことは『アカ』と呼ぶがいい」
「今髪の色で決めただろ」
「硬いことを言うな。仇名などそのようなものだ……さて、では引き続き話を続けようか」
艶やかで、わずかに濡れているのではないかと錯覚するほどに美しい赤い髪。確かに象徴にしたくなるのもわかるが、名乗るために適当な名前とするにはどうだろうと入弦は思ってしまうが、今はそんなことはどうでもいい。
今のこの状況、そして目の前の少女の目的、それがわからない以上、安心などできるはずもなかった。
「お前は死ぬ。私が気になったのはお前の死についてだ。どういうわけかお前の運命は、必ずと言っていいほどに死に収束している。面白い具合に」
「……不老不死なんていないだろ?人間必ず死ぬ」
「あぁ、言い方が悪かった。お前の運命は必ずと言っていいほど、十五から二十五程度の、若い年代で死ぬようになっているのだ。それが不思議でしょうがない。お前は今いくつだ?」
「……二十歳」
「やはり早いな、面白い」
運命なんて入弦は信じていなかった。未来は行動によって変わるものだし、定められた結果などあるはずがない。あるとすれば生物としての限界くらいだ。
何より、人の死が面白いなどというこの少女にわずかにではあるが苛立ちも感じていた。そしてその感情を読み取ったからか、少女は困ったような、それでいて駄々をこねる子供を見るような笑みを浮かべながら小さくうなずく。
「少し説明の方法を変えよう。先ほど私は運命という言葉を使ったが、実際にはそれは正確ではない。この世界にもパラレルワールドという概念は存在しているが、知っているか?」
「……今の世界とは異なる、別の世界だっけ?違う選択肢を選んだ、枝分かれした別の世界?みたいな」
「そう。それが通じるなら話は早い。お前という存在は、多くのパラレルワールドに存在している。当然他の人間もそうだ。大抵、パラレルワールドの中で、人は生き死にを繰り返す。だがその世界によって、どれだけ生きるか、何を成すか、それは全く異なるのだ。まったく同じなどということはありえない」
「……でも、俺は一定期間の間に、死ぬ」
並行的に存在する、選択肢を違えたことにより発生する似ているが異なる世界。それがパラレルワールドという概念だ。存在こそ確認されてはいないが、その理屈は入弦にも理解できた。
その異なる世界で、異なる世界にいる入弦は、一定の期間に、十年程度の間に必ず死ぬ。その事実がどうかはさておき、今こうして死にそうになっているのは確かだ。
「お前はまだ生きているが、もう死ぬ。先ほど運命という言葉を使ったのは、このパラレルワールドが関係している。この世界のお前は今、他の世界に引っ張られているのだ」
「……ん?んん?」
急に言葉が分かりにくくなったことで、入弦は首をかしげてしまう。アカと名乗る少女も自分の言い回しが分かりにくかったことを察したのか、どういえばわかりやすくなるだろうかと悩んでいた。
「そう!近似値だ!近似値はわかるか?」
「……四捨五入とか……そういうの?」
近似値とは、細かい数字があらわされた際に、真なる値ではないが、それに近い値のことを指す言葉だ。入弦の言ったように四捨五入などもこれに当たる。
あまりにも細かい数字を計算するうえで用いられる方法でもある。だがそれがなぜ今の状況の説明になるのかがわからなかった。
「つまりだ、今お前のいるこの世界、その近くに存在しているパラレルワールドのお前がたくさん死んでいるせいで、世界そのものが『カナドメイヅルは一定年数で死んでいなければいけない』と認識してしまっているのだ。近似値をとるさいに切り捨てられる数字のように」
「……俺四捨五入で死ぬの!?納得いかないんだけど!」
四捨五入で死ぬというのはあまりにも突飛な言い回しになってしまうが、周りの、他の世界の自分が死んでいるから今この世界にいる自分も死ぬ運命をたどろうとしているということに変わりはない。
もちろん、当の本人がそれを納得できるはずもなく、アカもそんな入弦の心境を理解しているからかうなずいていた。
「そう、納得いくまい?だからこそ私がこうして話をしに来たのだ」
「……どういうこと?」
「お前が死ぬ、その運命を変えるチャンスを与えようと思ってな」
チャンス。それがどういうことなのかはわからなかったが、このまま死ぬという確定してしまっている未来をたどるくらいならばと思えてならない。
だが同時に、どうしてそんなことをするのか不思議でならなかった。
「……なんで俺なんだ?」
「ん?今死にかけているのはお前ではないか」
「そうじゃなくて、死にかけてる人全員にそれを言ってるわけじゃないだろ?チャンス?だっけ?それを与えてるわけじゃないだろ?あそこの車の人だって、運が悪ければ死ぬかもしれない。あの人には与えないのか?」
自分だけが特別。そんな都合の良いことを考えられるほど入弦は能天気ではなかった。それだけのチャンスを与えるということは、当然何かあるはずなのだ。入弦を助けるだけのメリットと理由が。
「ふむ……まぁ気になるのは当然か。言ってしまえばこれは実験だ」
「実験?」
「そうだ。どういう理由でお前が強い死の運命に縛られているのかはわからん。意図的にそれを行っている者がいるのかもしれないし、逆に本当に偶然が重なっているだけなのかもしれん。だが、お前という存在が世界にとって何らかの意味を持っていることは間違いない。もしかしたら……ということも考えて、な」
もしかしたら。そこから先の言葉が何なのか、入弦には分らなかった。だが少なくとも何らかのメリットがあるという判断なのだろう。
入弦のようなただの人間には分らない、それこそ、目の前にいる超常の存在のようなものにとってメリットとなる何かが、きっと入弦に関わることで生じるのだ。
「それでどうする?私は強制的にお前を連れて行こうとは思わん。別の世界にいるお前に同じ話を持ち掛ければいいだけの話だ。断るなら、このまま時間を進めて、お前が死ぬのを見届けてやろう」
選択肢などないようなものだ。断れば死ぬ。おそらく高確率で死ぬ。だが死なない可能性が今目の前に提示されている。
片方は死。片方は死を回避できるかもしれない。
このような状況で選ぶことができるような選択肢は一つしかない。
「わかった……わかったよアカ。やる。そのチャンスとやら、やらせてくれ」
「よし。男という生き物はそうでなければいかん。安心しろ、私は人間の苦しむさまを見て喜ぶような趣味はない。私のチャンスをものにすれば、間違いなくお前は助かるだろう。あぁ、念のため言っておくが、別世界ではなくこの世界のお前自身という意味だからな」
「ありがとうよ……っていうか……その……あんたは……あなたに対しては敬語を使ったほうがいいんですかね?」
今まで当たり前のように普通の言葉を使っていたが、見た目は少女でも人知を超えた存在のような彼女に対してため口をきくというのもまた失礼な話なのかもしれないと、入弦は今更ながら、ようやく冷静になってきたことでそう感じることができた。だがアカはまったく気にした様子はなかった。
「ん?構わん構わん。あいにくと信仰されるような存在ではないのでな。敬語を使われんからと言ってへそを曲げるほど狭量ではない」
「そ、そうか……じゃあ、アカ……さん?チャンスっていうからには、俺は何かをするんだろ?」
ただ命を救われるということではない。アカはチャンスを与えるといったのだ。つまり何かしらの試練のようなものを突破する必要がある。
死を乗り越える試練、などと言えば聞こえはいいが、一体何をさせられるのかわかったものではなかった。
人知を超えた何かをさせられるのは間違いない。自分にそんな試練を乗り越えることができるのだろうかと入弦は少々不安を覚えていた。
「うむ、ではそのあたりを説明しよう。お前はこれから、なるべく近い、まだお前が生きている世界に向かう。そこで、お前は自分自身を救ってくるのだ」
「……え?それだけ?」
「それだけというがな、先も言った通り、お前はどういうわけか一定の年代で死ぬような運命をたどっている。それが意図的か偶然なのかどうかは不明だがな。それと、その世界に行くのはお前の精神だけだ」
「精神だけって、それでどうするんだよ、何もできないんじゃ……」
「うん、言い方が悪かったか……今のお前の精神を、他の世界にいるお前自身に宿らせる。死の運命を知ったお前を送ることで、その死を乗り越えることができるかもしれない」
「かもしれないって……っていうかそんなことで、今俺がこうして死にそうになってるのを何とかできるのかよ」
確証のない言い回しに入弦は不安を強くしていく。自分の肉体ではなく、別の世界にいる自分の肉体を使って死の運命を回避する。
それは確かに良いことかもしれない、別の世界にいるとはいえ自分自身だ。死なれるのは何というか目覚めが悪いのは十分に理解できる。
だが、それがこの状況を何とかする方法には思えなかった。
「先ほども言っただろう?お前の死は、他の世界のお前が死にまくっているせいで、世界そのものが近似値を取ろうとしていると。つまり、この世界の近くにある世界でお前が死ななければ、世界の取ろうとする近似値がずれる可能性がある、ということだ。お前を死なせる値から、お前を生かす値に」
それはつまり四捨五入の原理で言えば四と五の境目のようなものだ。あと少し上がれば五の値となり繰り上がるか、今のままなら四の値となり切り捨てられる。
数多の世界で、京入弦が生きている世界があればあるほど、他の世界でまだ死んでいない別の京入弦も助けることができる可能性を秘めている。
今こうして死にそうになっている、この運命からも、逃れることができるかもしれないということなのだろう。
「ただし、近いとは言っても、最寄りの世界ではない。お前が死にまくっているせいで、割と遠い世界にも飛ばすことになる」
「その、近い遠いっていうのがよくわからないんだけど」
「近い世界であれば、今いるこの世界とさして変わりはない世界だ。だが遠ければ遠いほど、この世界とは異なる世界となる。歴史、文化、時代、技術、人種、物理法則すらも異なる可能性がある」
「そんな世界でも、俺はいるのか?」
「いる。そこがまた面白いところだ。全ての世界でいる人間というのは、まぁ割といるが、その中でも特異な運命を背負っているということだ」
異なる世界。物理法則すら違う可能性がある限りなく近いが世界で、自分自身を救う。それが一体どのような意味を持つのか、入弦はまだわかってはいない。
だが、それをしなければ死ぬのだ。それをするだけの心の準備もなにもできてはいないが、やるほかなかった。
「それをすれば、助かるかもしれないんだな」
「そうだ。あくまでかもしれない、だ。それでもやるか?」
「やるよ、やらなきゃ死ぬんだろ?ゼロから少しでも変わるなら」
死にたくはない。助かるためなら人ならざる、神でも悪魔でも頼ってやると、入弦は意気込んでいた。