「怖い」ということ
「ヤベー! でっけぇ蜘蛛の巣あんじゃん。ユウタ先に行って取ってくれぇ、頼む」
「おいおい、マジか。タカアキは昔から、蜘蛛怖がり過ぎなんだよなぁ」
家中の至るところに蜘蛛の巣が張り巡らされている。
二つの懐中電灯の頼りない光が、この家と同じく、疾うの昔に占有者のいなくなった埃っぽい蜘蛛の巣を照らしている。
ここは地図にも載っていない廃村の一番奥に位置している古い日本家屋だ。
昔、家族から理不尽な虐待を受けていた統合失調症患者の女が、一家を皆殺しにした末、本人も首を括って死んでしまったという曰くがある。
家財は殆ど朽ち果ててしまっていて、唯一原型を留めている小箪笥の上には数体の日本人形達が置き去りにされている。その整然と横並びになって和室を眺め続けている様子を見ていると、まるで人形達が生きているような気さえしてくる。
ここで怖い話をしようものなら、きっと雰囲気が出過ぎて怖さが倍増される事だろう。
「いやぁ助かるわ、ユウタ。蜘蛛怖ぇー。幽霊より怖ぇー」と、タカアキが気恥ずかしそうに顔を綻ばせている。
「そんなに怖いかねぇ、蜘蛛。ってか怖いって感情は一体何なんだろうね」
「知らねぇよ。……まぁ、どっかで聞いたことあるんだけど、人間って分からないものに恐怖を抱きやすいんだってさ」
「分からないもの?」
「ユウタ、こっち振り返ってみ?」
すると、タカアキはさっきまでの柔らかな表情とは打って変わって、硬直した無表情で私をじっと睨んでいた。
「おいおい。どうしたんだよ、急に」
タカアキの視線は、私の目の奥に潜む何かを刺し殺すように鋭く、しかし、その表情からは感情が一切読み取れない。それは怒りなのか。それとも感情というものが抜け落ちてしまったのか。
「どうしたんだって!」
「……」
「何を見てんだよ!」
「……」
「おいって!」
「……ハハッ! ビックリした?」
「な? 一緒にいた奴が、理由も分からず急に様子がおかしくなったら怖いだろ?」と、明るい口調を取り戻したタカアキがニヤニヤと笑っている。
「怖ぇよ、マジで。何考えてんのか分かんなかったし」
「ハハハッ! スマンスマン! おっ、ユウタユウタ! そっち階段あんじゃん!」
「階段?」
その階段は大きく崩れてしまっていた。二階に上がって廊下の突当たりの部屋が前述の自殺部屋なのだが、物理的に上に行けそうにないので引き返すしかなさそうに見える。ふと見上げると、二階の闇の中から私以外の得体の知れない何かがこちらを睨んでいるかのような薄ら寒い感覚さえしてくる。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ、というフレーズが脳裏に思い浮かんだ。
「我々が二階を覗く時、二階もまたこちらを覗いているのだ」
「ヤダ、こわ~い」と、タカアキが戯けてみせる。
「何故、急にオネエ口調?」
「いやさぁ、さっきの話に戻るけどさぁ。はっきりと分からないものとか理解できないものって、確かに怖いよなぁ」
「何? オネエの話?」
「違ぇよ! ありきたりだけど、人の死とかさぁ」
「あぁ」
「死後の世界が存在するかしないかはこの際置いとくとして、やっぱり永久に意識が失われるって感覚は、俺、やっぱり怖いと思う」
「確かになぁ」
「逆にこの感覚が科学の発展とかで明確にされて、実は死後の世界も悪いものじゃないよってなっちゃえば、人の死っていう概念が怖くなくなってしまうのかもなぁ」
「ホラー映画とか怖い話でよく出てくる長い髪の女の幽霊とかも怖くなくなっちゃったり、どこまでも追いかけてくる系の」
「うんうん」
「哲学っすなぁ、よく分からんけど!」
夏の虫が鳴いている。真夜中の山というロケーションは、昼の街に生きる人間達とは対極にあるのかもしれない。
台所に入ると、饐えた臭いがした。
窓が板で打ち付けられており、割れた皿や錆びた鉄鍋が流し台に散らかされている。
「お! 包丁あんじゃん!」
今タカアキが手に取った包丁には、恐らく家族の腹を刺した時の血液が付着している筈だ。
「うわっ、見て! これって血かなぁ?」
「どうだろ、錆びてるだけじゃないかなぁ?」
「怖いなぁ」
「もしさ。それが血だったらどうする?」
「えー? 大袈裟に驚いた後、不意に我に返って、包丁をそっとシンクに戻す」
「ハハハ、なんだよそれ」
夏が到来してからというもの、最近は夜だというのに気温が高い。
タカアキの首筋には、汗か冷や汗かよく分からないものが浮かび始めている。
「なぁ、タカアキ。今、俺達が話してる怖さってさぁ、何か理屈っぽい怖さじゃない?」
「そうかな?」
「俺、もっと理屈を越えた怖さってのもあると思うんだよね」
「例えば?」
「例えば……、コレとか!!」
こっそりポケットに忍ばせていた大蜘蛛の精巧な模型を掌に乗せ、もう一方の手に持った懐中電灯でそれを照らしながらタカアキの顔の前に持っていった。
「うぉおおお! タランチュラ!!」と、タカアキがオーバーリアクション気味に大きく仰け反り、壁に手をつく。
「ハハハ、さっきの仕返し!」
「怖ぇー。蜘蛛怖ぇー」と、タカアキが放心状態で呟いている。
「玩具だよ。玩具。ハハハ、ビビり過ぎ!」
「やべぇよ……ユウタやべぇよ……」
「色んな恐怖症に言える事だけど、これは理由が分からないから怖いっていうより、理由なんて無いけど純粋に怖いって感じじゃない?」
「……いや、そうかもしれないけど。俺、蜘蛛が苦手な理由は分かってるんだよ」と、タカアキが苦虫を噛み潰したような、露骨に「嫌」という表情を作った。
「何? 理由って」
「……内緒。昔、ちょっとあってね。まぁ、軽いトラウマみたいなもんだよ」
「トラウマ?」
タカアキが勢いよく手をついた壁には、血痕のような染みが見られる。
しかし、この暗がりの中では判然としない。
「まぁ確かに、ユウタが言うように、恐怖症とかトラウマとか、生理的嫌悪感みたいなものも、大きな括りでは怖いっていうジャンルに入るのかもしれんなぁ」
「血が出る拷問とかさぁ。結果的に死なないパターンでも、仮に自分がされたら嫌だなどうしようみたいな感覚で怖いと思うって事も珍しくないからねぇ」
「あぁ、分かるわぁ。最近ホラー作品でも、そういう想像するだけで嫌になってくるような拷問系、よくあるよな」
「うんうん」
何故か虫の声が一斉に止み、静寂がこの空間を支配する。耳を欹ててみるが、二階からは何者の気配も感じられない。感じられるのは、この場にいる二人の息遣いだけ。
「そうそう! あとさ、メタ系の奴も結構恐くない?」
「メタ系って何?」
「作品の中にあるフィクションの世界に没入してた筈なのに、物語の最後の最後で、この話を聞いた人はナントカカントカって、いきなりこっちのリアルの世界に影響及ぼしてくる系」
「ハハハ、あるある! 怖いんだよなぁ、あれ! 話の終わりになって急に作中の化け物とかが読者に語りかけてくるパターンとか」
「ハハハ!」
蜘蛛の巣に生きた蛾が捕らえられている。
二つの懐中電灯の頼りない光が、この家と同じく、疾うの昔に占有者のいなくなった埃っぽい蜘蛛の巣を照らしている。
「なぁ、ユウタ。一階をぐるっと見回ったけど、結局どこにも幽霊なんていなかったじゃん」
「うーん。噂は噂か、やっぱり」
「そもそも、どんな噂なんだっけ?」
「いや、よく分かんないけど、女が一家惨殺したとか、自殺したとか」
「どっちだよ!」
「知らねぇよ。とにかく出るんだって、その女が。ネットに載ってた」
「嘘臭ぇーー!!」
「実は二階がヤバかったとかかなぁ?」
「二階?」
「そもそも家を間違えたのかも」
「ハハハ、なんじゃそりゃ! まぁ、もうそろそろ帰ろうぜ!」
「……そうするか」
玄関は固く施錠されているので、先程侵入してきた裏の勝手口まで戻らなければならない。
外に出れば、きっと月の光が優しく照らしてくれることだろう。
しかし、彼らは知らない。
この家は間違っていなかったという事を。
彼らは知らない。
ずっと私から見られ続けていたという事を。
そして、彼らは知らない。
もう二度と、ここから帰ることができないという事を。