第九十五話:決戦前夜
少し肌寒い夜。
悠達は既に行動を終え、夕食まで終わらせていた。
しかし、今日という一日は今までのそれとは少し違っている。
皆、何も喋らなかった。険悪さは、存在しない。だが夕食の時、前日のあまりの馬肉を使ったステーキを前にしていた時のような和気あいあいとした空気はなく、誰しもの雰囲気が少しずつ張り詰めていた。
その理由は、単純だ。
視界のはるか先に存在する、天を貫くような──といった表現が、既に天の上に存在するここネーデで適切かはわからないが、他に表現が見当たらないほど巨大な樹。
悠達の視線を捉えて離さないそれは『世界樹』と呼ばれている。あの巨大な樹にただ一つのみ果実を──『全知の実』を付ける、マオルの至宝。
そこはディミトリアスが悠達を待つ玉座であり、悠達の旅の終わりとなる場所だった。
──決戦前夜。旧知の仲である友人と世界の行く末を決める戦いを前に、悠達はそれぞれ想いを馳せていた。
大なり小なり、誰もがディミトリアスに対して思うところがあった。
それは当然で、比較的付き合いが短いシエルでさえ、ディミトリアスを優れた為政者として捉えていたからだ。
彼女はディミトリアスをどこか遠い人物だと考えていた。それは、悠達の中で最も一般人に近い視線でディミトリアスを分析している。
貧しいものにはパンを分け、富めるものには意志を尊重しつつも助け合いの大切さを説く。善人を評価し、悪人を憎む、良い意味での大人物だ。
一方で、陽気な青年としての顔も知っている。公私混同せず、熱い正義の心を持った人物だと、そう思っていた。
そういう意味では、付き合いが短いからこそこのディミトリアスの凶行は、シエルにとって衝撃的だった。
……だが今は、倒すべき敵として認識している。一時は『極圏』に一人で挑むなど、自暴自棄なまでの行動をしていたシエルだからこそ、大切な今を守りたいという思いは人一倍だ。
静かにツールのチェックをするその瞳は、今研ぐナイフの様に鋭かった。
そんなシエルとは逆に、最も付き合いが長いからこそアリシアは困惑している。
ザオ教の暗部で暮らしていたアリシアは、ディミトリアスに黒い部分があるのは知っていた。悠にその力やマオルの痕跡を隠すように進言したのも、彼女だ。
だが最も付き合いが長いからこそ、その人となりを理解していたのがアリシアで、今回の行動が信じられないのもまた彼女だったのだ。
良くも悪くも、ディミトリアスには器用と不器用が同時に存在すると考えていた。ザオ教の闇を隠す手腕、その上で存在自体が噂話程度の『スキル』を高いレベルで解き明かす統率力、そして公には本性の明るい青年をおくびにも出さない仮面のかぶり方。
その器用さに反して、ディミトリアスの性格はただただ不器用だ。
悪人を憎まずにはいられないし、悩める善人と共に苦しまずにいられない、本物の人格者だ。この暴走は、その不器用なディミトリアスが顕になった結果となる。
こういう事が起こり得ないと思っていたか、といえばアリシアは否と答えるだろう。だが、スキル研究の犠牲となった子どもたちの親であり兄であった彼を知っているからこそ、嘘だと願いたい今がある。
ディミトリアスをよく知るものといえばカティアもそうだった。
騎士としての主従だけではなく、その人となりを知る程度には信頼を置かれていた彼女に取って、ディミトリアスとの敵対は本来心苦しいものである。
だが騎士として仕えていたからこそ、ディミトリアスへの評価は公正だ。許せない事をした彼に憤りつつも、為政者としては非常に優れていた彼を失うのは、大きな損失だと考えている。
……それでもカティアが今、シエルのように武器を磨いているのは、彼女が本当に命をかけるべきだと思っている人物が他にいるからだ。
自分の命を救ってくれた悠。その時から、失われていたはずの命を彼に捧げると決めた。様々な思いがあるからこそ、カティアは今功罪を共にすべく、一振りの──悠のための剣であろうとしている。
公正故に身内の断罪を誓ったカティアに対して、身内を殺されかけたクララは被害者の立場にある。
その思いは複雑だった。マオルの人々を無気力へ追い込み、その生命を消耗させようとしたことは許せない。だが、こうして自分がネーデにいるには、ディミトリアスのバックアップも必要だったと理解している。
仇敵でありながら恩人である、というのは、クララに困惑をもたらしていた。
それに、疑問に思っていることもある。クララは自分のことをひたすらに『特別ではない』と思っていた人間だ。『特別である』人の象徴としてのディミトリアスは尊敬していた。
自分で未来を変えていける力があったのに、何故道を間違えてしまったのだろうと、不思議に思っていた。
……だが、今では少しだけ理解が出来る。多分彼は皆を救おうとしていたから、その両手で抱きかかえようとしたから、自分一人になってしまったのだと。
だから考えを改めさせるようとする人がいなかったし、誰にも悩みを話せなかったのだろう。
怨敵となるはずの彼にそう想えるのは、やはり悠達の存在があった。自分が間違ったらきっと悠達が正してくれる。そう確信しているからこそディミトリアスを──悪いと思いながらも哀れんだし、機会があれば正したいと思う。
そして、悠は──
ふっと何でもないように立ち上がって、岬となった丘へと向かった。
岬の先端はちょうど世界樹を指していて、そこから見える巨大な樹は、まるで魔王の城のようだと思った。
悠は正直に言うのならば、まだ少し迷っていた。
それは、この世界の住民ではない悠が、ディミトリアスに対して最もニュートラルな目線で接していたからだ。
主従のカティアとも違い、非保護者としてのアリシアとも違い、民衆としてのシエルとも違い、被害者としてのクララとも違う。
友人として、ディミトリアスと接していたからこそ、迷っていた。
あの大樹にたどり着けば、自分はきっとディミトリアスと戦わなければならない。それが、まだ嫌だったのだ。
「世界樹、おっきいよねえ、何年くらい生きてるんだろうね」
冷たい風に鼻先が冷えたのを感じると、ふと温かさを感じた手に、振り返る。
クララだった。握られた手は暖かく、空いた手には湯気を立てるマグカップが握られている。
「クララ。……さあなあ、千年とか二千年じゃねえと思うぞ。マオルの謎技術だと、もっと短いかもしれんけど」
「んふふ、だよね。私も、マオルの人なら樹を成長させるくらい出来るんだろうなーって思ってた」
「はは、まあ何のために、って思うと不思議だけどな」
差し出されたマグカップを受け取ると、クララは地面に座り込む。手を握られていた悠は、クララの手を楽にするため、自分も腰を下ろした。
また、沈黙が流れた。けれど、重なった手から温かさが伝わってくるからだろうか。不思議と、心地が良い空気だ。
「迷ってる?」
少しだけ間を開けてから、クララが呟いた。
当然自分に向けられた言葉だと知る悠は、答える。
「ん、大分な。クララ達には悪いけど、やっぱアイツは気が合う友達だと思ってるからさ。今もできれば戦いたくねーな」
「そっかぁ」
不思議と、二人の調子は軽かった。言葉に込められた気持ちが軽いのではなく、言いづらいことがすんなりと言えるような、心地よい距離感だった。
「けど、やっぱそれじゃダメなんだとも、思ってる。なんつーか……皆には悪いんだけど、友達相手でも間違った事言ってるなら違うって言わなきゃいけないみたいな、そんなカンジだ」
「なんとなくはわかるよ。私はちょっと……今はあの人を友達って言えないけど、今からでも止めてくれたらなあって」
「そうそう、純粋なド悪人に同じことやられるより嫌みたいな、な」
抽象的に紡がれた言葉に、クララは微笑みながら頷いた。
その柔和な笑みに、憂んだ心が晴れてくる。
「……ここまで来たら、話し合いで解決するのはムリだ。それはわかってた。……それでも迷ってたんだけど、なんかちょっと吹っ切れた気もするわ」
自然と、悠はそう口にしていた。
「だからって、友達をやめるわけじゃない。野蛮かも知れないけど、人間不器用だし、殴り合わなきゃわからねぇこともあるんだ、多分。世界かけてやることじゃねーかも知れないけど、やっぱり俺は戦争じゃなくて喧嘩がしたい。……詭弁かも知れないけどな」
それが単なる言葉遊びかも知れないと思いつつも、悠は自分の気持ちを表現した。
……クララは、それが詭弁だとは思わない。
先程まさに考えたのも、悠の言っていることと同じだったからだ。
一人で未来だけを見て歩んできたからこそ、暴走したディミトリアス。しかし彼は、あえて『試練』という言葉を使って、世界の命運を悠達と分とうとした。
クララは、彼がそれを一緒に考える仲間がほしかったのだと、今はそう捉えている。
「ううん、私も、あの人に必要なのはユウが言ってるような事だと思う。……ねえ、さっきなんでマオルの人が『世界樹』を作ったのかって聞いたでしょう?」
すっと気持ちよく立ち上がってクララは世界樹を見て、悠へと振り返る。
「きっと、マオルの人達も寂しかったんだと思うよ。周りに仲間の人がいても、このずっと続く夜の空が、怖かったんだと思う。……そんな自分たちを、大きな存在が見守ってくれているって、安心したくて、あの樹を植えたんじゃないかな」
その顔には──クララを見慣れたと思っていた悠が、思わず真っ赤になるほど魅力的な笑顔があった。
だが見惚れながらも、悠はクララの言葉を一言も逃さずに聞いている。
ちょっと迷ってから、クララは続けた。
「でも私は、寂しくないよ。ユウ達皆がいるから。……ユウが、いるから。私はユウが好き! ちょっと食いしん坊だけど困ってる人を見捨てられなくて、いつの間にか皆の拠り所になってるユウが、大好き!」
そう告げるクララの顔は、この星空の世界に急に太陽が登るようだった。
照れずにそう言えたのは、恋愛ではなく親愛の感情から出た言葉だから? 違う。自分が悠を好きなことを、少しも恥ずかしく思わなかったからだ。
「お、あ、おま……いや、その。……俺も、好きだ。皆好きだけど、この世界で初めて会って、初めて俺を認めてくれたクララが、好きだ」
悠も、自分の気持ちには恥ずべきところはない。それでも初な現代人だから、顔をいっぱいに赤く染めて、なんとかそう返した。
白い歯を見せるクララの笑顔を、直視できない。眩しい笑顔というのはこういう事を言うのだろうか、なんて益体もないことを考える。
だが、悠を圧倒するクララもノーダメージというわけではない。想いを伝えあった『その先』の事を考えて、赤くなった。
「あ、はは。すごい嬉しい。あ、で、でも大きな事の前にこういうのってあんまり縁起良くないらしいからちゃんとしたのは全部終わってからで……! って、これじゃ余計だめかも……? ど、どうしよう!」
しどろもどろになりつつその時を先延ばしにするクララの言葉を聞いて、悠はこっちの世界にも死亡フラグ(そういうの)ってあるんだなあと妙に感心した。
それで少し冷静になれたからだろう、悠は立ち上がったクララを追いかけるように、そばへと歩み寄った。
「……この後で、っていうの。こっちでもダメなんだな」
「あ、う……ん」
「じゃあさ──」
大きな大きな樹を背景に、二人の影が重なる。
五秒か、十秒か。それくらいの時間だったが、今までの人生の長さに匹敵するくらい長く感じる時間。
それだけをたっぷりと共有してから、影が離れた。
それでも、まだ名残惜しくて、悠とクララは見つめ合う、目を離さずに居続ける。
「ねえ、良かったのアレ。あなた達も結構、その。気になってたと思うんだけど」
──その遠くで、低木に隠れて影絵を見る者が三人。
妙にそわそわとしながらも落ち着いたトーンの声が、他の二人に問う。
「……彼が選んだ選択なら、それに異議はない。クララはいい子だし、喜ばしいとさえ思うよ。まあ私はどの道ユウへ忠義を誓った身だ、行動をともにする限り、今までと変わらんさ」
「ふくざつはふくざつですが、しゅくふくはしますよ。……マオルぞくのはなよめは一人とはかぎらないそうですし」
「潔いふりして未練たらたらじゃない」
さも当然、とでも言うように語る二人に、シエルは苦笑を漏らした。
口ではどう言っても、地獄の底まで着いていく気満々らしい。
ユウも大変だ──と思うのは他人事ではなく、極めて近い位置からの同情心だ。
「でも、ふうん。そうなんだ」
何がと聞くのは無粋だろう。蠱惑的に微笑みながら、シエルは笑みを浮かべた。
あるいは──悠は今、世界の危機なんかよりもよほど大変な状況に身を置かれているのかも知れない。二人の世界に入り込む悠はそれに気がつくことはなかったが。
他ならぬ自分のルーツが、恋の形のそのあり方を認めていると知った時、クララはどうするだろうか? ……意地悪ではなく、興味からシエルはそう思うのだった。
とはいえ──負けられない理由も増えた。精算も済ませた。
後は戦うだけだ。世界をかけて親しい友人と戦う覚悟を決めた悠は、今彼の人生で最も勇敢な目をしていた。
……が、本人の知らぬところでもう一つ、大いなる選択を迫られていることなど、彼は知る由もなかった。
最後の夜が、更けていく。




