第八十八話:遥か彼方の故郷にて
そわそわ。
そわそわそわ。
そんな擬音が見えそうなクララを見つつ、悠達は時々顔を見合わせて苦笑いしている。
時計の針は、もうじき約束の時間になる。
もしかしたら血縁関係にある者かもしれない──ガトゥムがセッティングした出会いに、クララは今緊張の限界にあった。
身を縮こまらせて、常に身体を動かしている。借りてきた猫のようだなと思いつつ悠が席を立つと、クララは何かを訴えかける様な視線で、すがってくる。
「お茶淹れてくるよ。みんな飲むだろ?」
暖かいものを飲めば、ちょっとは落ち着くだろ。問う悠に、クララは控えめに首肯を返す。
いつも天真爛漫! ……という様なキャラではないにしろ、最近ではそれなりに活発になってきたクララがここまでなっているのを見ると、よほど緊張しているのだなと察することが出来る。
悠は台所へと向かうと、ヘレムに来てからよく飲んでいる豆茶を淹れ始めた。
素朴で優しい、甘い香りはその暖かさと共に心まで温めてくれることだろう。
……などと考えていると、ノックの音が響く。
「約束の時間ですので、失礼する」
どうやら、来たようだ。ぴゃ、と短く悲鳴を上げるクララの声に笑い声を漏らして、悠は用意するコップの数を増やした。
ついでに、茶菓子も持っていこう。炒った豆のかすかな塩気は、原料を同じとする豆茶とよく合うのだ。
お茶の一式を揃えて盆にのせ、悠はリビングへと戻る。
するとそこには──
嗚咽を漏らすクララと、同じく涙を拭う、見慣れぬ女性の姿があった。
……どうやら、無関係な人だった、という訳でもないようだ。
見るに、この出会いはきっとよいものだったのだろう。自然と柔らかい笑顔を浮かべて、悠はお茶を配膳していく。
「どうぞ、豆茶です」
どうやら、簡単な話でも無いだろう。お茶でも飲みながら、時間をかけて話せばいい。
折角ここまで来られたのだから、急ぐ必要なんて無いのだ。
クララの背を優しく叩いて、悠はクララの隣に座った。
◆
「へえ……じゃあ、ええと、テレサさんはクララの叔母さんに当たる方なんですかね」
「おそらくはそうだと思います……クララさんは、姉の幼い頃の生き写しですから……」
それから少しして。まだ眼を赤く腫らしながらも、テレサと名乗る中年の女性はぽつりぽつりと、事情を語り始めていた。
クララも少し落ち着いたのだろう、鼻を鳴らしているが、気持ち自体は落ち着いているように見えた。
「姉と私は、かつて地上で暮らしていました。私達が若い頃は、まだマオル族という存在が希少な存在ながらも不思議な力を持つと知られており、同じ場所に長く留まること無く、各地を点々と移り住んでいた事を、覚えています」
きっとそれはテレサにとって、辛い記憶なのだろう。安住の地がなく追われ続ける生活は、悠には想像できない。だが自分も一歩間違えばそうなっていたと考えると、決して他人事とは言えないことだ。
「ですがある時、暫く平穏が続いたのです。姉はその最中に一人の男性と結ばれ、そして子供を身ごもりました。……それが丁度、クララさんの生まれた頃のお話になるでしょう。追手もなく、男性も優しく、姉は幸せそうでした。いいえ、幸せだったと思います」
クララが生まれた頃、というと十七年から十八年ほど前の話になるのだろう。
幸せだった。そう、過去形で言葉を切ったのは、決して経過した時間だけがそうしたのではないだろう。
「ですが──丁度女の子が生まれた頃、長らく平和だった私達を、マオル族として狙う者達が表れました。何分、急だったことです。私と姉はそこで別れる事となり、今まで会えていません。マオル族狩りとも言われる、私達を狙う事件が増えた時期のことです。おそらくは、姉とその夫はもう、この世にはいないでしょう」
語るに連れ、テレサは表情を沈ませる。
まだクララが、彼女の縁者であるという事は、確実とは言えない。
それでも、ほぼ間違いないだろうとは誰もが思っていた。だからこそ、その両親がこの世に居ないだろうという告白は、空気を重苦しいものへと変えていた。
だが、クララは気丈に前を、テレサを見据えていた。テレサとクララの眼が合う。
「本当に、クララさんは姉と似ています。姉は短い髪型を好みましたが、その長い御髪をしてなお、生き写しと思えるほどに。……ここへ来たのは、自分の思い出への決着のためでした。マオル族が地上からヘレムにやってくるのは、本当に久しぶりのことです。……次にやってくる方々の中に、姉の姿がなければもう会うことはないのだと、そう考えていました。……やってきたマオルの者は、少女だと。そう聞いていたから、これですべてが終わると思っていました。しかし──」
再び、ヘレナの眼から涙が落ちる。
「そこに居たのは、クララさんでした。ひと目見て、姉だと錯覚し、二目見て、あの時の赤ん坊なのだと、気が付きました。……本当に、ありがとうございます。姉が遺した子供を見ることが出来て──クララさんのお陰で、私は最も良い形で自分の思い出に決別が出来るのだと、そう思います」
現実であることを確かめるように、テレサはクララの手を握った。
クララは──涙を浮かべながらも──微笑む。その表情が姉に似ているとして、テレサは涙を流す。
「私も──テレサさんに会うことが出来て、良かったと思います。お母さんに会うことが出来なかったのは、やっぱり寂しいけれど──誰も知らない私の生まれを、両親の存在を保証してくれるのは、霧が晴れるような気持ちです」
追い求めて得たそれは、ハッピーエンドだとは言えなかった。
それでも、クララとテレサの邂逅は、お互いにとってかけがえの無い価値があるものだった。
「今度、お母さんのことを教えてくれますか? 私はまだお母さんのことも、お父さんの事も、何も知りませんから……」
「ええ、ええ……! 私の知っている限りのことを、お話します。だから、知ってあげてください。貴方のお母さんが、どれだけ優しい人だったかを。貴方のお父さんが、どれだけ姉のことを愛していたのかを……」
歩み寄って、抱き合った二人は、穏やかに眼を細める。
……確かに、似ている。悠達は、皆ふとした拍子にそう感じていた。
言われてみれば、というわけでもなく。自然に、そう思っていた。
「ガトゥムさま、ありがとうございます。これで、悪夢に苛まれることもなさそうです」
「ああ。甲斐があったな、テレサ。そして、クララも──ありがとう。立派に育ってくれて、我々に顔を見せてくれて。ユウ殿達も。今、貴方方のお陰で我々の同胞が一人、救われました」
立ち上がって、深く頭を下げるガトゥム。
悠達は必死に頭を上げさせて、クララの元へと集まる。
肩を抱いて、悠は胸を張って言う。
「仲間ですから、こんくらいは、なんてこともないです」
その言葉に、クララは涙ぐむ。けれど、泣かなかった。
この場合笑うのが適切と知っていたから。
それから少し、沈黙が流れた。だが、皆穏やかな顔で微笑んでいる。
「……そうだ! そういえば、ガトゥムさんにお渡しするものがあったんです」
だがふと、クララが手を叩いた。
疑問符を浮かべるのはガトゥムだけではなく、この場全員だ。
ごそごそと自分の荷物を漁ると、クララは一つのペンダントを取り出した。
「『輝きの台地』っていう極圏で、見つけたんです。……平穏な生活を望んだけれど、どうしようもなくなってしまったマオルの人の、形見です。どうか、この街に居場所を作ってあげてくれませんか?」
「これは! ……この功績は、一生忘れられずに讃えられるべきものだろう。同胞の魂を、君は救ってくれたのだ。重ねて、深く感謝する」
今度はもう、ガトゥムの頭を上げさせることは、悠達の誰にも不可能だった。
マオル族の人は、仲間を想う気持ちが強いらしい。
無念のまま亡くなった同胞に思いを馳せ、涙を流す。
その魂は──きっと今、救われたことだろう。
「我々に出来ることがあれば、気の赴くままに仰ってください。力を尽くすと約束いたしましょう」
「い、いや……大丈夫ッス! 本当に、大した事はしてないんで……!」
「いえ、そう言われてしまっては我々マオルに立つ瀬がないというもの。ここは一つ……」
これもまた、民族の基質だろうか。
悠達の功績を大恩とし、なんとしてでも報いようとするガトゥムと、それを固辞する悠。
奉仕を願うガトゥムと、気安くしてくれることを願う悠とは、本来逆が正しいのではないかと、カティア達は苦笑する。
ふと、クララはテレサと顔を見合わせて笑った。
叔母と笑い合う。その笑顔は──なんとも、自然なものだった。




